【朗読】偏りの箱
初演:2023/5/14
言想綴園・伍 さらみ&柚子 書き下ろし
朗読用台本。
女性二人で読むことを想定して書いた作品です。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
A:一年前、母が亡くなった。急なことで当時は毎日泣き暮らしていた。いい大人がそんなことではいけないと思いつつ、身体も心も動けなかった。いつも穏やかに私を見守ってくれた母。一人っ子だったせいか過保護な面もあったけれど、母は私のことを本当に愛してくれていた。
この頃ようやく気持ちの整理もついて、手付かずだった遺品の片付けに重い腰を上げたところで、私の前に現れたのがこのからくり箱であった。賽の目状に切りこみの入った真四角の物体、端的に言えば木製のルービックキューブだ。単なる置物かと思ったが、見た目から想像したよりも軽い。触れると微かなずれを感じる。どうにかしたら開くのだと思う。しかしどこを捻っても、力任せに引っ張っても、箱はだんまりを決め込んでいる。傍に置かれた小さなカードには一筆が添えられていた。丸い母の字で「この箱を大切にしてほしい」。
B:呼び出しのベルが、集中の糸を断ち切った。賑やかな旋律が工房内にこだまする。私は未完成の椅子の背もたれをそっと作業台の上に乗せ、木屑を払うため両の手を数回叩いた。こちらの事情も考えず一方的に通話を求めてくるこの機械が、私は少し苦手だ。
ポケットから引っ張り出した端末に浮かぶ「父」の一文字。
「もしもし。……来月なら帰れるけど、何かあった?」
その時、ドアベルがカランコロンと来客を知らせてきた。そういえば来店の予約が一件入っていたのだった。
「ごめん、お客さん来た。切るね」
父の返事も待たず通話を終了し、慌てて姿勢を正す。
「いらっしゃいませ」
A:インターネットで検索して、最初に出てきたのがこの工房の名前だった。木製の家具を扱っているようだが、ホームページの片隅にからくり箱のページへのリンクが貼ってあった。開いてみると、長方形や六角形や丸いのや、その他奇抜な形の様々な箱の写真と値段が並んでいた。ただの玩具だと思っていたが、職人が手作りすると結構値が張るものらしい。
不躾な依頼だ。断られるかもしれない。しかし、こうするより他に方法が浮かばなかった。メールのアイコンを押して、名前と電話番号を入力する。
なんと書けばいいか逡巡して、率直に用件だけを打ち込んだ。
「私の持っているからくり箱を、開けていただけないでしょうか」
B:彼女は鞄の中から小さな箱を取り出し、テーブルの上に置いた。思わず身を乗り出し、感歎の声を漏らす。およそ十センチ四方の均整の取れた立方体。艶のある美しい飴色が、相当古いものであることを窺わせる。
「いいものですね」
私は箱を手に取って、素直に感想を口にした。箱には格子状に溝が刻まれており、耳元で揺らすとカサカサと小さな音がする。継ぎ目の音ではない。何か中に入っているのは確かなようだ。
A「昨年、母が亡くなりまして」
B「それはご愁傷様です」
A「遺品の中から出てきました」
B「大事にされていたんですね」
A「私は一度も見たことなくて」
B「そうなんですか」
A「最近購入したのかと」
B「だいぶ古い物のようですが」
A「じゃあずっとどこかに」
B「仕舞ってあったのでしょうね」
A「でもそうなるとちょっと変なんです」
B「変というのは?」
A「私、探検ごっこが趣味で」
B「え」
A「子供の頃のことですよ」
B「なんだ、びっくりした」
A「押入れに潜ったり天井裏を覗いてみたり」
B「わんぱくですね」
A「でもこんな箱はどこにも」
B「なかったんですか」
A「よっぽど大事に……隠していたんでしょうね」
B:さも可笑しそうに笑う彼女であったが、「隠していた」という言葉に私は一抹の不安を覚えた。彼女の母が実際に箱を隠していたのであれば、見られたくなかったのはこの箱自体ではなく、その中身であろうから。
しかしすぐに頭を振って考えを打ち消す。自分の親子関係が希薄なことに自覚はあるが、他所の微笑ましい親子にまで猜疑心を抱くとは。なんと捻くれた人間だろうか。
これは、母から子への純粋なプレゼントなのだ。そう思いなおすと、私はさっそく謎解きに取り掛かった。思い当たる仕掛けのパターンをあれこれと試してみる。押す、捻る、ずらす。すると一つの小さなブロックが応えた。と同時に彼女が小さく歓声をあげた。
「すごい」
A:「すごい」
次々とパズルが解けていく様は魔法のようだった。私の手の内にあった時にはあんなに頑固だった箱が、彼女の手の中では気を許した恋人のように素直だ。予想もしていなかった場所が開き、動き、閉じて、また形を変える。
その様を見ていたら母の手を思い出した。器用で優しかった母。学校から帰るといつも手作りのおやつが用意されていた。思春期で体形を気にするようになり、ダイエットしたいからもうおやつはいらないと告げたら、母は寂しそうな顔をしていた。少し胸が痛んだけれど、翌日にはおから入りの若干ヘルシーなドーナツに変わっていて思いっきり脱力した記憶がある。「そういう問題じゃないんですけど」
B:そう溢しながらも幸せそうに笑う彼女に釣られ、こちらまで笑顔になってしまう。彼女の話は続く。
A「裁縫も得意で、毎年夏には新作のワンピースを出してくれました。大きな花柄で、腰のところにリボンなんかがついてて可愛くて、それを着るとお姫様気分に浸れました。何故かいつもちょっと大きめに作られてるんですよね。子供はすぐ大きくなるとは言え、肩紐がずれ落ちるのはさすがにかっこ悪いので、毎回着てみてから丈をつめてました。サイズを測ってから作ればいいのに、そういうところは少し抜けてるんですよね」
B:屈託のない笑み。彼女は自分が愛されていたことを知っている。少し羨ましい。彼女の話は続く。
A「うちに大きめの本棚があるんですけど、下の段は全部アルバムで埋まってるんです。三十冊くらいかな。今と違って、写真を撮るのにもお金がかかっていたじゃないですか。なのに本当にたくさん。結婚式のスライドショーに使う時も選びきれなかったくらいです。とりわけ赤ちゃんの頃の写真が多くて。ただの寝顔が何枚も何枚も。でも、私も子供をもったら母の気持ちがわかりました。携帯電話も、写真のデータでぱんぱんです。子供のことを愛おしく思うたびに、母もこんな風に私を愛してくれたんだなって幸せな気持ちになるんです」
B:彼女の瞳が少しだけ潤む。私は視線を外し、からくり箱に夢中な風を装った。いや実際に、先程からからくり箱の細工の見事さに心を奪われていた。一見難しそうな手順だが、ひとたび解がわかれば、次の手がヒントのように示される。製作した職人の愛情が見えるようだ。ひたすら難解で意地悪な仕掛けも燃えるが、ずっと持ち主に愛されるのは、こんな箱なのかもしれない。
記憶にもおぼろげな遠い昔、幼い私も同じような優しい箱を持っていた。内包する秘密を私にだけ明かしてくれるような、そんな神秘なからくり箱。褪せていた記憶の色彩が、少しずつ蘇る。いつも抱えていたはずなのに、あの箱はどこに行ったっけ。
A「どこに行ったっけな」
B「え?」
A「よく旅行に行ったんです」
B「あぁ、沖縄とか?」
A「北海道とか、ディズニーランドも」
B「いいな、楽しそうですね」
A「でも一番行ったのはK市かな」
B「K市?」
A「K市です。埼玉の」
B「地元です。私の」
A「偶然! いいところですよね」
B「いやいや、ただの田舎ですよ」
A「大きな公園があるでしょう」
B「ひょっとして桜公園?」
A「何度も遊びに行きました」
B「私もよく遊んでましたよ」
A「もしかしたら会ってたかも」
B「でも、どうして?」
A「確かに」
B「観光地でもないのに」
A「今考えると不思議です」
B「あの辺りにご親戚が?」
A「いいえ、まったく。母に兄弟はいませんし、祖父母も私が生まれる前に鬼籍に入ってます。あとはそうだな、父方のことはわからないけど、会ったことも無いから付き合いはなかったんじゃないかなぁ。父も私が小さい時に亡くなって、顔も覚えてないんです。あ、すみません、長々とくだらない話をしてしまって」
B「いえ、とても素敵なお母様だったのですね」
A「はい、自慢の母でした」
B:その時、明らかに箱の手ごたえが変わった。わかる。きっとこれが最後の仕掛けだ。
引出し状になったパーツをゆっくりと引き抜くと、目当てのそれは現れた。小さな綿の上に置かれた、乾燥した二つの茶色の欠片。おそらく臍の緒だ。他人からすれば、少し気味が悪くも思える物体だ。しかしそれが親子の間柄であれば愛の証そのものである。彼女の母はそれを生涯大切にしまっておき、娘へと託したのだ。
言葉の出ない様子の彼女。感動に打ち震えているのだろうと予想したが、その顔は思いがけず、白く無表情に固まっていた。
A「どうして」
B:言葉の意味が掴み切れずにいると、彼女は震える声で続けた。
A「私に兄弟はいないんです」
B:他人の臍の緒を大事にとっておく謂れはない。一つは彼女のものに間違いないだろう。ならばもう一つは?
A「誰の……?」
B:彼女に早逝した兄弟がいたのか。あるいは。私の頭の中で、彼女の話の断片が次々と浮かぶ。
A「とりわけ赤ちゃんの頃の写真が多くて」
B:そこに映っていたのは本当に彼女一人だけだったのだろうか。兄弟の、しかも赤ん坊の顔など、本人でも見分けがつかないに違いない。
A「父の顔も覚えてないんです」
B:遺影さえ残ってないのはあまりに不自然だ。父親の写真が意図的に処分されている。そこには相応の理由があったはずだ。
A「親戚もいないのに」
B:度々訪れたK市。
A「観光地でもないのに」
B:よく遊んだ公園。
A「何故かいつもちょっと大きめに作られてるんですよね」
B:それが彼女のためのワンピースではないとしたら。
A「自慢の、母でした」
B:私は一つの可能性に思い至った。彼女の母は、K市に住む誰かに、会いに行っていたのではないだろうか。会うとまではいかなくても、その姿を遠くから眺めていたのではないだろうか。おそらくは、幼い頃に離別した、彼女より少し年上の、子供。
辿り着いた結論を口に出すことはできなかった。考えすぎだ。捻くれた私の心が誤った仮説を立てているだけだ。しかし彼女の白い顔を見れば、私と同じ結論に達したことが容易に理解できた。
A「母は、本当に私を愛していたのでしょうか。それとも私を通して誰かを見ていたのでしょうか」
B:長い時間、沈黙が場を支配していた。彼女を慰める言葉さえ出なかった。何故ならその時私の脳裏には、さらに恐ろしいもう一つの可能性が浮かんでいたのだ。考えてはいけないと頭の中で警告する一方で、示されるヒントに思考が飲まれていく。止められない。心臓は早鐘のようにうったが、頭は妙に冴えていた。
まるで次の手を知っているかのように。
何度も開けたその手順をなぞるように。
もう一度蓋をしたところで、隠し通すことはできない。
箱はもう、その秘密を曝け出してしまったのだ。
B:突如、浮かれた音楽が室内に鳴り響き、沈黙を引き裂いた。ハッと息を飲む。彼女も身体を強張らせ、自らを宥めるように胸に手を当てている。
冷たい手で携帯電話を取り出した。表示される「父」の文字。
この電話に出なくては。そして問い正さなくてはならない。幼い頃、私を置いて出ていったという、顔も知らぬ母の事を。
(完)