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漆芸家、スペインをゆく: Día 5
スペインは、かつてその国土の大部分をイスラム帝国に支配されたが、キリスト教勢力が8~15世紀にかけてイベリア半島を取り返す再征服活動があった。これをレコンキスタと呼ぶ。
レコンキスタの最後の舞台となったのが、最南部の都市グラナダである。イスラム教徒によって作られた街が、レコンキスタ後にキリスト教徒によって作り替えられた。しかしそれは新たな色に塗り潰すというのではなく、絶妙な塩梅で新旧の文化を融合し、他に見られない魅力的な風景を生み出すこととなった。
アルハンブラ宮殿をはじめとする異国情緒溢れる街並みは人気を呼び、スペインきっての観光都市として連日多くの観光客が訪れている。
ホテルはアルハンブラ宮殿に程近い、バルの立ち並ぶ路地の一角にあった。どの店も観光客と思しき人達で賑わい、どこからともなく美味しそうな匂いが漂ってくる。私はかつてこの街に来たことがある。20年近く前だ。目に映るもの全てが美しく、その感動は多感な若き日の私の心に深く突き刺さったのを覚えている。しかし、20年も前のことなので、街の記憶自体は朧げで、初めて来たような心持ちである。
海に近いこともあり、夕飯は魚介系のバルを選んだ。外から少し様子を見ると、活気にあふれた店内は明るくてモダンな印象だ。長テーブルが5台ほど並び、それぞれに両側から6人ずつくらい座れる作りになっている。皆ビールやワインを片手に話に華を咲かせている。ムール貝とマテ貝があったので頼んでみると、量が多いからどっちかにした方がいいよ、と定員さんに言われ、ムール貝にする。しばらくして、小さな皿に白身魚のフリットが運ばれてきた。美味しい。これはお通し的なものらしい。さらに待つとムール貝も来た。言うほど大きくもないが、味は確かである。
とそこへ、他の観光客とは雰囲気の違う、いかにも地元の人です、というおじいさん二人が来て隣の席に座った。早速ビールを頼み、何やら楽しそうに話している。彼らが頼んだ皿が美味しそうだったのでついチラチラ見ていると、気づいた一人が「これはうまいぞ、魚介のフリットの盛り合わせだ」と、お勧めしてくれた。私が頼もうと思っていた別のメニューについて聞くと、これは小さいイカの焼いてるやつかなんだったか、と説明してくれる。こう言う飲み屋で話しかけてくれるスペイン人のおじいさんは大抵すごく優しい。そして距離が近い。危ない人もいるかもしれないのであまりお勧めはできないが、私はこういう会話が好きなので、わずかに思い出し始めたスペイン語で話してみると、帰る頃には、よくぞ来てくれた、楽しんで行ってくれたまえと、力強い握手をして去っていった。
朝。私達はアルハンブラ宮殿から少し離れた高台に来ていた。ここにサクロモンテ(Abadía del Sacromonte)という修道院がある。
今日から旅の第二章が始まる。スペインに来た目的の二つ目、南蛮漆器(なんばんしっき)の調査である。
今から遡ること400年以上も前、日本では織田信長がその名を全国に轟かせていた頃、スペインという国も大きな転換期を迎えていた。隣国のポルトガルがヨーロッパ諸国で初めて、地球の裏側にあるインドに海路で渡ることに成功した。世に言う大航海時代の始まりである。日本ではあの有名なフランシスコ・ザビエルが来たことで知っている人も多いと思う(ちなみにザビエルはスペイン人)。ポルトガルから日本にはキリスト教をはじめとするヨーロッパの文化が伝わり、社会に様々な変化をもたらした。と、ここまでは教科書にも載っている話。
もう少し歴史を深掘りしてみる。
ポルトガルは何も一方的にヨーロッパの品々を持ち込んだわけではない。日本も一方的にそれらを受け取っていたわけではない。来訪者たちは日本で目にした文化に驚愕し、物珍しい品々を自国へと持ち帰って売り、巨万の富を得る。日本人も異国に日本文化を紹介し、国内の優れた品々を大量に彼らに売りさばくことで、とてつもない規模のビジネスが誕生したのである。
そんななか、西洋の眼に最も大きな驚きを与えた品の一つが、蒔絵と螺鈿の施された漆芸品であった。深い黒に輝く器や箱に大量の金の装飾が施され、散りばめられた貝の輝きと美しく一体化している。長い航海で彼らが見てきたどこの国にも存在しない、個性的な工芸品だった。その美しさに魅せられた宣教師たちは蒔絵の作品を自国に持ち帰ることを考える。しかし日本での生活のためにつくられたものは母国では使い道がない。そこで、彼らの文化にあわせて、キリスト教の宗教道具を職人たち(もしくはそれを指示できる有力者たち)に依頼した。こうして生まれた、まったく異色の漆工芸品が南蛮漆器である。これらの品々は彼らを大いに喜ばせることとなった。
次々に制作された南蛮漆器は、遠く海を超えてヨーロッパへと届けられることになる。今から20年ほど前まで、こうした南蛮漆器はポルトガル船に乗ってヨーロッパへ伝わったとされていた。しかし近年、この話に続きがあったことが明らかにされてきたのである。
ポルトガル船がアジアにやって来たのち、それを追うようにしてもう一つの国がアジアの地を目指した。スペインである。彼らはポルトガルが切り拓いた海路を使うことができず、新たな方法でインドの地を目指すこととなった。
ポルトガルを東ルートとするならば、西ルートの開拓が始まる。かの有名なコロンブスはスペインから旅立ってアメリカ大陸を発見、マゼランは南米を大きく南まで周り、マゼラン海峡を通って太平洋へと海の道を開拓していった。長く険しい旅を経、大きな大きな太平洋という壁を乗り越えて、スペイン船は遂に、ポルトガルとは全く別のアジアへのルートを開拓し、日本に辿り着いたのである。
そして彼等もまた、南蛮漆器の虜となり、今度はスペインルートを通って大量の漆器が海を渡った。その大量の漆器は、しかしつい20年ほど前まで、誰にもその存在を知られていなかった。南蛮漆器はポルトガル人によって輸出されたもので、国内向けの作品に比べて質が劣り、取るに足らないもの、とされてきた。
ある時、スペインに一人の日本人研究者が現れた。その研究者、川村やよい先生は、とある縁からスペインで南蛮漆器の調査を始めた。すると、それまで知られていなかった南蛮漆器の優品が次から次へとスペイン国内で見つかり始めたのである。
きっかけはマドリッドにあるデスカルサス・レアレス修道院に保管された大きな洋櫃(ようびつ)だった。高度な蒔絵と螺鈿の装飾が施されたその姿は、間違いなく日本の最高の職人達の技術が詰め込まれた一級品だった。これは聖遺物入れと言われるもので、修道院で崇拝される聖人の遺骨や遺品が保管される箱、すなわちその修道院で最も大切な宝を守るための箱だ。
これを皮切りに、現地の教会や修道院から次々と南蛮漆器が発見された。それまでに見つからなかったのは、南蛮漆器があくまでも宗教道具、もしくは重要な宝物の保管箱として現役で使われていたため、外部に流出することがなく、また使っている当の本人達はそれが日本の蒔絵の箱だということすら分からずに大切に守り伝えてきていたからであった。
スペインでの発見は、南蛮漆器に対する世間の見方を大きく変えることとなった。南蛮漆器は決して薄利多売を目的とした漆器ではなく、その幾つかは極めて高いレベルで製作され、その人気に火がついたことで、安価な紛い物も大量に作られることになったと理解できる。そしてそのマスターピースとも呼べる作品達は今もなお現役の宗教道具として、スペイン各地で大切に扱われているのである。
南蛮漆器には、まだ分からないことがたくさんある。そして、400年以上の歴史の中で損傷が進んだものもたくさんある。私たち技術者の目線で、その魅力を引き出し、後世に伝えるためにどのようにメンテナンスをすべきか。スペインを訪れる際には一つ一つ、その技法や材料を調査させてもらい、持ち主の方々にその貴重性を説明し、丁寧に記録を取ることを心がけている。
最初の調査を終え、街へ戻る途中アルハンブラ宮殿を通り過ぎた時、ふと見覚えのある景色が視界を横切った。忘れかけていた記憶がぶわっと脳内に広がる。まだ漆の仕事を始める前、世界にはこんなに美しい景色があるのかと衝撃を受け、言葉に表せないようなわくわくしたあの時の、空気、匂い、光。
写真もインターネットもない時代。南蛮漆器とともに移動した人々は、今の私たちとは比べ物にならないほどの衝撃と感動を体験したに違いない。
修道院の一部屋、祭壇の上に大切に飾られた南蛮漆器は、かつて彼らが感じただろうその空気を静かに纏っているように感じられた。
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