私がいなくなった世界も、地球は廻る

これを考え始めたのは小学4年生の時。
初潮が始まった頃だからよく覚えている。

今鮮明に覚えている記憶はゴミ屋敷の元実家の2階、小学校2年生の時にスニーカーの踵を踏んで逃げた家と嫌いだった父方の祖母の家、父の生業だった油臭い下町の工業油の染み付いた工場と父の生家。あと次はやたら綺麗な元実家の2階。母が、好きな弟の保育園のママ友と中学生の時のアメリカのテロ事件。
2階が軋む母方の生家、母の妹の旦那が弾いてくれたウクレレ。

年代と共に忘れたわけではない。
私は17歳から18歳の時期にすっぽり、断片的な記憶以外忘れてしまったのである。その時から、私がいなくなっても世界は廻ると思ってしまっても、生きる選択をし続けて歯車のひとつとして、生きてきた。
これはとりとめのないエッセイによる話が基本なので、全く前向きではない。
 ゆとり第一世代のドラマが1987年だった。ドンピシャだ。やれ就職やれ受験自分の個性を出せと言われるのに抑圧されてきて求められるのは無個性の兵隊。ドラマは良かった。みんなヒーローだった。大円団だった。そうなりたいと思っていた。

でも、ドラマの最終回からが人生だった。苦しかった。それが分かったのはつい5年前くらいだった。

 付加情報として、私は先天性白内障である。

これがまた厄介だった。真っ白になって失明とほぼ同じ状態に近いのに障害者認定されない。治るから。でも17歳くらいまで、当時の医療は手術をするという段取りにはならなかった。
高校受験を控え、15歳の私はほとんど15分くらいしか紙面を見られていなかったのに。あとは白飛びしてしまう。だから高校受験は日頃の内申点で受かる私立高校に推薦で行くことにした。それが、世間の総意だった。その時の世間の総意は母と塾の先生だった。

33歳になっていた。
記憶を無くし始めたきっかけは高校2年生の頃から。前厄が始まる2月2日、旧暦の年度始めの時に学校で過呼吸になって病院に運ばれた。
もうよく覚えていないが、母は代理で厄祓いに行こうとした電車のプラットフォームで高校からの電話を受け付けたらしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?