【9/18観劇記録】avenir'e「許し」(ネタバレだらけ)
はじめに
もんわりとした残暑の夜、新宿眼科画廊地下スペースで行われた劇作家ダニエーレ・レオーニ氏による新作劇「許し」を観劇した。
内容はそのまま、【許し】について。
ルーカス(演:大原研二氏)というクソ親父が基軸となり、ルーカスの2人の子どもフレデリック(演:家入健都氏)とアンナ(演:柴田美波氏)、ルーカスの古くからの友人アルトゥーロ フランカビッラ(演:経塚祐弘氏)の4人が演じる。
この話は「あなたなら、ルーカスみたいなクソ親父がいたら許せますか?」みたいな簡単な話ではない。
「許す」こと、その行為について帰りの電車で考えてみる。
感想
入学したてのちびっこ、小学校1年生の4,5月に異常な数行われる会話がある。
「お友達になろう?」
── 「いいよ」
この言葉を私も入学したての時は教室で、校庭で、トイレでたくさん言ったし、聞かれた。
なんの繋がりもない他人と近づくとき、小学生は「お友達になろう?」と聞く。聞いて「嫌だ」ということはほとんどないので、友達になる契約を結ぶ際の形骸化した儀式になる。
今回の劇では、このくらいの中身のない
「許してくれるか?」
──「許すよ」/「許さない」
が飛び交うシーンがあった。
ルーカス・フレデリック・アンナの間で互いの悪行を晒し合い、許す許される論争を繰り広げていた。そこでの「許す」は最も軽くて、ポップに描かれていた。
ここでは「許す」/「許さない」が「友達になろう?」くらい形骸化した言葉の殻になっていて、おかしみがあった。
この後劇が進行していくにつれルーカスがいかにクソ親父か分かっていき、シーンを追うごとに「許し」についての重みが増す。
これまで家族を繋ぎ止めるものは血が繋がっているなりの「無償の愛」であると考えていたが、観劇したことで自分自身が家族のつながりや自分のあり方を非常に軽く捉えていると感じた。
無償の愛を盾に何をしてもいいわけでは無いし、ルーカスにはその「無償の愛」にすがり続けようとするあさましさを感じる。
そのあさましさは一方でどの人間にもある弱さかもしれず何度も噛んでは考察したい内容だった。
「許す」ことについて考える
人間関係が深まるほど、相手の知らなかった酷いところが露出し、「許せない」ことが増える。
私にも許せない人がいるし、自分が色々やらかしてしまって許してもらえないだろうと思う人がいる。
「許す」ことと、「許される」こと、「許してもらいたいと思う」ことは全く違う。
「許す」のは自分の中で許す理由ができて、相手の過ちを認められるようになること
「許される」は相手が自分の過ちを許す時が来たこと
「許してもらいたいと思う」のは、相手が許すタイミングが来るのを心待ちにして、その時を迫ること
…と思う。
実際フレデリックやアンナがルーカスのことを許そうと思った時、3つの衝撃の事実が明かされた。
①この家族より後にできたリスボン在住の別の家族の存在、子ども2人がいること
②その子ども2人に自分達と同じ名前をつけていたこと(フレデリック2とアンナ2)
③明らかにこちらの子ども2人よりもリスボンの子供たちの方が大切にされていたこと
この3つが分かってしまった時、「許す」方針だったのが「許さない」に一転し、最後には父親を存在しないものとするようになった。
(このあと、今回演じているフレデリックとアンナをフレデリック1、アンナ1と呼ぶ)
ルーカスはクズだが人当たりは良く、許されようと思うと正直に何でも話してしまうので、劇終盤にはフレデリック1・アンナ1の2人に対して悪気の無い最悪な人格否定をしてしまった。
フレデリック2、アンナ2と一緒の方が良い。フレデリック1、アンナ1よりも、もっと良く育ち、素敵な子どもで一緒にいて心地が良いと、1の兄妹の前で言いのけてしまったのだ。
これにはアンナ1もやるせない感情に狼狽えて絶望する。
自分の父親が、自分達を一番と考えず同じ名前をつけた後の子供たちを愛していると分かった瞬間、さーっと世界が遠のいて、父親が次第に他人のように感じていくだろう。
そもそも、自分達よりも後にできた別家族の子ども2人に同じ名前をつけることは、本来の自分達の存在を消して上書き保存していることになる。
フレデリック1とアンナ1をこの世にいないものとしてきたルーカスのどうしようも無い醜さが透けて見えた。
思えば舞台序盤、ホームレスのルーカスとフレデリック1は再会したが、意思疎通がうまくできていなかった。噛み合っていなかった。
フレデリック1は自分を捨てた父親との再会を喜び、これまでの行いを時間が解決したとして「許す」と何度も言う。
しかし、ルーカスは「お前が許してくれるはずがない」と取り合わない。
噛み合わないおかしさと、なかなか舞台が進行しないことへのもどかしさを覚えたが、それもそのはず。
ルーカスは別家族の事実まで全ての当事者である上でフレデリック1とアンナ1を「許してくれるはずもない」と切り離してしまっていた。
ピントがぼやけて2つに見えていたものが、友人として登場するアルトゥーロの言動によって次第にピッタリと合っていき疾走感を伴いながら先述の衝撃的な事実に辿り着く。
最初のルーカスとフレデリック1の会話の噛み合わなさへのモヤモヤがこんなに残酷な"納得感"に繋がってしまうのだから、観劇後の今もゾクゾクしている。
そしてクソ親父・ルーカスはとっても弱い人間だと思うが、彼のことをどうも100%許せないとも思えない。というよりもまた「許す」とは違う価値基準で考える必要があると思った。
子どもたちとアルトゥーロが親戚だと分かり新たな関係性が育まれようとしている時、完全に無視されたルーカスの「許してくれ」には、一縷の望みと諦め、悲哀がないまぜになった感情が見え隠れしていた。
子どもたちとアルトゥーロは「許さない」と決め、ルーカスを殺さないまでも、ルーカスがかつて子どもたちにやった「上書き保存」を子どもたちもルーカスに「無視する、存在しないものとして振る舞う」ことで態度に表した。
この瞬間にフレデリック1、アンナ1、何度も思い出話に出ていた大切な友人アルトゥーロとの関係は完全に断ち切れた。
家族だったものが他人になる瞬間は機械的であり感傷的でなかったが、かえってそれが観客を空虚に感じさせた。
ルーカスはくしゃくしゃの搭乗券を手にリスボンに向かうが、リスボンで家族2と過ごした際にどんな気持ちになるだろうか。
家族1を心の中で完全に無いものとして忘れることができるだろうか。
ルーカスはクソ親父でどうしようもないやつだけれど、ルーカスがかつて家族1に見ていた幸せや家族への愛はどんなものだったのだろうか。
最後に
相手の気持ちは読み取れない。
許せるか、許せないか、許してもらいたいと思っているか、許してもらいたいとは思っていないかも、何もわからない。
言語を持たない動物には「許す」/「許さない」の感覚はあるのだろうか?
人間関係や家族の、白黒つけられない感情を呼び起こさせて自分のこれまでの人間との付き合い方をも揺すぶって問いかけるような劇だった。