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おバズりはご遠慮願います 第1話

あらすじ

「バズりは嬉しい、でも困る!」
化粧品会社勤務の琴吹心(30)は需要と配給を管理する部署に在籍している。欠品にならないように調整しているのだが、新商品のリップが突然SNSでバズッたらしい。原因は海外の人気ロックバンドが投稿した一枚の写真。そのバンドは知らないけれど、メンバーの一人に見覚えがあった。30歳の誕生日、突如現れた謎の美男子と非常に似ている。彼は子供の頃、心にプロポーズをしたがキャリアウーマンの夢がある彼女に振られたらしい。「でも30歳まで独身だったら結婚してくれるって言ったよね」「そんなの記憶にございませんが!」
◆三十路女子が年下美男子に振り回されつつも仕事に奮闘するお仕事コメディ。

本編

「大きくなったらなにになりたい?」

子供の頃、大人から何気なく問いかけられる質問が嫌いだった。だって彼らは子供らしい答えを期待しているから。
お花屋さん、ケーキ屋さん、お嫁さんなどと理想的な答えが出る中、幼稚園児だった私の答えはいつも同じ。

「キャリアウーマン」の一択のみ。

自立して自由でかっこいい大人の女性。踵が高い靴を履いて、綺麗な口紅がよく似合う。そんな働く女性に憧れた。問いかけてきた大人たちは不満だったようだけど、ドラマに出てくるような働く女性に憧れてなにが悪い。

けれど成人歴が十年も経てば、現実は理想通りにはいかないことを知っている。

「ハッピーバースデートゥーミー……はあ、今夜もビールがおいしいわ」

マンションのベランダでひとり缶ビールを開ける女――私、琴吹心は今日でめでたく三十歳になった。

「仕事終わりのビールがしみる」

誕生日だからと言ってディナーに誘ってくれる彼氏はいない。しっかり残業して、今夜の晩餐もスーパーで値引きされたパック寿司とお惣菜が少し。
欲を言えば回らない寿司が食べたい。ひとりではなく誰かと一緒に。

静かな夜は感傷的になりやすい。BGM替わりに流すテレビのCMでは、同業他社の新色リップが流れていた。

「CM女王を起用できるなんてすごいなぁ。予算どれだけあるんだろう」

新卒から化粧品会社に勤務して早七年。子供の頃に憧れたキャリアウーマンと現実の私は程遠い。

高いヒールを履いて出勤なんて早々に諦めたし、入社式以降スーツを着たこともない。
服装の規定がないのは楽だけど、子供だった私が今の私を見たら「なんか違う」と言われそう。
自立と自由を愛し、親にも男にも頼らない生活は理想通りだけれど。キラキラしたお姉さんとは言い難い。

「……ちょっと冷えてきたな。部屋戻ろう」

まだ暑い日もあるけれど、秋に近づきつつある十月の初め。そろそろ夏用のスキンケアでは物足りなくなりそう。
肌への水分補給はできても、心の栄養はどうやって補ったらいいのやら。毎日会社に行って仕事ばかりして帰宅の繰り返しをしていると、ふとした瞬間に渇きを覚える。

「肌もカサついてるな……全身にたっぷり潤いがほしい」

空になった缶ビールを片付ける。毎日一本だけと決めているお酒で疲れを癒そうだなんて、騙し騙しにもほどがある。

はたしてまだ三十歳なのか、もう三十歳なのか。
やりたかった仕事ができているのか、結婚相手を見つけるべきなのか。
なんとなく日々を繰り返していたらいつか後悔するんじゃないかとか、考えることが多くてため息がでそう。

「今までは目の前のことだけに全力投球できていたけど、さすがにそうも言ってられないかな……」

正直数年後になりたい自分がわからない。でも未来のビジョンが見えないなんて、きっと私だけではないはずだ。

テレビを切って浴室へ向かう途中、来訪を告げるインターホンが鳴った。

「あ、しまった。モニターが不調だったのを忘れてた」

管理会社に連絡しなきゃいけなかったのに、つい放置してしまった。だって部屋に人を招ける状態にするのが億劫すぎて。
普段なら無視するところだが、今日は出た方がいい気がした。誕生日だし、実家からなにかが送られてきた可能性もあるから。

『宅配便です』

やけにいい声だ。
いつもは玄関前で置いていいと言っちゃうところだが、ちょっと顔を拝んでみたい。

「はい、開けますね」

人に見られても恥ずかしくない部屋着でよかった。そそくさと髪を結び直して玄関に向かう。

玄関扉を開けた瞬間、私の目の前に真っ赤な薔薇の花束が飛びこんできた。

「Happy birthday, こころちゃん」

外国人モデルか俳優かと見紛うような、髪も目も色素が薄い八頭身の美形が玄関前に立っていた。髪の毛を綺麗にセットして、スーツ姿で手には薔薇の花束。今時映画のワンシーンでもベタ過ぎて見ない光景だ。

「……」

……これはそう、幻覚だ。もしくは誰かが仕掛けたドッキリに違いない。
私の脳は一瞬でフリーズし、そのまま無言で扉を閉めた。

◆ ◆ ◆

私が子供の頃に憧れたキャリアウーマンといえば、真っ赤な口紅を綺麗に塗った女性だった。赤い口紅はかっこいい女性の象徴。そんな印象が強く残っていたからか、私は化粧品会社のSHIONに入社した。

株式会社SHIONは長く顧客に愛されるスキンケアとメイク品を扱う会社で、規模は小さいながらも創業五十年余りという歴史のある企業だった。日本国内のみしか展開しておらず、特に日本人に特化したスキンケア製品が長く愛されている。
アジア圏から来られるインバウンド需要も高まりつつあった四年前。ちょうど五十周年を迎えた年にアメリカの大手化粧品会社エルメラリヴレに買収され、SHIONはそこの傘下になった。

あれよあれよという間に人員の配置換えが起こり、SHIONは表参道のオフィスから移転することに。気づけば私は東京駅から徒歩五分の丸の内OLになっていた。買収はされても誰もクビになったわけではない。待遇も悪くないので一応不満は出ていないが、培ってきた仕事の進め方が違うので苦労はある。

これまでSHIONの製品は国内のみに販売していたのに、たった二年で海外展開が始まった。アジア圏の一部の国からアメリカ、ヨーロッパへと広がっていくスピード感に取り残されそうになるけれど、三年も経てばなんとか身体が慣れてきた。

これまで私はSHIONのラグジュアリーブランドのひとつ、「Enn」の企画開発部に在籍していたが、買収後はサプライチェーンマネジメント部に異動となった。海外とのやり取りが増えるため、英語力がほしかったらしい。TOEIC890点が評価されたとか。

サプライチェーンとは原料調達、製造、在庫管理、配送など、配給連鎖を管理する。そんな製造から物流までを扱う部署で、私は主に化粧品の在庫管理を任されている。

すべてが生産プラン通りに製造されて、品質問題もクリアして販売できれば問題ないのだけど……そもそも原料や容器の調達に遅れが発生すればすべての予定が後ろにずれていく。ヨーロッパのストライキなんかは懸念でしかない。
そんなわけで、仕事の合間に情報収集に励むのも日課になっていた。

「今のところ港のストライキとかは起こってなさそうね。予定通り工場に納品されれば問題なさそうかな」
「え、琴吹さんってそこまで気にされているんですか? それは輸入チームに任せましょうよ」

そう言うのは同じ部署の後輩、朝霧まりな。
元々はSHIONで別の部署に在籍していたが、私と同様にこの部署に配属された帰国子女だ。「入社二年目で買収とか笑えませんが、今の方がグローバル企業で知名度も高いので文句ないです」と言えちゃうツワモノである。

「まあ、そうなんだけど。生産が遅れないか気になって。いつ需要が増えるかわからないから」
「そうですか? でも中国の独身の日もとっくに手配済みですし、クリスマスコフレも問題ないですよね。新製品の生産は予定通り進んでいるって工場から連絡が来ていたので、なにかあるとすればバレンタインでの需要でしょうか」

日本ではバレンタイン商戦はチョコが圧倒的だけど、海外ではコスメも贈り物として人気らしい。

「バレンタインは多分そんなに無茶を言われないと思うけど、春には新商品のローンチもあるから。そっちが予定通りに行くか心配かな」
「ローンチはいつも神経使いますよね」

そう、先ほど一部の生産に遅れが出ているとの連絡を受けたばかりだ。まだ問題ない範囲ではあるが、調達がうまくいかないと全部がズレてしまう。

SHIONのラグジュアリーブランド、EnnはできるだけMade in Japanで作るのが拘りだ。原料も資材も、限りなく輸入に頼らないようにしている。良質で安心安全なものを日本人に合うようにというのが根本にあるけれど。Enn以外の欧米ブランドはそうもいかない。

アメリカの工場から輸入している原料や資材も多く、何故わざわざそんな遠くから……と思わなくもないが、本社がアメリカなのでいろいろ事情があるのだろう。正直そちらで完成品を作ってくれればいいのにとも思うけど、私に口を出す権利はないのでお口チャック。

今さらだけど、買収って面倒だわ……。
当然ながら新しい組織に適応しなくてはいけないし、人間関係も気を使う。特にこの会社、エルメラリヴレはこれまで日本企業の買収はしてこなかったとか。
仕事の進め方に疑問があっても口を出せない微妙な圧はいつになったら消えてくれるのやら……四年も経てば随分慣れたけれど、戸惑うことも多い。部署との連携も複雑で、窓口がいくつもあるから覚えきれない。

まあ、仕事に支障がでなければ職場の人間関係などあっさりでいい。

私の仕事は、需要と供給をうまく管理すること。サプライチェーンの流れを理解し、スケジュールを組んで国内・海外の配送手配をスムーズに行うのがこの部署の仕事だ。

でも、なにかイレギュラーな問題が発生すれば途端にバランスが崩れてしまう。
たとえば予期せぬバズとか……。

「あ、そういえば琴吹さん。この間誕生日でしたよね。遅くなったけどおめでとうございます」
「覚えてたの? わざわざありがとう」

いくつになってもお祝いされるのはうれしいものらしい。三十という数字は肩に重くのしかかるが。
朝霧さんが有名店のチョコをくれた。
会議室に向かう背中を眺めながら、早速食す。

「うまっ」

甘さが控えめで滑らかな舌触りがクセになりそう。ほのかに香るスパイスはジンジャーだろうか。

「誕生日か……」

思い出されるのは先日の事件……いや、珍事だ。思い出してもため息が出そう。

幻覚だと信じ込もうとしたけれど、ビール一本で酔うはずがない。あのとき起こった予期せぬ出来事が三日経ってもうまく消化できておらず、背筋がブルッと震える。
夢だったらホッとするのに、帰宅するたびに出迎えられる薔薇の花束が現実だと語っていた。

海外ファッション誌のモデルのような美形に押し付けられた花束は、急遽2リットル用のペットボトルに小分けにして活けたけれど。なんとも雑で薔薇がかわいそうだ。
ひとり暮らしの家にデカい花瓶はないので、そういう贈り物は事前に花瓶があるかどうかもリサーチしてからにしてほしい。(そもそもいらないけれど。)

どうしたものかな……と考えこみそうになったとき。ピコン、と社内で使用しているチャットアプリが新着メッセージを報せた。広報に所属している白崎愛之助からだ。

社内一のモテ男と名高い白崎は私と同い年で高校の同級生だ。このオフィスに移転したときに再会を果たした。イケメンで紳士で華やかな男だが、話しやすくて情報通でもある。
そんな男からの連絡とは、まさか炎上案件じゃ……。

『お疲れ。Ennのリップが海外でバズってんだけど見た?』
「……なんだって?」

送られて来たSNSのリンクをクリックする。
ハッシュタグの“Enn Lip”の投稿が数万件を超えていた。
怖い、一体どんな炎上案件!?

ドキドキしながら検索すると、そこには私が在庫管理をしているEnnのリップを欲しがる投稿であふれていた。英語だけならず多言語でも投稿が多いが、少なくとも批判や苦情ではなさそう。

『一体なにが起きたの……?』

白崎に返信する。
すると原因と思われるSNSの投稿を教えられた。

『昨日、イギリスの人気ロックバンド「0℃-Zero degree」のメンバーが投稿した写真にEnnのリップが偶然載っていたらしい。んで、特定犯が動いたそうだ』
『特定犯!?』

なに、その捜査協力で使われそうなワードは。刑事ドラマか。
フォロワーからの膨大なコメントを確認する。イギリスだけならず、やはりいろんな国からコメントが来ていた。

メンバーのプライベートな写真はファンにとってはご褒美だろう。うれしさであふれる投稿の中にリップに関するコメントを見つけた。

[もしかしてこれってEnnのドルチェリップですか? 何番ですか?]

それにまさかのメンバーが返信して、世界中に拡散された。
Ennのリップが僅か半日ほどで世界トレンド入りしてしまった。こんな現象に遭遇したことがなくて怖すぎる。

『なんでこんなことに……! 別にうちが0℃なんとかに頼んだPR案件じゃじゃないよね?』
『まったく違う。そもそも彼らもリップの感想を投稿したわけじゃないし、ただ背景に映りこんだだけのようだ。まあ、メンバーのAがファンサービスでKの首にキスマークを描きやがったのも原因だが』

ポン、と別の投稿が送られた。
その写真にうちのリップのパッケージは映っていないけれど、紫が混じった赤色で唇のマークが鎖骨の下あたりにがっつりと描かれている。

白い肌によく映えているが、男同士でなんという悪ノリを……ロックバンドのメンバーってこういう世界観なのだろうか。音楽に詳しくないからよくわからない。

『ところでメンバー全員がAとかKってアルファベットで書かれているけど、トランプ的な意味があるの?』
『そこからかよ』

文面からでも呆れが読み取れるが、白崎は丁寧に教えてくれた。ついでに0℃-Zero degreeのメンバー紹介のリンクまで送ってくれるので面倒見がいい。

このバンドは全員アルファベットの頭文字で活動しており、トランプとの関りはないそう。特に十代から四十代にファンが多いとのことだが、「へえ~」という感想以外出てこない。ここ数年はめったに洋楽を聴いていないし流行りがまったくわからん。

「ん……?」

AとKの首筋ばかりに注目していたが、後ろの方にもうひとり写っている。
誰だ、この三人目は。
コメント欄を漁る。すぐにAとKのほかにLという人物がいることがわかった。
横顔しか見えないけれど、その完璧なまでに美しい顔にはどことなく見覚えがあった。

「……いやいや、まさか」

写真を拡大したいが、パソコンの画面からではできない。
自前のスマホを取りだして、こういう時にしか使わないSNSのアカウントを開く。目当ての投稿を見つけ出して指で拡大した。

……うん、やっぱり似てるな?

服装と髪型が違うから断言はできないが。
でも、もしもLという男性が髪をきっちりセットして三つ揃えのスーツを着たら、誕生日に薔薇を持ってきたドッキリ男と一致するのでは……。

「……っ!」

怖い想像がよぎった。一瞬で呼吸が乱れる。
この場に白崎がいなくてよかった。チャットだけならいくらでも誤魔化しがきく。

『このバズがどんな化学反応を引き起こすかはわからんが、すでにマーケが動き出してるらしい。巡り巡ってお前のとこにも影響が来るかもしれんぞ。気を付けろよ』
『っ! そうだよ、マーケからの要望が絶対くる!』

この会社、マーケティング部が異様に強い。なんでそんなに発言権を持っているのかと思いたくなるほど強いし無茶を要求してくる。

世の中の情勢を読み取って機敏に動けないとトレンドもビジネスチャンスも逃すってことで、プレッシャーが相当あるんだろうけれども。無理ですって断っても粘ってくるのでとても厄介だ。

『急に需要が増えても対応できるか確認しておく』と告げて白崎とのチャットを終えた。会議の休憩時間にわざわざ知らせてくれたのだから、とても友達想いである。

さて、バズったリップの色番はどれだっけ。
先ほどメモっておいたのを確認する。

「ドルチェシリーズの、Purplered03……」

システムで在庫数を調べる。
Ennリップのドルチェシリーズは先月日本で先行発売したばかりのルージュコレクションだ。来月には一部のアジア圏とアメリカにもローンチを予定しているが、まだ日本のみで発売している状況。

ってことはあれ? まさかこの0℃-Zero degreeのメンバーって全員日本にいるの?
他の投稿を見ていないからわからないが、今はマーケ様の問い合わせがいつ来ても答えられるようにしなくては。

今年のリップの推しカラーはブラウン系だ。次がワインレッド。まさに秋色を前面に押し出している。
ドルチェシリーズのカラーは全部スイーツの名前をつけており、ブラックチェリーやパンプキンシナモンなど、今にも甘そうな香りが漂ってきそうなものばかり。

そしてこのリップの特徴は美容成分を70%以上含んでいて、塗る美容液としても万能である。唇の体温でするんと溶けて潤いが持続するし、食べた後でも色落ちがしにくい。
あと唇が荒れにくい。多分これが一番重要である。

個人的には全色推したいけれど、無難な色ばかりではない。
ドルチェシリーズはカラーバリエーションが多いことでも話題になった。これまでのEnnリップは十色程度だったところを、二十色まで展開したのだ。そんなに多くなると名前を考えるのも大変だっただろう。

「ああ……なんでよりによって生産数が少ない色を……」

Purplered03はMurasaki sweet pieと呼ばれている。イメージは紫芋であり、見た目はラメ入りの紫だけど体温に溶けると色味が変わってほのかに赤みのある紫になる。
正直これは使う人を選ぶ色だ。なかなか普段使いするには勇気がいる。赤みのある紫色なんていつつければいいんだろうと思ったけれど、オシャレな若者なら日常使いができるかもしれない。

Ennリップの価格は一本4000円弱。デパコスの中ではお手頃かもしれないが安くはない。
このドルチェシリーズも同じ価格で売られており、学生が手を出すには少々勇気がいる価格だろう。

今年の推しカラーであれば生産数が一番多いし、在庫にも余裕があるというのに。何故紫芋を選んだのだ。
リピートされないような色は在庫が余る計算だ。正直全部が売り切れるとも思っていないのだが……。

「これ、今のところ生産予定ないよね……」

今後の生産プランを確認するも、需要が高まれば検討となっている。向こう半年は予定がない。
とりあえず関係者にリップがバズってることを知らせておこう……私がこの件に無関係ではないかもしれないことは言わずに。

いや、まだわからない。Lという男がこの間薔薇持ってきた男とは限らない。

騒ぎがどんな方向へ影響が出るかわからないけれど、今日のところは定時で帰ろう。明日から残業の日々が待っているかもしれないから。

◆ ◆ ◆

「なんだか疲れた……」

結局定時間近に怒涛のように問い合わせメールが舞い込んで来た。
マーケティング部のEnnリップ担当から在庫数の確認依頼と、海外の担当者から追加で必要かもしれないという需要の連絡が次々と。明日みっちり会議まで設定されて、今から嫌な予感がする。

きりがいいところでパソコンを閉じてしまったけれど、出社するのが怖い……。仕事を終えても気になりすぎるって精神的によろしくない。

夜八時過ぎにひとり暮らしをしている部屋に帰宅する。今夜の夕飯もスーパーの総菜を買ってきてしまった。そろそろ自炊して健康的な食生活を送りたいが、つい目先の手軽さに惹かれてしまう。

「はぁ、誰かが作ったご飯が食べたい……」

お惣菜とかではなくて、私のために作ってくれたご飯が恋しい。
そんなことを考えながら踵の低い靴を脱ぎ、ワンルームの部屋に向かう。

うちのマンションはバスとトイレは別で独立洗面台もあって、築年数も浅いのに家賃が手頃だ。その大きな理由はマンションの裏が墓地だから。
白崎からは「そんなところ選ぶなよ」って言われたけれど、別に霊感とかないので気にしていない。同じエリアで条件がいいところは高すぎて手が出ないのだ。家賃補助がもうちょっとあれば引っ越しも検討できるけども。

「ただいま~」

誰もいない部屋に向かって日課のように呟いた。
が、扉を開けた先には、何故か先日追い出した男がいた。

「おかえり、こころちゃん」
「……は?」

自分以外の人間がいるってだけでもホラーなのに、現実味がない美形がワンルームの部屋にいることで一瞬脳がバグを起こした。

ここはどこだ?
……私の部屋だよ!

「不法侵入ね、110番押しとく?」

スマホはどこだったか。
バッグを漁っていると、美形が慌てて駆け寄ってくる。何故かふりふりのエプロン姿で。

「待って、ちゃんと玄関から入ったから。話を聞いて」

鍵を見せられた。
まさか三日前に追い出した後に合鍵を作られるとは……どういう方法で違法手段に出たんだ。

「こころちゃんのお母さんから預かった鍵だから、違法じゃない。ちゃんと許可をもらってるよ」
「まさか熟女まで手玉に……?」

一歩後ずさると、「そうじゃないから!」と否定されたが、どう違うのだ。母はわかりやすくイケメンに弱いというのに。
そして家主は私だ。親が許可したから入ってもいい法律はない。

「ひどいよ、こころちゃん。この間はなにも聞かずに俺を追い出すし……せっかく二十二年ぶりの感動の再会だったのに、冷たくあしらうし」

めそめそと新妻エプロン姿で項垂れても可愛くないんですが。
まあ、中性的な顔立ちなのでその姿も似合ってはいる。一応。

「えーと、どちらさまでしたっけ」
「そこから? レオだよ!」
「そう、レオさんね。二十二年ぶりってことは私が八歳のときに会ってたってことよね」

買ってきた総菜をカフェテーブルに置くが、これは出番がないかもしれない。
何故かソファ前のローテーブルには二人分の食事が用意されていた。誰が作ったのかと問いかけたくなるような一汁三菜の和食に視線を向ける。ちょっと悔しいけれど、めちゃくちゃおいしそうなんですが。

レオは押しかけ妻のような恰好で自主的に床に正座した。今日SNSで見かけたLとは似ても似つかないので、やっぱり他人だったかもしれない。

あのクールな眼差しに堕ちてしまうガチ恋ファンがいてもおかしくない美男子と、目の前の子犬系男子が同一人物ではなかろう。

「俺が五歳のとき、半年ほど毎日遊んでいたのになんで忘れてるの……薄情すぎない? こっちは運命の出会いだと思っているのに」
「そうは言われましても」

どうやら幼少期、彼はうちの隣に住んでいたようだがご両親が離婚して引っ越ししたらしい。色素の薄さと顔立ちからして外国人の血が入っているとは思ったが、お母さんがイギリス人だと判明した。

今日はやけにその国名を耳にする。やはり嫌な予感しかしない。

「俺が毎日のように結婚してって言ってたら、こころちゃんがついに折れてくれたんだよ。それも覚えてないの?」
「まったく」
「将来はキャリアウーマンになるから結婚なんて考えられないって言ってたけど」
「あ、それはなんとなく覚えてる」

大人がやたらと聞きたがる質問に、子供心ながらうんざりしていた。
きっと子供らしいプリキュ〇とか、クレープ屋さんとかが聞きたかったんだろうけど。私の目標はキャリアウーマン一択だったので。

「彩子さん……母の姉がバリバリのキャリアウーマンだったから。ずっと憧れてたのよ」

そう、伯母はEnnのブランドの立ち上げに携わったSHIONの社員だった。
パリッとしたスーツを着て首にはスカーフを巻き、赤いハイヒールを履いて口紅を塗った姿は私が理想とする大人の女性だ。
彼女のようになりたくて、気づけば自立した女性が将来の夢になった。

「でもこころちゃん、俺が引っ越すときに言ったんだよ。夢はキャリアウーマンだけど、いつかは結婚すると思うって。三十歳まで独身だったら結婚してあげるって」
「うわああ……」

五歳児に結婚してあげるって随分上から目線である。当時八歳だった私も十分子供だけれど、想像するだけで恥ずかしい。
なんとなく子供の頃の記憶が蘇ってきたけれど、残念ながら彼が好きだった“こころちゃん”は今の私ではない。

「そんな子供のときの約束は無効……」
「そう言うと思って、署名も残しておいた」

レオが新妻エプロンのポケットから一枚の封筒を取り出した。
中から折りたたまれた紙を取り出す。

「は? 誓約書……? 子供が!?」

内容も明らかに子供が書いたとは思えない。パソコンでタイプされているが、子供にも読みやすいようにひらがなばかりである。

要約すると、三十歳の誕生日までに双方が独身であれば前向きに結婚を検討するというものだ。二人に恋人がいない時点で許婚のような状態かもしれない。
そこに私が大人の真似事のように名前を書いている。しかも両家の親の署名まであるのだからタチが悪い。

「用意周到すぎる。子供の発想じゃないでしょう……」
「父さんが手伝ってくれたんだ」

はにかんだ笑顔は可愛いかもしれないが、言っていることは可愛くない。
五歳児が初恋(なのかどうかは不明)の相手と離れたくないがために、ここまでしてあげる大人もどうなんだ。

「そんなこと言われても、私もあなたももう大人だし。それにうちの両親だってこんな約束は忘れてるわよ」
「うちの母さんとこころちゃんのお母さん、ずっと交流続けてたよ。それに合鍵を貸してくれたのだってこころちゃんのお母さんだって言ったよね」

母よ、娘を売ったな!
どうりで一度も結婚とか言ってこないはずである。彼氏はいるのかと訊かれたことはあったけど、仕事が忙しすぎてそんな暇はなかった。
適当に彼氏作っておけばこんなことには……いや、私の性格からそんな簡単に恋人もできないけれど。

こんな状況、ため息しかでないわ。

「とにかく、子供の頃はお互い純粋だったとしても、大人になれば人は変わるでしょう。これまで交流がなかったんだから、この話は無効です」
「だから、こころちゃんと交流してお互いを知るために、俺も今日から一緒に住もうと思う。まずはご飯から食べようか。毎日お惣菜ばかりじゃ飽きてるでしょう?」

何故それを……!
タイミング悪く私の腹が鳴った。切り干し大根の煮物に銀だらの西京漬けと小松菜のおひたしが食欲を誘う。

「お味噌汁もあるよ。ビールも飲む?」
「……飲む」

私は食欲に忠実な女である。とりあえず腹ごしらえが先だ。
うちに住むのは断固拒否だがご飯に罪はない。
仕事は問題ないのかと問いかけた。

「正式に婚約するまで休みをもらった。とりあえず一か月」
「なんなの、その職場!」

自由どころの話じゃない。
職場を巻き込んでのプロポーズ……はた迷惑にも程がある。子供の思い出が美化されすぎるのは問題だ。

食事中、ちらりと部屋を見回す。気のせいじゃなければ出勤前に比べて部屋がすっきり片付いているような……2リットルのペットボトルに活けていた薔薇はきちんとした花瓶に活けられていた。心なしか薔薇も生き生きしているように見える。

おかしい。冷静に考えなくてもいろいろとおかしい。
このまま彼のペースに巻き込まれるのは困る。これから仕事も忙しくなるだろうから余計に。

「ごちそうさまでした。おいしかったわ」

私はレオにルイボスティーを淹れて、飲み終わったらお帰りになるように告げた。

「なんで? 俺不合格だった? こころちゃんのお母さんは、胃袋からゲットしたら近道って言ってたんだけど」
「そんな話を本人に言っちゃまずいんじゃないの」

しかしあながち間違ってはいない。おいしいご飯をくれる人には懐きたくなる。(ええ、私はダメな大人です。)
とはいえ同居は無理だ。大人になればなるほど他人と一緒に住める気がしない。

私はお茶をすすりながらSNSの投稿をレオに見せた。

「ところで、この後ろに映っている人物ってレオ? まさか0℃のギターだなんて言わないわよね」

あれから検索してみた。0℃-Zero DegreeはギターのLがほぼすべて作曲をしているらしい。年齢は非公開だが20代半ばで、性格はクールで基本的に笑わないと言われているようだけど。目の前の男はめっちゃ表情が豊かだ。

もしもレオが0℃-Zero Degreeのギターだと言われたら、ますますこんな普通のマンションの一室になんか置いておけない。即お帰りになってもらわなければパパラッチがやってくるかも……平凡な会社員には負担が重すぎる。

レオはSNSの投稿を見て、何故か頬を赤くした。
美形がフリルたっぷりのエプロン姿で頬を染めるなんてギャップにもほどがあるだろう。なんだか嫁ポジションがおかしい。

「うん、それこころちゃんに部屋を追い返されたって言ったら、二人が写真にメッセージを込めようって」

……つまりこのLという人物=レオで間違いないらしい。なんだか眩暈がしそうだ。
今日はもう一本ビールを飲んでもいいかな。平日は一日一本と決めているけれど、私は自分への労わりとしてご褒美を追加した。

「こころちゃんが大事にしているEnnのリップで唇のマークを描いたら、あなたにキスがしたいというメッセージになるんじゃないかって」
「砂吐きそう」

それは誰が言いだしたんだ。ロックバンドとはそういう妄想をするんだろうか。

ビールのプルタブを開けて、一口飲んだ。
何故色番は紫を選んだのかと問いかける。

「一番売れ残りそうだったから」

しれっと言われた返事にグッと堪えた。
在庫が余りそうだとは思っていたけれど、逆に品薄の危機になるかもしれない。

「わかりました。この件はどうか内密に。プライベートの匂わせでファン心理がどのように働くか、賢明なご判断をお願いしますね」
「……こころちゃんとふたりだけの秘密……」

怒りを堪えたというのに、まったく伝わってない。
なんで秘密の共有を嬉しそうにするのかさっぱりわからないんですが。

「これは異文化交流が問題じゃない気がする」

とりあえず今夜はお帰りいただこう。合鍵もお返しください。

美形がぽろぽろ涙をこぼす姿にはちょっとだけ良心が痛んだけれど、私は心を鬼にして玄関から追い出した。

「わかった、今夜は帰るよ。また明日ね」
「有名人なんだから来ないでください」

バズの原因がレオで、社員と繋がっていたと知られたら世間からバッシングを食らうかもしれない。確実に。
仕事のワーストケースシナリオなど社外で考えたくないのに……バタンと閉じた玄関扉を見つめながら長いため息が漏れた。

第2話

#創作大賞2023 #お仕事小説部門


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