中編小説『バランス・ゲームのゆくえ』5
12
部屋の扉が開け放たれ、大小さまざまな悪魔たちがぞろぞろと入ってきた。翼のある者、蛇のような者、サーベルタイガーのように長い牙を持った者、ピエロに似た奇怪なフェイスペインティングをした者まで。サーカス団を彷彿とさせる悪魔たちであった。
「百鬼夜行? これからサーカスでもやるのかな」アキラの言うとおり、たくさんの悪魔が列をなしていた。そして慎重になにかを運び入れ、床にそっと置いた。
「エディラ殿、これのことか」黒っぽい体の一つ目がエディラに聞いた。目立たない色の着物姿で、腰に鞘のようなものを差している。行列のリーダーはこの一つ目の悪魔であった。
「ありがとう! 重いのに悪かったわね」
「では」一つ目が号令をかけると、三つ目の悪魔がなにかを連れて列から外れたのが見えた。「エディのねーちゃん、こいつも連れてきたぜ!」
「はなせっやめろ! わたしがなにをしたって言うんだ!」
例のキンキン声が春樹とアキラの耳に届いた。体を寄せて見守っていると、一匹の悪魔が「くそう!」と暴言を吐いた。春樹とアキラがその姿を認めたとき、ふっと思い出したのが「塩コショウの生活」であり、笑いをこらえるのに必死であった。怒りより先に笑いが出ようとするのは「塩コショウの生活」の破壊力がすさまじかったからであるが。
真っ黒で腕は細く、翼も一本角も目立たなかった。絵に描いたようなひ弱な姿──これがカイだというのである──に、春樹とアキラは拍子抜けした。「お前、わたしの足をつかむなっ」ぬいぐるみを操っていたときと同じように、威勢だけはよかった。
「カイのことだから、どーせ自分より弱いやつを相手に遊んでんじゃねーかと思ってたんだぜ。そいつは『いじめ』で、やっちゃいけないんだぜ!」三つ目の悪魔がカイの足から手を離し、カイは床に激突した。
「わたしを愚弄するな! あとでお前にも……お、お前たち、なんでここにいるんだ! 初対面で笑うのは失礼だろっ!」カイは春樹とアキラの姿を認めると、金切り声を上げた。
「すまん、どうしても『塩コショウの生活』が頭から離れなくて」
「なんだ、その『塩コショウの生活』とやらは。質素でよいではないか。さて、我らも貴殿らの講義とやらを聞くこととしよう」悪魔の行列が部屋の隅まで下がり、暗闇に溶けて見えなくなった。真円の中に残ったのは春樹とアキラ、一つ目の侍風の悪魔とカイをぶら下げてきた三つ目の悪魔、そしてカイと謎のなにかだけとなった。部屋の主であるサールとエディラの気配も消えており、助けを求められない状況にされた。
「お前たち、自殺したことを笑ってやった腹いせに来たのか? わたしは悪魔だから、笑うに決まってるだろ! それのどこがおかしいんだ!」
「聞き苦しいぞ、カイ!」外野に下がったはずの百鬼夜行からヤジが飛んできた。「90分なんて、あっという間じゃねえか!」暗闇に溶けただけで、完全にいなくなったわけではなかったようだ。
「大学の講義1コマぶん! そんなに喋る内容、あるかなあ……角谷さん、どうしよう?」アキラのアドリブがあれば問題はなさそうに思えるが、依頼された内容は、ふたりとも専門外であった。
「うーん」春樹は悩んだが「俺たちなら、なんとかなるよ」と安心させた。「ほら、こいつは言い間違いをするやつだし、ちょっとジョーク交えれば、勝手に笑うんじゃない?」
「でも『塩コショウの生活』は納得いかなかったけどね⁈ マイケル・ジョーダンをマイケル・ジャクソンと勘違いしてたことは謝ってもらうよ!」
どこから話してもらえばいいか──春樹は百鬼夜行が運んできたなにかが気になって仕方がなかった。アキラに喋る内容を考えてもらうあいだに観察してみると、おおきな平たい入れ物に水が満ちていることがわかった。表面張力でも働いているのか、水はこぼれる寸前のところを維持している。
「へえ、死後の世界にも物理法則ってあるんだ」変なところが気になると、最後まで気になってしまうのは春樹の悪い癖であった。「倉持さん、これを使おう」春樹はアキラに平たい入れ物を使うよう指示した。つくりは簡素であり、真円であった。水面になにか沈んでいるように見えたが、なんなのかはわからなかった。
「あれ、なんだろう」入れ物を覗き込んできたアキラがなにかを見つけた。「きれいな石みたいなものが沈んでるよ」
「おいヤナギ! どうしてこれがここにあるんだっ」
「カイ、これがなんだかわかるのか」
「当然だろう! これはわたしのものだ!」どうしてここにある、とカイはご立腹な様子で一つ目の侍風の悪魔──ヤナギというらしい──に噛みつかんばかりの勢いで問い詰めようとしていた。
「これを使います。ヤナギさん、ちょっと来てもらっても?」アキラが侍風の悪魔を名指しして「この中に水を入れてもらってもいいですか?」と置いてあった水差しを示した。
「待て、この中は水が満ちている状態であろう。これ以上注ぐと、容量がいっぱいになってこぼれるのでは」入れ物を揺らしたり、新たに水を追加したりすれば、中の水はこぼれる。ややぎこちない動きではあったが水差しで入れてもらったところ、予想したとおりの事態が起きた。水があふれたのである。「見ろ、あふれたではないか」伝い落ちた水が真円の中に染み込み、ヤナギは残念そうにしながら水差しを足元に置いた。
「まあ、これは当然の結果だな。規定の容量を超えるものを入れることはできない」結果、流れた水はムダになった。
「む、貴重な水をムダにしてしまった。今日は風呂に入らないでおこう」
「お風呂は入ってもいいんじゃない⁈」
「おいおい、それはちょっと違うんだぜ!」三つ目の悪魔が講義に割って入ってきた。「閻王さまも『資源を大切に!』って言ってるぜ! ここでも水は貴重だから、ヤナギは風呂なしを決めたんだぜ。資源のために自分を犠牲にする。くーっ、しびれるぜっ!」
「じゃあ──三つ目のあなた」
「おうよっ! ミツバってんだ、よろしくな!」ミツバは体をくねらせて喜んだ。陽気なミツバは下半身が蛇であった。
「見た目とは裏腹に名前がかわいいね⁈」名前と風体にギャップのあるミツバを名指ししたアキラが「こういうのは笑っちゃダメだよね、すいません。水を追加で入れたいと思った場合、ミツバさんならどうしますか?」と聞いた。
「おいおい、同じのに入れるのは無理だぜ! さっきヤナギが水を入れたとき、こぼれたじゃねーか! もったいねー!」ミツバは水差しを手にしたままで少し考え「あったぜ!」と尻尾をバタバタ振り出した。「入れ物の内側を削るか、入れ物そのものを大きなものに変えりゃいいんだぜ!」
「今、削ることはできます?」
「そいつは難題なんだぜ! これはカイのものだから、カイの許可を取らなきゃいけないんだぜ!」きょろきょろする姿が愛らしく見えてしまい、春樹は一瞬だけ和ませてもらった。
ミツバもヤナギも即決しても即行動にうつすことはせず、きちんと一歩踏み出すのをやめたのだ。特にミツバは細かいところまで気にするタイプのようであり、かなり几帳面な性格をしていると春樹は勝手に分析した。名前を出されたカイは「削るだとっ⁈」と敵意をむき出しにしていた。「これを無断で持ち出した挙句、削るだとっ……⁈」今にも飛びかかってきそうなカイを、ヤナギとミツバが拘束した。彼らはカイよりも大きく、体のちいさなカイを拘束するのは朝飯前といった様子であった。春樹とアキラはふたりにそのまま押さえてもらうことにし、授業を続けようとしたのだが、悪魔のやり取りは終わらなかった。
「いくら精神界でも、権利ってものはあるんだぜ! だから無断で取るとか、加工とかしちゃダメなんだぜっ!」
「お前たち、勝手に持って出てるじゃないか!」
「サールさまの許可が出ているんだぜっ。ほら、札はこれだぜ!」ミツバが隠し持っていた紙切れをカイに見せて納得させる作戦に出たが、カイは「そんな紙切れ一枚に、なんの権力があるんだ!」と聞く耳を持たない。
「死後の世界にも令状ってあるんだ」春樹はミツバが持っている紙に興味を示した。「こんなところにも警察組織があるってこと?」
「授業、進めていい?」アキラが春樹の横で叫ぶ。「これが最後の質問だよ。こぼれた水を元に戻してください、と言われたら、カイはどうする?」
アキラが最後の問いかけをした。先のふたつの質問はどちらが先でもよく、ヤナギたちではなく春樹が答えてもよかったのである。しかし最後の問いだけは、カイを指名しなければ意味がない。
「そんなの簡単だ! 同じ量をはかって入れればいい! それか、こぼれたぶんの水を凍らせて、入れ物の中に戻せばいい!」
「そんなことできるの⁈ 魔法があるなら、僕見てみたいな!」
「無理なもんか! わたしを誰だと思ってるんだ!」アキラのツッコミを拾ったカイがヤナギとミツバの拘束から抜け出していた。「さあ、こぼしてみろ! 早くこぼせっ!」真っ黒な肌に、力が宿るのが見えた。
「いいのか?」
「わ、わたしの力を証明するんだ! どうした、早くしろ!」
あのときのように、威勢だけはいい──春樹とアキラは「元に戻せた場合」のことは考えていなかった。できないと確信していたからであるが、それでも少しの不安は持ち合わせていたほうがいいのかもしれない。
もし戻せたら、一緒に謝ろう。春樹はアキラにそう伝えた。
「じゃあ──ヤナギさん、ミツバさん。盆をひっくり返してください!」
ヤナギとミツバは春樹の指示に従って入れ物を持ち上げて傾斜をつけ、中の水を半分だけ床にこぼした。「カイ、ほんとにいいんだなっ!」
カイは黙ったままであった。ぶるぶる震えているのは気のせいであろうか。
「ミツバ、よい。すべてあけてしまおう。『さいせいを告げる銅鑼』が盗まれたままであると聞いたのはいつだったか。どうだろう、これを銅鑼の代わりにするのは」
「ひょー! ヤナギはセンスがいいぜっ! 『さいせいを告げる銅鑼』の代わり……ちょっと待て、こいつは探している銅鑼だぜっ! ってことは、カイのものじゃないんだぜ?」
ふたりの悪魔は訝しみながら入れ物を傾け、しまいにはひっくり返して中身をすべてあけてしまった。最後の一滴と一緒に、沈んでいた石のようなものも落ちた。
「カイ、これを元に戻してください」
アキラが再び問いを投げかける。真円の中にいる春樹たちとは別に、聴衆へ回った百鬼夜行の視線も浴びたカイに逃げ場はない。一気に注目を浴びたカイは、水浸しになった床に手をかざして口をもごもごさせた。
部屋が静まる中、カイがこぼれた水に手をかざしてから10秒ほど経ったであろうか。いくら待てども、室温が下がる気配も、水が凍る音が聞こえることも、手から光が漏れることもなかった。春樹とアキラは物語の中だけだと思っていた「奇跡」の瞬間に立ち会えるのかと期待に胸を躍らせたのであるが、カイの「つ、使えない……」という涙声に、現実に引き戻された。
「自分の犯した過ちを、ようやく理解したと見た」青ざめていくカイを見たヤナギが、この言葉をつぶやいた。
特別授業は効果覿面であったな、とヤナギは言い、下がっていた行列に号令をかけ、水が入っていた入れ物を持って部屋から出ていった。去り際にミツバが「閻王さまにも、この先生たちにも、謝らないといけないんだぜ──あと、ミラナーナにも」と泣き崩れるカイに言葉をかけていた。さっきまでの威勢はどこへやら、水を元に戻せないとわかったカイは、空気が抜けた風船のようになってしまっていた。
「カイ、こぼれた水が元に戻せない理由、わかったか?」春樹は今度こそ最後になるであろう問いかけをした。これでわからなければ、反省していないことになり、特別授業も意味のないものとなってしまう。
「……水は地面に染み込んで形を失う。それをすべて集めるなんてできるわけがないし、ましてや凍らせて戻すなんで論外だ」握り拳をつくったカイは、水で濡れた床を叩き始めた。「新しく水を入れることはできても『もともとの』水は戻せない」
事の重大さにようやく気づいたカイは「ミラナーナを弔う準備、しなきゃ」とだけ言い、部屋を出ようと歩き出した。とぼとぼ歩くカイの背中はとてもちいさく、今までの威勢はどこにも感じられなかった。授業の意味をきちんと伝えられたと感じた春樹は、おおきな扉の前ですすり泣くカイにこう言った。
「覆水盆に返らず──一度起きたことは、元に戻すことができないことを意味することわざだ」
彼がほんとうに「下位」であることを物語っていた。
13
「あああっ、ありがとうございます! これで長蛇の列がさばけますっ」
春樹とアキラは、精神界を治める閻王にお呼ばれされていた。「死人のための裁判所」がある丘の一番下に閻王の住む小屋があり、ここから精神界全体を見上げているのだそうだ。疲れた顔を隠すことはマナー違反と思ったのであろうか、そのままの姿で出てきてくれた。驚いたことに、閻王はカイにそっくりの小鬼であった。これでは、風格もなにもない。
「いえ、俺たちはただ」
「処分を受けただけです」
「いいんです、いいんです」カイと瓜二つの姿をした閻王は、カイと違ってとても腰が低かった。そして「みなさーん、銅鑼が戻ってきました! これまでのぶんの『さいせいを告げる銅鑼』が鳴りますよー!」と声を張り上げた。
どこからか、重厚で、しかも生前では聞いたことのないような洗練された音が響き、精神界全体を包み込んだ。春樹もアキラも、その音に聞き入った。
「鈴に似てる音だね。耳から入った音が全身を洗ってくみたい」静かなコンサートホールに置かれたグランドピアノの鍵盤をひとつだけ叩いたようなちいさな音であったが、はっきりと聞くことができた。
これで一件落着です、と閻王がふたりに向き直る。「あなた方は見込みがあると、ヤナギさんから報告を受けています! どうでしょう、精神界で『せんせい』をやる気はありませんか?」
「悪魔相手に授業したら楽しそうだけど、それって需要ある? 将来的に偉くなるためだったら喜んで引き受けるけど」アキラがいつもの反応をしてくれ、春樹はほっとした。たしかに悪魔相手に授業をしても、まったく意味がないように思える提案であった。将来的にと入れたのは口が滑ったのであろう。春樹たちはすでに死んでいるので、将来もなにもあったものではない。ここでもツッコミを用意しなければならないのかと思っていたが、閻王は常識人であり、そんな心配は無用であった。
「えへへ、冗談ですよ! おふたりとも、処分の期間を5,000日遅延させた罪はチャラです!」古い天秤のようなものを持ってきた閻王は錘を乗せて「こっちが自殺した罪。こっちが銅鑼の発見と、カイに物事をわからせた実績です」と、左右に乗せた錘が表しているものを説明した。天秤は左に大きく傾いた。「ほら、功績のほうが圧倒的に大きいんです」
「なるほど、2は1より重いから、2つ乗ったお皿が傾くね」アキラが天秤を観察し、錘を乗せたり取ったりしていた。
「この天秤によるとですね、角谷春樹さんと倉持アキラさんは『転生の余地あり』から『転生可』となっています──ほら、またひとつ転生する魂が送り出されます」
「死人のための裁判所」で「転生の余地あり」の判決が言い渡されると、真っ暗闇の中をどこへでも行くことができ、物質界に帰る選択肢も与えられるという。悔いなく生きられた場合は転生しないを選択する人もいるらしく、どちらを選ぶかは本人次第であるとも言った。グレアの言っていた「あかし」は、この「転生の余地あり」であったのだ。
「転生可」の判決が出ると、そのほとんどは物質界に帰ることができる。いつ帰ってもよく、期間は決められていない。ただし、この「あかし」は精神界にいる間に取ったさまざまなおこないで剥ぎ取られる可能性があり、早めに帰ることを勧められるのだそうだ。
「詰まってた処理も、これで解決です! わたしもみんなも、ハッピーです!」
銅鑼が鳴ると「お帰り用」として現れる特別な船に乗せられ、もときた道を逆走する形で物質界に帰ることができるという。それを決めるのは物質界での判決文と本人の「意思」が大きく関わる。それによると、春樹とアキラは新たな命として帰ることができる、というのである。
「これが、カイの悪事を暴いた功績の報酬です!」
春樹とアキラは、白い体をぶつけて喜びあった。
「おふたりとも」閻王は喜ぶ春樹とアキラを呼び止めた。「わたしからも問いかけをしていいでしょうか」
喜んでいた春樹とアキラは顔を見合わせた。
「おふたりの元に現れた箱の謎、そのままでいいんですか? 離れた場所で、しかも同じ時間帯に現れて、おふたりの人生をめちゃくちゃにした箱──この謎を解いてから、お帰りになりませんか?」
閻王はにこにこ笑っている、「おふたりとも──もうわかりましたよね?」
春樹とアキラの「最後の謎解き」が始まった。
─
「謎解き、おめでとうなんだぜ! ミツバはちょっと寂しいけど、ふたりはちゃんと仕事して、謎も解き明かしたから、一件落着なんだぜ!」
最後の力を振り絞って「箱」の謎を解いた春樹とアキラは、半分以上溶けたソフトクリームのようになっていた。グレアのソフトクリームよりもひどい有り様に、ふたりして笑った。肉体の代わりに、精神面に直接疲労の塊が押し寄せたためにヘラヘラ笑うしかできなかった。ふたりとも、とてもではないがもう動きたくなくなっていた。思考を止めたいとアキラは言って春樹に寄りかかってきた。春樹もアキラに寄りかかった。
「角谷さん、疲れたね。肉体がなくなった状態でも疲れるなんて、初めて知ったよ」
「そうだな、倉持さん。俺もヘトヘトだ。イオさんにコーンフレークもらって、自分にまぶして食いたいよ」
「塩コショウ、まぶす?」
「ちょっと待ってくれ」春樹はカイが「塩コショウの生活」と真顔で言った、あの瞬間を思い出して吹き出した。緊張感をズタズタにしていった言葉「塩コショウの生活」から、なにかおかしな方向に舵が切られたのはわかっていたが、軌道修正の仕方がわからなかった。言い間違いにも程がある、と春樹とアキラは笑った。
コーンフレークと、ソフトクリームと、塩コショウ。「だったら、コーンフレークなしで味わってみたいな」
「意外とおいしいかもしれないよ。塩アイスってあるじゃない」
「先生たち、話に花を咲かせている最中に悪いが、準備ができたぜ」ミツバがおおきなかごのようなものを持っているのが見えた。「食べものの話ばっかりしているってことは、疲れているだろうから、ミツバが安全に淵までお届けするんだぜ!」
「ミツバさん、ありがとう」
ミツバに護衛してもらいながら、春樹とアキラは丘からグレアのいる真っ暗闇の場所に戻ってきた。舟の形をしたおおきなかごに入れられた状態で運ばれたのであるが、春樹とアキラはコロコロ転がりながら白い体をソフトクリームから丸く形成し直した。ある程度丸くなったところで、ミツバに「自分たちがここに来てから」どれほどの時間が経ったのか聞いてみた。
「300日くらいじゃねーかな?」
「それでもまだ300日なの⁈ しかも1年経ってないんだって!」あっという間であるような気もするし、まだ1日しか経っていないような感覚もある。特別授業を始める前に「90分なんて、あっという間じゃねえか!」と言っていたくらいなので、あっという間にすぎていてもおかしくなかった。たしかに授業を始める前はぐだぐだしていたが、授業自体はあっという間に終わった記憶がある。90分も300日も、同じ感覚である可能性もある。
真っ暗闇の中に浮かぶ白い球を見つけ、春樹は声をかけた。返された懐かしい声に、ふたりで飛び上がった。
「死神グレア! お待たせなんだぜ! 札はこれだぜ!」グレアはミツバから渡された紙切れを読み「承知した」と一言だけ言った。
「ミツバさん、いろいろありがとう」春樹はお礼とともに、素朴な疑問をぶつけてみた。
「ミツバ、上界では交番勤務の警察官だったんだぜ! でも、犯人を取り押さえたときに刺されちまって、殉職ってやつだぜ。そのときの犯人は問答無用で地獄行きになったから、スッキリしたけどな!」
「強盗犯にも恐れずに立ち向かってたんだ。すごいや」どうりで権利や知的財産についての言及が多かったわけだ。納得であった。
「ほんとはミツバも『転生』できるんだけどよー、まだ上界がごちゃごちゃしてるから……でも、ここに落ちてきた魂たちと話して、いろいろ考えてみてわかったんだぜ。殉職者を誇りに思うのはいいけど、その誇りをホコリまみれにするのだけは、絶対許せねーんだけどな」ミツバは自分の尻尾をつかんで噛み出した。ホームタウンを去るような気持ちがあるのだろう。これは春樹もよく理解できることであった。「情けねーよな。上界に戻るのが、こんなに怖くてたまらないなんて。ミツバは警察官失格なんだぜ」
「悪魔ミツバよ、そこまで言うンなら、さっさと上に戻ったほうがよくねェか?」
え、とミツバが振り返った。遠くでグランドピアノの鍵盤がひとつ押され、ミツバも乗れるくらいのおおきな船が現れた。「お前も戻ったほうがいいってことだな」
春樹とアキラは、ミツバに体をぶつけて喜んだ。
──
それから月日を何百回、いや何十万回と数えたころであろうか。
とある居酒屋で、春樹とアキラはグラスを片手に、人生とはなにかを語り合っていた。ふたりとも公立中校の教師になっており、偶然にも同じ中学校で教えることになったのである。
ふたりのほかに、途中で合流した人がいた。
「これが噂のアレ? ミツバもかけてみる!」
器に盛られた真っ白なソフトクリームに塩コショウをかける女性は、春樹とアキラと幼馴染みの、三橋恭子という警察官であった。
「これ、不思議な味がする! おもしろい!」
いただいたサポートは「自分探し(できてないけど)」のために使わせていただければなぁと思ってます。