おバズりはご遠慮願います 第2話
Ennのドルチェリップがバズってからわずか三日後。私は急遽会議に呼び出されていた。
「……イギリス向けの販売を早めてほしい? 確か来年の8月にEnnがローンチする予定でしたよね?」
ビジネス戦略部、マーケティング部とうちの部で急遽設けられた会議にて、また思わぬ無茶ぶりを要求された。
「Ennはアジア圏以外だと北米とヨーロッパの一部でしか販売されていないでしょう。イギリスの人気ロックバンド、0℃-Zero degreeが投稿した写真の影響で、イギリスからの問い合わせが殺到しててね。フランスにまで行かないと購入できないってどういうことだとお怒りらしい。確かに我々としてもこの機会にだんまりは続けたくない。会社としては顧客のニーズにいち早く答えることが使命であり、迅速な対応が求められる」
そうビジネス戦略部の課長の成瀬さんがニコニコと伝えてくる。
この方との会議は二度目だが、人当たりのよさそうな笑顔で大胆な要求をしてくるので要注意だ。……っていうかこの会社、基本的に無茶ぶりする人しかいない気がする。
迅速に対応したいというのはわかるけれども、現実問題どうやって?
一時のバズのために無駄な徒労に終わるのは絶対に嫌なんですが!
「つまり実際のローンチは予定通りだとしても、オンラインのEコマースは先行でできるように対応したいと。そういうことでよろしいでしょうか」
私の上司、柿本さんがやんわりまとめた。この人はエルメラリヴレの人で、買収後に私の上司となったが理性的で穏やかな人で頼りがいがある。きっとこれまでも予想外の状況に巻き込まれて、そのたびにうまく処理してきたのだろう。
「いきなりEnnの全商品を先行販売は難しいでしょうが、数を限定してトライアルで対応でしたらやってもいいでしょう。イギリスの担当者と連携し、欲しい商品を選んでもらいましょうか」
「今はスキンケア品よりメイクの注目度が高い。リップを中心にぜひ頼みますよ」
急いでイギリスオフィスの担当者と連絡し、今後の流れを確認することになった。
ファイナンスのシステム設定をITに前倒しで依頼し、在庫の確保と生産プランの確認、遅延があれば報告。イギリスへの輸出のレギュレーションの確認……と、一気に話が進んで行く。
このすべてを最短でやれなんて鬼では?
正直私ひとりでは対応しきれないんですが……通常業務もあるのに追加の負荷がかかりすぎる。
会議の議事録を取りながら優先順位を考えるが、正直胃が痛い。
のろのろとデスクに戻ると、未開封のメールがさらに増えていた。
イギリスだけでもお腹がいっぱいだというのに、やはり日本での影響も無視できず……早くもドルチェリップの欠品がはじまっているらしい。
急ぎで追加のオーダーがしたいと言われ、そのリストの長さにげっそりしそう。ほんとにこんなにオーダーしても大丈夫なんだろうか……一度倉庫から出荷されたものの返品は基本的に受け付けていませんが!
「日本だけじゃなくて、アメリカも台湾も中国も急にリップのオーダーを追加してきたわ……」
「うわ~やっぱりバズの影響って大きいんですね……すごいですが、大変ですね」
朝霧さんが引いている。
「予想外のバズって会社的には嬉しいけれど、仕事の負荷が増えるのはちょっと困るかも」と言うことには同意せざるを得ない。
なんでも仕事が予定通りに行くなんて思っていないけれど、ローンチを早めたいとか急に言われましても!
対応できることとできないことの線引きは大事だ。
「これが数日限りの一過性のバズだったらと思うと泣けるわね……」
継続して人気がでてくれたら生産プランも立てやすい。けれどそれがもしも一瞬で鎮まってしまったら、需要が減り在庫が積み上がってしまう。
消費期限が切れた在庫はどうするか。
そんなの、廃棄一択だ。
「せっかく作ったのに廃棄は絶対嫌よ」
Ennのリップの人気が高まるのはうれしい。なにせ私だってEnnリップの大ファンなのだ。
十歳の誕生日に伯母がリップをプレゼントしてくれた。彼女はSHIONの社員で、Ennのブランドの立ち上げに携わった人である。
『Ennの意味は艶やかのエン、人と人を結ぶ縁のエン、そして円満のエン。日本語にはたくさんのエンがあって、それぞれのいいところを引き出してくれますように。そんなお守りのような口紅を作ったの』
初代のEnnのリップは和花シリーズと呼ばれ、すべてに花の名前がつけられている。
唇が荒れず、アレルギーが起きにくく、肌に優しい。それでいて高発色で高保湿なのだから一度使ったらやめられない。
発売から二十年が経っても高く支持され、パッケージのデザインや成分を少しずつリニューアルしながらもロングセラー商品となっている。
私が誕生日に伯母からもらった和花シリーズの撫子は、今でもお守りのように鞄に入れて持ち運んでいる。さすがに二十年前のを使うことはないけれど、それを見ているだけで子供の頃に抱いた感情が蘇る気がするから。
「……まずは工場に確認して会議を設定するわ。今後のプランとリスクの確認をしないと。朝霧さんもフォローに入ってもらえる?」
「もちろんです。システム関係はITの部門に依頼しておきますよ」
「ありがとう、助かるわ」
脳内でスケジュールを組み立てる。
リップ一本が引き起こしたバズは、負担ではなくてチャンスだ。たくさんの人に私が好きなEnnリップの良さを知ってもらえるのだから。
このドルチェシリーズの開発には携われなかったけれど、私なりに他部署と連携して綿密に進めてきた商品だ。思い入れだってあるし、自信を持ってたくさんの人に勧められる。
だから、0℃‐Zero degreeのLが実は知り合いで、偶然ではなく故意にそのリップを使ったんですなんて絶対に明かせない。私が依頼したわけではなくても、バズった背後にもしも社員が関係していたら会社の倫理規定に触れてしまうかも……。
レオの休みは一か月と言っていた。残りあと三週間ほどでイギリスに帰国するなら、それまで仕事に集中して過ごせばいい。
怒涛のようにたまっていくメールと会議の招集に参加しまくり、この日から私の帰宅は毎晩深夜近くになっていた。
◆ ◆ ◆
連日帰宅すると誰かさんが作った夕飯が用意されている。
最初はいつ飽きるんだろうと思っていたけれど、さすがに四日も経つと不安になってきた。
彼はいつまで私の面倒をみるつもりなのだろう。
そもそもなんで私が好きなのかもわからない。
だって二十年も会ってないんだよ? 会いに来なかった理由も聞いていないし、もしも私が三十前で結婚していたらどうしてたの。
「あ、今日は金曜日か……」
金曜日は残業なしの日と言われている。オフィスの電気も19時には消されてしまうので、遅くともその時間までに終業しなくてはいけない。
でもあと一時間くらいは時間があるな。
ここ最近はドルチェリップで時間を取られているが、私が担当しているブランドはEnnだけではない。その他も細々した問題が発生している。
飲み物を買いに行こうと席を立ったとき、「琴吹さん」と呼び止められた。
「ごめん、ちょっと訊きたいんだけど今大丈夫?」
「水島さん、大丈夫ですよ」
Ennの企画開発部にいる水島さんは元々別のブランドの開発に携わっていたけれど、今はSHIONのブランドを主に担当されている。Ennの和花シリーズのリップも彼女の担当だ。
「和花のリップが工場を変更した場合、既存のロットと新しい工場で生産されたロットの区別ってどんな風にしたらいいのかわかる? システムでごっちゃにならないようにわかりやすくするには、なにかいい方法がないかなって思って」
「え……和花の工場が変更になるんですか? どこに?」
「まだ決まったわけじゃないんだけど、韓国で委託生産しようかって話が上層部で出てるみたいよ。その際にかかるコストの比較と生産にかかる時間とか、数量も含めてあれこれ数字を出せって言われてて。まったく、忙しいときにそんな仕事を振ってこなくてよくない? って思うわ」
「……それ、SHIONの……、紫園副社長もご存知なんですよね」
「え? うん、多分そうだと思う」
SHIONの二代目社長、紫園琴音さんは伯母の親友だ。彼女が買収に応じて、アメリカ企業の傘下になり、現在はVP(副社長)の地位にいる。
彼女の決断は簡単ではなかったと思うし、買収に応じてほしくなかったとは言えないけれど。
Ennは限りなくMade in Japanで生産することをコンセプトに入れているのに……それを韓国の企業に委託生産させるの? なんで?
「えっと、システムでは新しいロットをつけて生産してもらえたら問題ないですが、生産国が変わってしまうのは少々ややこしいと思います。ロットだけの問題ではないので」
「あーそっか。それもそうだよね、ありがとう。ちょっとリスクを洗い出してみるわ」
水島さんに会釈し、デスクに戻る。
飲み物を買いに行こうと思っていたけれど、なんだか喉の渇きは消えてしまった。
「琴吹、まだ残ってるのか」
「……え? あ、白崎さん」
ハッと顔を上げれば、広報の白崎が立っていた。
うちの部署の近くまで来るなんて珍しい。社内を歩くだけであちこちの視線を集めるイケメンだけど、今日はやけに周囲も静かだ。
「もうすぐ消灯の時間だぞ。ほとんどみんな帰ってる」
「嘘? あ、もう十九時!」
いつの間にかぼうっとしていたらしい。
書きかけのメールは残っていないのを確認する。急ぎのメールの確認と返信は終わっていたようだ。
「ごめん、なにか用事?」
腕を組んで立っているだけでモデルのように絵になる男だ。目の下のほくろが相変わらずセクシーとか、決して口には出さないけれど。
若干の不機嫌さを感じ取る。なにか思うところがあるらしい。
「いや、別に用事はないが、もう帰れるなら帰るぞ」
「え? 一緒に? なんで」
「お前、最近残業続きでちゃんと休んでないだろう。顔色悪いぞ。毎日何時間寝てんだ」
「たぶん五時間くらい……?」
なんで顔色が悪いことが他部署の白崎にまでバレてんだろう。社内の情報共有なんてチャットでしかしていないのに。
「白崎さんは相変わらずモテオーラがすごいね」
「やめろ、思ってもないこと言うんじゃねえ」
この男、二人きりになると割と口が悪い。
他の人の前では紳士な白崎で通しているが、見た目と素の俺様っぽい性格の落差が激しい。
紳士面で接していれば女の子ホイホイになるが、飾らない自分を曝け出すと振られるのがわかっているのだとか。社内恋愛をしないことでも有名である。
「仕事終わったんだろ。最寄り駅まで送る」
「ええ、いいよ別に。白崎JRじゃないでしょ」
「……俺もそっちに用事があんだよ」
金曜の夜なのだからデートでも入っているんじゃないのか。いや、予定があったらわざわざ私に構わないか。
帰り支度を済ませて、パソコンをデスクの引き出しにしまう。トートバッグを持って出口に向かうと、白崎が扉を開けて待っててくれた。
「お待たせ」
「おう、帰るぞ」
エレベーターに乗って一階まで下りる。
なんとなく白崎は私に話があるんじゃないかとソワソワする。
大丈夫、レオのことがバレたわけではないはずだ。絶対に秘密だと言ったし……ここ数日顔も合わせてないけれど。
彼は毎日なにをしているのだろうか。私の夕飯づくりだけをしているわけではあるまい。
「お前さ、俺が教えてからSNSの投稿見まくってるだろ」
「え? どれのこと?」
心臓がドキッと跳ねた。まさか0℃のことを調べているなんてバレているはずが……。
「リップのレビューだよ。ドルチェシリーズのバズッたやつ。お前みたいな真面目な奴は、一度見かけたら次々とエゴサしまくって止め時がわからなくなるだろ」
「ああ、よくご存じで……」
チン、とエレベーターが一階に到着した。
ビルのエントランスに向かいながら、バズッた後の自分を振り返る。
「嬉しいレビューやコメントを見つけるとついテンション上がっちゃって。エゴサってダメだね、中毒みたいだわ」
「いいレビューばっかじゃないからな。うっかり毒でも見たらメンタル落とすぞ」
ごもっともである。エゴサをするにも自衛は大事だ。
「デジタルデトックスって大事だよね……いっそのこと週末はスマホを封印して見ないようにしようかな」
「それができるならそれがいい」
駅までの道のりを歩きながら、ふと隣を見上げる。
私が歩く速度に合わせて歩幅を調整している白崎は、なんというか友達想いだ。
「お前さ、あんまりあれこれ抱え込み過ぎるなよ」
こういうところも。
本人無自覚かもしれないけれど。
「私、そんなにわかりやすい?」
「普段通りに振る舞ってるけど、そのリップ。昔から和花シリーズの撫子を使うときは十中八九シンドイ時だろ」
「……目敏すぎるでしょ」
些細なメイクの変化にまで気づくんだから、化粧品会社勤務の男は嫌だわ。
それが好きな女性もいるけれど、私は自分の心理状態まで見透かされている気分になる。
「……シンドイわけじゃないけどさ……、なんだかよくわからなくなってきたかも」
「なにがだ」
自然と足が止まった。
白崎がそっと邪魔にならない場所に誘導する。
「Ennのリップって何度かリニューアルしてるんだけど、和花シリーズはずっと同じ工場で生産してるんだよね。国内で口紅を作れる工場って限られているし、繊細な技術が必要でしょ。うちの要望を叶えてくれるところに委託して販売……っていうのは当時から変わってない」
「そうだな」
「そこの工場の規模だと、一回の生産数に限りがある。ただ少数生産でもクオリティが安定しているし、なによりずっと続けてもらってきた信頼もあって、安心して任せられると思ってる。でも……海外展開が始まれば、いつかは需要と供給のバランスが追い付かなくなる」
日本国内だけで販売するなら今のままで問題ない。しかし海外の販売がはじまり、需要が伸びればもっと数が必要になるのは当然のこと。
買収された頃からわかっていた話だ。いずれ海外でも売り出せば、Ennが守り続けてきたMade in Japanのコンセプトが守り切れなくなると。
海外の工場への委託も考えなければ追いつかなくなることくらい理解していたのに、いざ本格的にそんな話が出たら動揺するなんて自分でもどうかしている。
「そんなにたくさん作るって大事なのかなって。もちろん欲しい人の手に確実に渡ってほしいし、多くの人に使ってもらいたい。でも無理に大量生産にシフトしなくてもいいんじゃないかと考えちゃって」
和花シリーズのリップは北関東にある工場で作られている。こぢんまりとしたアットホームな会社で、うち以外ともたくさんの化粧品会社と取引があるところだ。買収される前、まだSHIONの開発部にいた頃に何度かお邪魔したことがあったせいで余計思い入れがあるのかもしれない。
「私がこんなことを考えていても仕方ないってわかってるんだけど、ちょっと感情が追い付かない。海外の工場でたくさん作って輸入して、それで在庫過多になって余ったらどうなるの。売れなくなったら廃棄でしょ?」
廃棄になったら悲しいじゃない。
たくさん作って、でも需要が下がったから注文数を変更したいなんてしょっちゅうある。売り切れなかったものは、たとえ自信を持って紹介できる新商品だとしても捨てることになるのだ。
サステナビリティが大事だとか言ってても、結局はどこの業界も廃棄で頭を悩ませている。
廃棄しない方法は受注生産しかないだろうけど、それもまた現実的ではない。
「ったく、お前はいろいろ考えすぎなんだよ」
呆れたように言いつつも、白崎の声が優しく響いた。
「商品に思い入れがあるのはいい。作り手なら誰だって自分が関わったものに愛着がわくからな。だが固執するな、執着は捨てろ。ひとつの商品に拘りすぎれば、それ以上のものが生み出せなくなる。物も組織も時代とともに変化するのは仕方がないことだ」
「……うん」
「単純に大好きなEnnのリップが海を渡って海外でも使われている。たくさんの人に喜んでもらっている。そう思うだけでいいんじゃねえか?」
白崎がポン、と私の頭に手を置いた。高校時代のときのような距離感で。
そういえば私が新入社員になったばかりの頃、まだSHIONの社員だった伯母が言っていた。仕事とは九割がままならないことばかりだと。
理不尽なことも、思い通りにならないことも多い。そんな中からひとつでも喜びを見出せられれば儲けもの。小さな喜びを見落とさず、決して驕らず執着せず。目の前のことをコツコツやっていくしかない。
「ちゃんと食って寝てねぇからそんなことまで考えんだよ。少し痩せただろ」
「そんなことは……」
「金曜日の夜だからどこも混んでるかもしれないが、どっかでメシ食いに行くぞ」
するりと手が繋がれた。流れるような動作で。
ほんの少し感傷的になっていた心が反応する。いや、何故急に手を繋がれているんだろう。
「あの、これは……」
「この辺はオフィス街だからな。あっちに行くか」
「あ、うん……?」
支えているつもりなのだろうか。それなら肩を抱く方が……いや、それも困る。
ただの同僚でこの距離感はおかしい。こんなの会社の人に見られたら……。
「その手、放してください」
白崎の手が誰かに掴まれた。
振り返ると、そこにはパーカーとデニム姿のレオがいた。フードをかぶって眼鏡をかけているが間違いない。
ぱっと見は大学生風だが八頭身、いや九頭身もあるようなスタイルの良さはカジュアルな恰好でもよく目立つ。
「レ……」
しまった、名前言えない。言ったら勘が言い白崎になにか気づかれる。
あ、でもLとしか公表してないんだっけ。じゃあ大丈夫か。
「なんだ、お前」
私の手を握る白崎の手首をレオが掴んでいる。なんともややこしい。
「こころちゃんから放れてください」
「……心、知り合いか」
「え! あ、はい」
急に名前呼びをされてどぎまぎしてしまった。高校時代にタイムスリップしたかのよう。
「とりあえず皆さん、手を放して……」
「こころちゃんの手を放したら放す」
「こいつが放したら放す」
なんで急に険悪なの?
この中での年長者は我々二人だ。私は白崎の手を先に放すように言うと、何故だか舌打ちされた。酷い。
「で、こいつなに?」
白崎さん、笑顔でキレるの止めませんか。顔がいい男が怒ると迫力が増すので。
「子供の頃の友達というか幼馴染というか……」
「こころちゃんのフィアンセですがなにか」
おい、嘘を言いふらすな。
「子供の頃の約束なんで違うからね。っていうか、なんでレオがここにいるの?」
「こころちゃんを迎えに。最近は帰りが遅いけど金曜日は残業なしのはずだと思って」
バンドの中ではクールキャラらしいのに、子犬のような笑顔はずるくないか。Lのファンじゃなくても母性がくすぐられそう。
「でもなんで場所がわかったの?」
「心、スマホ貸せ」
白崎の圧に圧されて、しぶしぶスマホを渡す。勝手にSNSを開かれなければ多分大丈夫……。
「これだな。位置情報アプリ」
「ん? なにそれ」
「GPSで居場所が特定できるアプリだ。心当たりないのか」
……酒に酔ってインストールしてしまったのだろうか。いや、そんなはずはないな。
「レオ?」
先ほどまでの子犬の要素はどこへやら。
表情を消した彼は美男子っぷりが増している。整った顔立ちなので近寄りがたささえあるが、その表情はまずい。Lバレしそう。
「愛する人の帰りを心配するのは当然のことでしょう」
「おい、それ犯罪だぞ」
「待って、犯罪発言はマズイから。私はアプリをアンインストールすれば気にしないから」
つい庇う発言をしてしまった。
たとえ恋人でも同意なくGPSアプリをインストールするのはNGだったはず。そもそも私たちは恋人ですらない。
その場でちゃちゃっとアプリを消して、一件落着……というわけにはいかなかった。
風が吹いてレオが被っていたフードが落ちる。眼鏡をかけた顔が露わになり、白崎が目を瞠った。
「お前、L……」
「っ! 違う、他人の空似」
「そうですがなにか」
こら、こんなところで認めるな!
人がまばらとはいえ、誰が聞いているかわからない。私は目立つ男二人に挟まれて居心地の悪さしか感じない。
「どういうことだ、心」
「偉そうなあなたは誰なんですか」
レオが今さらな質問を白崎にぶつけた。
白崎の質問は後回しして、先に白崎を紹介する。
「ただの同僚かな」
「元カレだが?」
「ちょっ! 高校時代の一瞬のことを持ち出さないで、ややこしい」
たった一か月付き合っただけで元カレとは言わんのではないか。
私が日和って、友達に戻ろうと言ってしまったんだけど。なにせ当時から白崎は人気があった。他校の女子生徒が見に来るくらい。
「こころちゃん、恋人がいたなんて……そんなのこころちゃんのママからも聞いてない」
「言ってないからね」
何故ショックを受けた顔をする。あなたにだって彼女の十人や二十人……。
「……レオも恋人いたよね?」
唐突に不安になってきた。この顔でモテないはずがない。
「恋人なんて作るはずないでしょう。子供の頃からこころちゃんと結婚するって決めてたんだから。俺は一途なんだよ」
「……」
クラッと眩暈がした。さすがにこの発言は重すぎる。
「大丈夫か」
白崎に肩を支えられた。ちょっと私には最近の出来事がキャパオーバーだ。
「ごめん、帰るわ……」
「家まで送って行く」
「白崎さんはお帰りになっていいですよ。俺が送りますので」
「あんたの素性を知った後にほいほい任せられるか。っていうかなんでひとりで出歩いてんだよ」
それな。一体事務所はどうなってんだ。
「車に待機してもらっているのでひとりではないですね」
レオの視線の先には黒塗りの車が停車している。
まさかずっと監視されていたの? なにそれ、怖い。
「こころちゃん、今夜は豚汁作ったよ」
「待て、どういうことだ。こいつの部屋に押しかけてんじゃないだろうな」
「フィアンセなので一緒にいるのは当然でしょう」
「だから、子供の頃の約束なんて無効です!」
デカい男二人を振り切って、駅までダッシュする。
子供の頃に憧れたハイヒールを履いてなくてよかったと、つくづく実感した。私にハイヒールは無理らしい。
◆ ◆ ◆
週明けの月曜日。新たなニュースが舞い込んで来た。
「琴吹さん、土曜日のテレビ見ましたか? 花房すみれがゲスト出演していた番組」
「ううん、ちょっと忙しくて、土日はテレビもネットも見ていないの。今度は何があったの?」
朝霧さんが私にスマホを見せた。
『私はもう三十年もSHIONの美白化粧水一筋なの』と言った発言がSNSで拡散されているらしい。
芸能界でも屈指の美魔女との呼び名が高く、美肌の持ち主がメディアの前で宣言したらどうなるか……。
そんなの、欠品の嵐である。
「その化粧水も琴吹さんの担当ですよね……」
朝霧さんが私の顔色を窺ってきた。
「わ、私ですね……」
一難去ってもいないのに、また一難がやってくる気配がする。
「うう……バズるのは嬉しいけれど、私的には困るんですが……!」
慰めのように私の肩にポン、と手が置かれた。
まだまだ問題は山積みのようだ。
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