短編小説『お月見どろぼう』
10月のとある夜。もう21時をまわっていた。夏の暑さはすでになく、窓を開けて寝ると寒い季節になった。開け放った縁側に入り込む冷たい風に、背の高い、薄青色の花瓶にめいっぱい挿してあるススキがほろほろ揺れた。細い体は寒さに震えているに違いない。
「ひさしぶりだなあ」僕、正岡政司は縁側に腰かけて、思いっきり背伸びした。日ごろのストレスから解放させてくれるここは、ストレス社会に揉まれる人の体と心を癒す場所になっている。僕もそのうちのひとりで「宿泊客」として満喫させてもらっている。
ばあちゃんは農家をやる傍ら、ちいさな規模の民宿を開いている。それが、僕が今いるこの「ばあちゃんの家」だ。今どきのデータ通信機器というものを揃えておらず、パソコンもない。予約も電話でのみ取っている。ばあちゃんは耳と目が人一倍よくて、予約の帳簿も受付も、ぜんぶ自分でこなしている。体力勝負になる仕事は男友達や近所の人に頼んでいるけど、宿泊客に出す料理は自分で作るという徹底ぶり。元大工とか、現役の猟師とか、生活に困ったらすぐに飛んできてくれる頼もしい友達が、ばあちゃんにはたくさんいる。僕も仕事に都合をつけては「宿泊客」としてこの民宿にお金を落としている。この民宿でお金を使うことに、僕はなんのためらいも持たない。散財するくらいなら、この家のためにお金を使いたい。
ちょっと挿しすぎたススキを数本抜いて、まったく同じ姿をしたもうひとつの花瓶に生け直した。窮屈から脱したススキは、花瓶に細い茎をゆったりと預けていた。自分のセンスのなさに、僕はススキに向けて「センスがなくてごめん」と謝った。
「せいちゃん、ここで『お月見どろぼう』捕まえてくれたの、覚えとるかい?」湯呑みを載せたお盆を持った、ばあちゃんが現れた。右の脇の下になにか挟んで、手拭いを被った「ばあちゃん」スタイルを貫いている。宿泊客の夕餉と自分のぶんを片付けてから、縁側でひと息つくのが日課になっていた。暑くても寒くても、雨でも雪でもだ。自然を自然のままに楽しみたいと言っていたから、庭の草も実にのびのびと、いわゆる「ほったらかし」にしていた。
ジャングルとまでは言わないけど、これで民宿が務まっているのだから、どこかでばあちゃんのマジックが炸裂しているに違いない。それもばあちゃんスタイルなら、僕はなにも言わない。そのおかげで今はたくさんの動物が集まってくる。虫にネコにスズメ、タヌキにイタチ……たまにイノシシが迷い込むことも、あるとかないとか。いつまでも変わらない姿と日課がそこにあり続けていることに、僕は安心した。
「『お月見どろぼう』?」
「『僕はお月見どろぼうだよ、このおいしそうなおだんご、盗ませてもらえないかい?』って言ってやってきたどろぼうをね、ばあちゃんたちの前からだんごひとつ盗んでったどろぼうを、せいちゃんが追っかけてって、捕まえたんよ。覚えとらんかい?」
家を出てからいろんなことが起きすぎて、そのころの思い出を彼方に追いやってしまっていた。どろぼうを捕まえた記憶すらない。
近所に歳の近い子がいなかったから、僕はひとりで遊ぶか、ばあちゃんの粋な友達と遊ぶことが多かった。自然がたくさんあるこの家のまわりはほんとうに遊び放題で、ひっつき虫をくっつけて帰ったり、図鑑で見た「食べられる野草」を見つけて持って帰ったり、色鮮やかなキノコを採って大変な目に遭ったりして心配をかけたけど、とても楽しい時間を過ごしたことを思い出した。その遊びの中に「警察官と泥棒」があった。おそらくこれのことだろうと思った。
「ばあちゃんがここまで来れたのも、せいちゃんと、どろぼうのおかげなんよ」
お供えを盗んだのに、感謝されている? 僕はこの意味がわからなくて「『人のものを盗ったら泥棒』じゃないの?」と聞き返した。
「言い伝えね」ばあちゃんは縁側に足を投げ出して座った。足腰が弱くなってきているのか、足を折って正座するよりも、足を投げ出す形で座るほうが楽なようだった。僕も真似して足をぷらぷらさせた。
「明日はお客さんと十三夜のお月見することになってるって、せいちゃんも知っとるよね?」
「も、もちろんだよ。それに合わせて泊まりに来たんだから」僕は慌てて話を合わせた。覚えていないということを悟られたくなかったからだ。
「また、どろぼうが来るかもしれんね」ばあちゃんが、大事な時期に合わせて来てくれた孫は正義感が強いから、絶対にだいじょうぶだと確信を持っていることはたしかだった。孫に対する期待のおおきさに、僕の心が萎縮しないかヒヤヒヤした。
ひとまず「どろぼう」対策にと、宿泊客の情報収集から始めることにした。ばあちゃんが脇の下に挟んでいたのは宿泊者を記した帳簿だった。記載されている一覧を見ても怪しそうな名前はなかった。当然、名前だけで察するのは無理があるし失礼だ。今日は僕を入れて5組、合計9人。性別も年齢も、宿泊日数もバラバラ。近くにテーマパークやショッピングモールがあるわけじゃないから若い層だけのグループがないのはわかる。でもお年寄りを対象にしたツアーらしき団体もなかった。「知る人ぞ知る」みたいな秘境宿に若い子だけのグループが泊まりに来ること自体かレアだと僕は思っている。ただ、北は北海道、南は沖縄県まで、日本の各地から足を運んでくれている。名前の横の丸囲みの数字は「何回訪れたか」を示すもので、都道府県の間に挟まるようにして「イギリス」の文字を見つけた以外、初回の人は見つけられなかった。ページをめくった過去には、ペルーやフィンランドからの旅行者が宿泊していたようだった。ばあちゃんの民宿が世界に知れ渡っていることを知って、僕はうれしくなった。
昔の記憶を呼び起こしているらしいばあちゃんは、僕が「どろぼう」を捕まえてくれると信じている。僕以外にひとりで宿泊の人がいないから「あなたがどろぼうですか?」と聞けるわけない。僕は「役に立たないかもしれないけど、がんばってみる」とだけ言って、帳簿を返してお茶を飲んだ。僕の好きな玄米茶は、あのころと同じ、香ばしいにおいと、香ばしい味がした。
ばあちゃんは、お月様みたいにやわらかい笑顔で僕に「せいちゃんは、いつまでもせいちゃんだねえ」と、足をぷらぷらさせながら、ヘッヘッと笑った。
──
翌日。堅苦しいことはすべて取っ払った「十三夜のお月見」をおこなうべく準備が急がれた。この時期に来た宿泊客はお供えする料理をばあちゃんと一緒につくって、夕餉として食べるのが恒例になっている。もちろん、お月見だんごもつくる。事前に告知しているわけではないから、はじめて泊まりに来る人は当然びっくりする。民宿のサイトやブログもないから、そういったものを使っての告知もできない。一度でも泊まったことがある人の口コミとか、ばあちゃんの粋な友達が誰かに話すとかしない限り、わからないし、誰にも伝えることができない。宿泊客の朝餉の準備を手伝っていた僕は、配膳しながら「今夜、十三夜のお月見をするんですが、よければご一緒しませんか?」と言ってまわった。要するに簡単な宣伝だ。余計なお世話かもしれないけど、僕はばあちゃんの役に立ちたかった。ばあちゃんのためでもあるし、僕のためでもある。それに、僕が生まれたこの家を守るためだと思った。
「風流でいいですね」「なんだか楽しそうですね!」「いい絵が描けそうです」などいろいろな反応をもらえた。僕は民宿の従業員でもなんでもないけど、自然に体が動いてしまう。
「きみ、ここの方かな」そのうちのひとり、立派な髭を蓄えた紳士的な男性が、配膳を終えて下がろうとしていた僕を呼び止めた。
「ここ、僕の実家なんです」
「なるほどね。道理で」
「えっ?」僕は素っ頓狂な声をあげてしまった。ふふふと微笑んで玄米茶で喉を潤した男性は「これはレンコンかな、いただきます」と、レンコンと鶏肉を煮た料理に箸をつけた。僕は男性の笑みがふくむ意味がわからないまま、台所に戻って後処理をしてから、自分の席についた。
ばあちゃんがつくる料理のほとんどは和風のものが多く、必然的に和膳に近いものが提供される。レンコンと鶏肉の煮物、養鶏場から届いた新鮮な卵でつくったたまご焼き、川魚の塩焼き。味噌汁は野菜がたくさん入った、いわゆる「食べる味噌汁」で、どれも箸がよく進む。皿を下げるとき、みんなきれいに食べてくれて、僕は自然と笑みがこぼれた。自分のことのようにうれしくなったからだ。
「レンコンの煮物、とてもおいしかったよ。ごちそうさま」紳士的な男性は僕に向かって頭を下げた。
お月見に使うものの中で仕込みが必要なものは前日からやっておいて、当日は盛りつけや飾りつけを進める。僕はばあちゃんの笑顔が見たいからと宿泊させてもらっている身なのに、従業員のように動いて「お月見どろぼう」のことも調べてまわった。朝餉の手伝いも後片付けもそうだし、庭先に植えられた色とりどりの花に水をやるのもそう。伸び放題の草には手をつけなかった。当時はデータサイエンスに興味があって、そっちの道に進んだ。今はありがたいことに働きが認められて、いい金額をもらっている。「ばあちゃんの民宿を助ける」という目標ができたのは両親が他界してからだった。伸び放題の草葉の中に、僕が進むべき道があるのかな。
画家とデザイナーがこの家の全景をスケッチしたいと画材を持って外に行ったり、西洋系女性の2人組がばあちゃんの生み出す料理はとてもおいしいと感動して泣いたり、老夫妻組が家のまわりを散策したり、残る2人も午前中は各々好きなように過ごした。なにか新しい発見をしたらしい画家たちがスケッチから戻ってきて、近隣で拾ってきた枯葉やドングリを観察しながら「自然体のオータムリースがつくれそうだ」と盛り上がっていた。どこかから帰ってきた2人組もその輪に入って「ドングリが丸くてかわいい」とはしゃいでいた。
「ステキですね」僕は芸術のセンスが壊滅的で、オータムリースどころかクリスマスリースもうまくつくれない。ケーキのデコレーションでさえうまくいかないから、クリスマスの時期になるといつも憂鬱になる。だけども今はクリスマスじゃないから、僕が憂鬱になる必要はどこにもない。
昼餉はにゅうめんと、畑で採れた野菜の天ぷら御膳だった。橙と緑が鮮やかなニンジンのかき揚げに、出汁をきかせたレンコンとゴボウの甘辛炒め。にゅうめんの出汁は濃くもなく薄くもなくで、誰の心にも寄り添うことができる優しい味わい。僕をふくめた宿泊客は、ばあちゃんの真心が詰まった昼餉を食べて、忘れていたやすらぎを取り戻しているようだった。
お月見だんごをつくるよう言われた僕は宿泊客に声をかけてまわった。ばあちゃんが丁寧に蒸しあげたうるち米ともち米を、触れる程度の熱さになるまで冷ましてから、きれいに洗った手で丸めていった。文化祭の準備をしているような雰囲気に、みんなが楽しそうにしている。癒しの中に、ぽっと出のような刺激的な体験である「料理を一緒につくる」とか「季節の行事に参加する」とかがないとつまらないでしょう、というのがばあちゃんの口癖だった。若いころはたくさん動いていたというから、まだまだ動きたいのかもしれない。縁側でのんびりお茶を飲んで草ぼうぼうの景色を楽しむのも「休暇」で、ふだんできないような体験をする「休暇」もあると教えてくれていた。僕はほどよく冷めただんごのもとを、ひとくち大のおおきさに千切って丸めながら、僕が持っている「お月見どろぼう」の記憶を改めて探してみた。
お供えを盗む「どろぼう」が感謝されるなんて、義賊かなとも思ったけど「俺は義賊だ」なんて言いながら金目のものをを盗むような人はいないし、今の時代を考えると、かなり浮いている。マルチ商法で金を巻き上げる悪徳業者とか、怪しいツボを押しつけてくる人とか、こんな山奥にいるとは考えたくなかったし、ばあちゃんの粋な友達から情報がまわってくるはずだし、警察にも相談しているはずだ。僕はぶんぶんと頭を振ってもやもやを消し飛ばし、おだんごを丸める作業に集中した。
この中にいないんだとしたら、ふらっと来た日帰り客が──可能性はある。「お月見どろぼう」の記憶は、僕が思っていたほど残っていなかった。
「まるくて、かわいいネ! これが『ダンゴ』デスカ?」
カタコトの日本語が聞こえた。見ると西洋系の女性二人組ができあがったばかりの真っ白なだんごの群れを指さして、眉間にしわを寄せている。「アレ、名前ナニ、ナニ? でしたっけ?」名前が思い出せず、すぐ近くにいた老婦人に聞いていた。
「おや、お姉さんはシマエナガをご存知なのかねえ」片付けを終えたばあちゃんが台所から現れて、きれいに整列しただんごの群れからひとつを取って、僕たちには見えないように手元を動かした。「はいよ」数秒後、小皿の上に、まるまるとした、愛くるしい雪の妖精が現れた。西洋系の女性たちは突然現れた雪の妖精にキャアと悲鳴をあげて、まばたきをしてからその姿をしっかりと確認して「そう! そうデス、シナ……シマナガ? シマナガ!」と叫んだ。ほかの宿泊客もシマエナガらしきワードに反応してわらわらと集まって「本物じゃん!」と誰かが叫んだ。
「本物にゃあ負けるわ」ただのおだんごが、雪の妖精に大変身したことを受けて、余計に話が弾む結果になった。思い出に残る出来事は、いずれ「本物」を見たいという願望に変わっていく。
ばあちゃんは自身が生み出した「ニセモノだけど本物に見える」シマエナガを見て、にっこり笑っていた。
「ばあちゃん、もしかして本物見たことあるの⁈」
ヘッヘッと陽気に笑うばあちゃんがたどってきた軌跡は、残念ながら教えてもらえなかった。
外は次第に暗く、風も冷たくなってきた。
夜の帳が降りて、外の空気が一気に冷たくなった。昨晩はそうでもなかった気がするけど、今日は一段と寒い。寒さに耐えられなくなった僕は持ってきた麻のカーディガンを羽織った。季節の移り変わりを肌で感じるのは、自然豊かな地にこの家があるからだった。高校卒業までこの家で生活していたのに、そのときの記憶も流れていってしまったらしい。
「みなさま、このたびは『ばあちゃんの家』にお越しくださって、ほんとうにありがとう」ばあちゃんは会を始める挨拶をした。背は高くないけど、堂々としていた。「あと何回、十三夜を迎えられるかねえ」冗談めかして言ったのだろうけど、僕は冗談には聞こえなかった。
お月見のときだけは食堂ではなく、縁側沿いの座敷を会食の場として設定する。みんなでつくっただんごは13個ずつの山に分けられて、それぞれの三方に載せられた。背の高い薄青色の花瓶にススキを挿してから、全員に玄米茶が振る舞われた。ばあちゃんの粋な友達も招待されていた。僕はお供えされたおだんごとススキにさっと目を通してから席についた。
「せっちゃん! よせよせ、人生これからだからよっ」
「できるところまでは、雛由さんもね──さあさ、みなさま、冷めないうちに、どうぞ召し上がってください」
フジバカマやオミナエシなど、秋の七草をあしらった和紙の上には一人前の和膳。栗の煮物や揚げ出し豆腐、炊き込みご飯、畑で採れた野菜のホイル焼き、それにぼたん鍋もある。雛由さんが獲ってきたイノシシと、畑で採れた野菜を使っている。和膳とは別に、ばあちゃんが丹精込めてつくった「あずき煮」が入ったおおきな鍋がふたつと、お月様にお供えしたものと同じ料理が並んでいる。
いただきます。全員で命に感謝して、楽しい夕餉が始まった。
「朝と雰囲気が違うが、同じ香りがするね。庭の草木も『味』だと思えば、自然豊かでたいへん過ごしやすい。わたしはここが気に入ったよ」
「ワタシたちの国にはないものばっかりで、すべてが初体験、すべてがびっくり! デスネ! トーキョはニギヤカだけど、こっちの家は静かで、みなさん優しくて、食べものもオイシイ!」
「おばあちゃん、この栗の煮物すごくおいしい! ああ、私もおばあちゃんみたいにお料理上手だったらなあ」
「ありがとうねえ。ばあちゃんは料理だけが取り柄だからねえ」みんなのこぼれるような笑顔を見ていたばあちゃんは自分の箸を置いて、にこにこ笑っていた。たぶん「草むしりが面倒で草ぼうぼうになったから、誰かむしってほしい」という願いと込めていたのだろうけど、誰も気がつくわけがなかった。
ばあちゃんの料理は人の心をつかんで離さない。僕は食べ慣れている味だったけど、数年離れてから口にしたときの「そうそう、これ」という感覚は色褪せていなかった。安心を与えてくれる味に、僕をふくめた全員が「心の平穏」を取り戻した。
ばあちゃんの味は、色味が薄くてもしっかりと味がついていて、ひとつの品で白飯が何杯も進む魔法がかけられている。誰もがほっと息つけるような魔法を、ばあちゃんは使ったのだ。無論この魔法をかけたのはばあちゃんで、僕はその血を引いている。無事に習得できたら、今までがんばってきたぶんを僕が引き継いで、ばあちゃんには余生を楽しく過ごしてもらいたいという気持ちのほうが強くなっていた。すると「転職」というワードが頭の片隅に浮かんできた。今まで培ってきたデジタルな技術を民宿に落とし込むことができれば、ばあちゃんの負担を軽くできるかもしれない。山菜を噛んで気持ちを今一度整理して、1本食べ終えるころには心が決まっていた。
「さあさ、みなさま、お月様がよく見えるころですよ」ばあちゃんの一声で、みんなが縁側に集まった。三方も花瓶も、異常はない。
都会の喧騒から離れた山奥は、人工的な光がひとつもない。警備用として置かれた街頭くらいしかなくて、自然な闇がそこにあった。耳をすませば虫の鳴き声がして、上を向けば、満月に近い月と、黒の中に光るちいさな白。少し雲はあったけど鑑賞に支障はない。むしろ雲があるおかげで「なんちゃって満月」になっていた。
「今年も、たくさんの自然の恵みを、ありがとう」ばあちゃんがきれいな月にお辞儀した。すると宿泊客のひとりが拍手して、その場にいた全員が倣った。僕も拍手していたけど、草ぼうぼうの一部がガサガサ動いていたのが気になって、縁側から草ぼうぼうの庭に出てみた。茶色のサンダルは、僕には少しきつかった。
野生の動物が、料理のおいしいにおいや楽しそうな雰囲気に惹きつけられたのかもしれない。でも、もしかしたら──ばあちゃんが挨拶したとき、席はみんな埋まっていたし、縁側に移動したときもそれは変わらない。誰かトイレに立てばすぐにわかるから、宿泊客の中に「どろぼう」はいないと考えていた。怪しい人がいなければそれでいいし、あらゆる可能性を考えて行動するだけだ。もし本物の強盗でも、宿泊している人たちの目もあるから、変なことはできないはずだ。
庭はばあちゃんの趣味も埋まっていた。奥まで行くと野菜を育てている畑に出ることができるのだけど、そこまで行く道が獣道じみていて、途中でばあちゃんの趣味を発見できるといった探検気分が味わえる。畑はきれいにしてあるのに、庭の手入れは一切やらない謎のスタイルを貫き通しているばあちゃんは、やっぱり強い。
僕はガサガサ動いていた茂みに近づいた。スマホのライトで怪しそうな部分を照らしてみたけど、そこにあったのは草葉と、その影だけ。生き物の気配はなかった。草を荒らした形跡もない。
「なにもいない……」
怪しいものの気配がなかったことに安心した僕は上を向いた。
ああ、ちょっと欠けた満月もどきでも、ちゃんと「月」やってんだな。29日にもなれば、完全な満月になる。満月と朔を繰り返しても、ちゃんと「月」やってんだな。なにがあっても月のまま。それに比べて僕はどうだ。専門分野でそれなりの成果しかあげられない一般人で、目標ができても二の足を踏んでいるような人だ。
月と人間。天と地ほどの差があるものと比べたのがおかしくて、僕が苦笑いしたときだった。
「ダンゴ、ひとつありまセン!」
西洋系女性の叫び声に驚いた僕は、急いで駆け戻った。縁側の右側にあった三方に載せていたおだんごの山頂にあたるものが、ひとつだけなくなっていた。
僕の心臓がドクドクと脈動した。現れたんだ、「どろぼう」が。ばあちゃんの言うとおり、ほんとうにやってきた──僕はいてもたってもいられなくなって、きついつっかけのことを忘れて、履いたまま座敷に上がり込んだ。「だ、誰か、おだんごがなくなった瞬間とか、変な動きしてる人がいたとか、見てませんかっ?」僕は答えを待ったけど、宿泊客ひとりひとりの顔を確認して、そこで気づいた。
7、8……どれだけ数えても、ひとり足りない。座敷を見回して、ようやく見つけた。「今トイレから戻りました」とでもいう感じで自然に混ざってきたけど、僕は自分の目を疑った。なぜなら、その人が自分の手におだんごを持っていたからだ。
「やあやあ、僕はお月見どろぼうだよ。このおいしそうなおだんご、盗ませてもらったよ。おばあちゃん、盗ませてくれて、どうもありがとう」
僕、どうすればいい? 見たところ凶器の類は見えないけど、隠し持っている可能性は否めない。小柄で一人称も「僕」だから同性だと推測したけど、もし格闘戦になったら、万年デスクワークの僕は勝てるかわからない。
みんなを避難させるほうが先か、「どろぼう」を説得するのが先か──おだんごをつついている「どろぼう」が着ているパーカーは地味で、目元を隠すようにフードを深く被っている。目立たないようにわざとその色をチョイスしたのかもしれない。宿泊客を、ばあちゃんを危険な目に遭わせるわけにはいかない。それにせっかくの宴をぶち壊すことになるから、余計に大事にしたくないという気持ちがあった。隙を見て取り押さえるか? いや、油断は禁物だ。ここは努めて冷静に「話し合い」で解決したほうがいいと、僕は口を開いた。
「どうして、おだんごを盗ったんだ!」
ああ、だめだこりゃ。大事にしたくないと思っていたのに大声を張り上げてしまった。どうやら僕の心は正義を貫きたいらしい。僕の混乱した頭も、正義に走る心を制御できなくなっていた。
「これで、次のシーズンも、豊作は約束されたよ」
「どろぼう」は、盗んだおだんごに口をつけた。「おいしいな、これ。もうひとつほしい」とわざとらしく笑った。そのときに見えたエクボの深さが、妙に気になった。
「どろぼう」が来たっていうのに、僕以外は静かにしている。それが不気味で不愉快に感じられた。泥棒だよ? 強盗かもしれないよ? イレギュラーな事態が起きているのに、西洋系の2人組は「オウ!」と口を手で覆ったけどなぜか笑っているし、僕よりも「どろぼう」に近い位置にいる老夫妻なんて、この先の展開が気になって仕方がないという目をしていたし、ばあちゃんにいたっては、腹を抱えて笑いをこらえていた。なんで目に涙を浮かべているのか、僕には理解ができなかった。画家とデザイナーは、なんと、おだんごを食べている「どろぼう」の姿を写真におさめたり「そのアングルで!」などと注文をつけてノートにデッサンを始めたりしていた。僕だけが慌てている。緊急事態のはずなんだけど。僕だけ隔絶された別次元の「同じ景色」を見ているのだろうか?
え、どういうこと? 僕は混乱して「どろぼう! のんきに食べてないで、説明してよ!」と語気を強めた。いったいどんな輩なのか、僕の心臓はさらに速く動いた。脈拍160から190くらいにはなっているんじゃないかというほど走っている。こんなの久しぶりだ。
おだんごを咥えたままの「どろぼう」が、僕のほうを向いた。手に粉をつけた「どろぼう」の姿を見て、僕は確信した。鼻より上が見えなくてももうわかる。確信したうえで「ど──なんでここにいるの!」とまた大声を張り上げた。
ああ、僕はもうだめだ。これじゃ誰にも勝てない。
「実は、おばあちゃんから話があってね。ちょっと手伝ってくれないかって──とっくに気づいてるかと思ったけど、ほんと、政くんってば、目の前のことに真面目すぎるんだよ。かわいい彼女の声も忘れちゃうくらいにねっ、おばかさん」
「わっ、忘れるわけ」これは、遊ばれている。完全に遊ばれている! 僕の性格を熟知している「どろぼう」の正体は、僕の家庭事情と行動予定をすべて記憶していて、かつ、ばあちゃんに情報を横流しできる人物だった。そしてようやく気づいた。
これはもしかして、僕以外はみんな知っていて、僕だけが知らないドッキリ。あるいは──でもそんなわけないか。仮にもしそうだとしたら──いやちょっと待て。それじゃあ変な展開しか待っていないじゃないか。わかった瞬間、頭が妙に冴えて、僕の顔は熱くなって、全身から嫌な汗も噴き出た。8対の目、つまり16個の瞳が僕の全身を隙間なく貫いて、身動きを取れなくしている。汗腺は働いているのに、手足は働かない。かゆいところもかかせてくれないし、つっかけも脱がせてくれない。ばあちゃんは足がちいさいから、サイズのおおきな僕の足だときつくて敵わない。
ばあちゃん──僕はどうにか動かせる眼球をばあちゃんに向けて、愛と疑念を込めた視線を投げつけてみた。やっぱり、僕と目を合わせようとしない。自分から「どろぼうを捕まえてくれ」と頼んでおいて、いざそのときになっても自分の口からは絶対に言わない。そう、僕もばあちゃんにいろいろ頼まれて手を貸したことがあった。首謀者はばあちゃんでも、実行はいつもばあちゃん「以外」の人。楽しませたり、喜ばせたり、ときには悲しませたりもしたけど、仕組まれた側が本気で怒るようなことは、一度もなかった。
僕は今、どんな表情をしているんだ⁉︎
──これはね、みんなの心をイキイキさせる『ゲーム(遊び)』なんよ──
頭の中に浮かんできた、ばあちゃんの言葉。間違いなくこれだ。ターゲットは僕。だからばあちゃんは目を合わせてくれないんだ。わざわざ宿泊日数が2日以上の人たちばかりが集まっていたのも、「また、どろぼうが来るかもしれんね」と言い張ったのも、僕をはめるための自然な演技。たまたまにしてはできすぎていたんだ。
今、僕はばあちゃんの「策略」にはまっている。可能性があると考えてはいても限りなく「低い」と考えていたから、ばあちゃんが仕掛けた罠にはまっても、悔しいとか悲しいとか、そういったネガティブな気持ちは、まったくなかった。ただ、ちょっと展開がアレすぎて僕だけテンポが遅れていることは否定しないけど。
別に、失敗したら笑い話に転換すればいいし、たとえ失敗したとしても、僕以外には誰も悲しみはしない。ばあちゃんはそう思っているはずだけど、失敗しても、きっと笑いに変えてくれるはずだ。
「楽しくなってきたね」楽しそうにしている紳士的な男性は「どろぼう」がおだんごを食べる姿をずっと見ていた。はじめてここに来たとき、みんな初対面だったはずなのに、一晩寝て同じ作業をしたら、もうすっかり馴染んで「初対面の壁」を、全員が取っ払っていた。だから声がかかったのだろう。この『ゲーム(遊び)』をつくって、楽しむゲストとして。
老夫妻も、画家たちと一緒にいる女性も。僕以外の全員がゲストであり仕掛け人。あの西洋系女性たちにも余興の一端を担わせていたのだ。悔しいけど「ダンゴ、ひとつありまセン!」の演技はとても上手だった。異国の地で風流な体験ができると聞いたのだろうけど、まさかこうなるとは思っていなかっただろうな。
おだんごを食べている「どろぼう」はまだ被写体になっていた。「おばあちゃんのおだんご、おいしーい」手のひらにおさまるサイズのおだんごが「どろぼう」に食べられていく。びよんとのびたおだんごの最後の端が、口の中に放られた。「あー、おいしかった。ごちそうさまでした! おばあちゃん、ひとつでも盗めば『豊作祈願』になるんだったよね?」
「実はねえ、ばあちゃんも、どれくらい盗んでもらえばいいか、知らないんよ」ばあちゃんは、ヘッヘッヘッと笑うだけだった。「どろぼう」がずっこけて、僕たちは笑うことになった。「てきとうな数をこしらえて、てきとうな数を持っていかれたと思ったらね、雛由さんと加賀のじい様が食べてた、ってこともあってねえ」ばあちゃんのスタイルを崩せるのは雛由さんたちだけで、旧知の仲だからできる悪ふざけ。名前を呼ばれた雛由さんが「いつの話だよ!」と突っ込んだけど、ばあちゃんはまったく相手にしなかった。
「さあさ、宴の続きをしようかね。みなさま、準備はいいですか?」にこにこ笑うばあちゃんのひと声で、僕と「どろぼう」は老婦人や西洋系女性に手を取られながら立たされて、お互いの顔が向き合った。フードで隠れてはいるけど、僕は「どろぼう」の姿を直視できなかった。どこまでもやり方が強引で、いつも突然で『ゲーム(遊び)』を企てた本人が思い描いていたシナリオを勝手に書き換えるから、まわりはいつもてんやわんやだし、なにもかもが急すぎて心の準備もできないままに強行される。こうなったら僕も書き換えるしかない。僕は決意して「どろぼう」が被っているフードに手をかけた。
ここまで来たら、真の目的を知らないのは「どろぼう」だけ──どこにも逃げられなくなった「どろぼう」はフードの端をつかむ僕の手首をばっとつかんで「どういうこと⁉︎」と吠えていた。痛い。締めつける力が強い。切ってあるはずの爪が僕の皮膚に食い込んでくる。
僕は「ここはそういう家だよ」とだけ伝えた。少し早くなっただけじゃないか。細かいことは抜きにして、早く終わらせよう。
「こうなる覚悟もしてたんだろ?」
僕はフードを思いっきりめくった。「どろぼう」の素顔が露わになる。「この家はさ、そういう家系なんだよ」大きな目を満月みたいに丸くしていた。驚いたとき、彼女はいつもこんな顔をする。すべてを知るばあちゃんは、やっぱりなにも言わないで、ただ笑っているはず。
僕だけを見るその双眸は純粋無垢。今は動揺しているけど、どんなことがあっても純粋な心で物事を見るその眼差しに僕が惹かれたから、彼女は今ここにいる。
「僕、政くんのおばあちゃんにはめられて、政くんにもはめられてたってこと⁉︎」
「言い方がきついねえ、今回の『どろぼう』さんは」ヘッヘッと笑うばあちゃんは「どろぼう」が自分よりも弱い僕に出し抜かれたことを、おかしくてたまらないといった様子で見ていた。老夫妻に脇を支えられながらだけど、いいものを見せてもらったという顔をしている。僕も真似してヘッヘッと笑ってみたら、西洋系女性たちに笑われた。そんなにおかしな笑い方なのかな、僕はばあちゃんの真似をしただけなんだけども。
「そ。だから、里枝子の人生、盗ませてもらうよ!」
縁側のそばをとおった冷たい風が、花瓶に挿してあるススキをほろほろと揺らした。
──
長年勤めてきた会社を辞める日が思った以上に早く訪れることになったなんて、当時の僕は思いもしなかっただろう。不安はなかったし後悔もしなかった。不安のおおきさくらべをするなら「前職<現職」であることに間違いはない。だけど、僕は「やればできる」と思ったから転職した。ただそれだけだ。
目が覚めたら女性の顔があった。暗くてよく見えないけど、ちいさく寝息を立てている。少しだけ開いた口に僕が恥ずかしくなって背を向けると、反応した彼女が目を覚ました。
「あれえ……政くんの顔に墨が塗られてるう」
「誰が墨汁を顔にぶっかけたって?」背を向けているからだと理解していないような言い方に、僕は彼女が持っている「天然」がそのままであることを確認して、胸を撫で下ろした。
僕と高倉里枝子の結婚は、ばあちゃんが仕掛けた『ゲーム(遊び)』の中に「僕」を放り込んで実現した。里枝子の一人称が「僕」であることにどうしても納得できないと僕の両親は言っていたけど、ばあちゃんはまったく気にならなかったらしい。ただ、命を天に返す前はそんなのどうでもよくなっていたらしく、ばあちゃんにその旨を伝えていたと聞かされた。
両親が他界した現実を隣に置いたまま仕事していたときに、ばあちゃんから連絡が来た。自由な人はどこまでも自由なんだなと、メッセージを読んで「OK」と返したときから、ばあちゃんと僕の『ゲーム(遊び)』は始まっていた。直近の季節行事を使うことを思いついたのは僕だけど、それ以外はすべてばあちゃんが提案した。僕は策略にはまったふりをしながらタイミングを見計らっていた。里枝子は当然プロポーズを受けるなんて知らなかったから、本気の動揺を見せたけどもOKをくれた。僕が里枝子のすべてを手に入れた瞬間だった。そう、手に入れたのだ。
「僕は盗まれたから、これからずっと、政くんの隣にいていいんだよね」どの髪型もよく似合っているけど、僕が自然体を好んでいることを知っているからなのか、変に飾ることは一切しない。それが余計に性癖を刺激していた。
僕は里枝子の人生を盗んで、里枝子に人生を盗まれてもいる。お互いの時間を共有する「結婚」とはそういうことだとばあちゃんが言っていた。変な表現だとは思うけど、僕は妙に納得していた。
「盗ませてくれて、ありがとう」
ぬくもりを分けた僕たちは手を握り合って、ふたりでなかよく眠りについた。次に目が覚めたのは6時で、里枝子はもういなかった。
──僕は政くんに盗まれたから。その仕返しに、僕は正岡トキコさんの味も盗むね。
ちょっと待った。ばあちゃんの味を最初に盗むのは、僕だから!
おわり。