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ウイバナ考 M3 僕らはまた夢を見る

やっとワンマンのセットリストに戻る。

ウイバナの楽曲には多用されているが、この曲もサビを冒頭に持ってきている。

信じた夢が叶わなくてもまた夢を見てほしいから
悲しみの向こう側でも君想う
嗚呯
もし君がすべて失ってもまた手を差し伸べるから
その手を握り返してくれる?

子供のころの志望を叶えられなかった者としては、なかなかつらい曲ではある。「夢は寝てみる者。多くの人間は生活のために希望しない仕事をするもの」と言われた世代としては生きていくことに「夢」という言葉を躊躇なくつかう最近の世相はやや軽薄に感じる。恐らく負け惜しみだが。

「いずれすべて失うのに、どうして人は頑張るの?」
「いずれすべてなくなるのに、人は夢見るの?」

この1Aメロの冒頭を聞いたとき、私はすぐに答を出した。
少し長生きしている分、私はこれには答えがある。それをドヤ顔で言いたくてこれを書いているというのが本性だろう。まあ、私の軽薄な答えはまた変わるかもしれないから、少し謙虚になって「仮説がある」くらいにしておく。

なぜいずれ失うのに人はがんばるのか?
正しく失うためである。

仕事をしてきて多くの人がたくさんのことを失っていく様を見てきた。そして、年齢を重ねて自分自身もいろいろなことを失ってきはじめた。そこで、人間というのは「失う存在である」ということに気が付いた。
獲得しているのはほんの一瞬である。得たものを失っていき、最期は命を失う。ただ、同じ失うでも、正しく得たものは正しく失うことができる。そうでないものはみじめに失っていく。だから人は「正しく得て、正しく失うためにがんばるのである」

ここで便利に使った「正しい」という言葉。これはどういうことか?
真っ先に頭をよぎったのは「ソクラテスの弁明」のクライマックス。ソクラテスの最期のセリフ、

42a しかし、もう出ていかなければならない時間です。この私は死ぬために、皆さんは生き続けるために。しかし、我々のどちらの方がより善いもののほうへ向かっているかは、神以外のだれにも明らかではないのです。

この中にある「より善いもの」と「正しい」が私のなかでは共鳴した。定義や前提なしでなぜか受け入れられる言葉、悟性に響く言葉だった。

私の未熟な概念の一部をもし説明するとすれば、
失うことを受容できるかどうか、ということだと思う。私は指を使う仕事をしていたので、修業時代は指のけがなどにとても神経を使った。そして筋肉痛など、コンディションにも配慮し、運動系の娯楽はほとんどしなかった。そうしてなんとか仕事ができるようになったが、あるときから、もし、それができなくなってもまったく恐くなくなった。手にした技術を失っても、生きていける。根拠ははっきりしないがかなり高揚した確信を得た。

それがどこからきたか?おそらく修業したことで、技術にとらわれないその技術を失う覚悟ができたからだと思う。人は成果を得るためにがんばっているのではなくて、失う覚悟を得るためにがんばっている、私はそう思う。

その営みはソクラテスも「神の知る世界」としている。現代的には哲学と宗教は相反するような印象を持つが、哲学の創始者とも言えるソクラテスがかくも明確に明晰に両者を共存させている叡智には驚愕する。

やや話がそれたので戻すと、ここで
悲劇と喜劇
ロマンスと冒険
という対句の最期に
意味じゃなくて願い
としてある「願い」にソクラテス的宗教性を感じる。
一見、よくある「夢にむかってがんばろう」というテーマではあるが、「人生」、「青春」というtermを大上段に構えて語るだけあって、「願い」をねじり出す制作者の洞察は深い。

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