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#113 火鼠の皮衣
NHK大河ドラマ「べらぼう」繋がりでいうと、当代の名士として平賀源内が登場する。源内こそ我が国における石綿利用の先駆者であり、近年、石綿(アスベスト)被害が取り沙汰されることも多いが、有用な建材として盛んに利用されてきた経緯がある。
我が国における石綿に関する最古の史料と目されているのが、『竹取物語』であり、かぐや姫に求婚する五人の貴人に課せられた難題の一つ、「火鼠の皮衣」こそ、石綿で織った布であったという。『竹取物語』の成立は、おおよそ平安時代前期とされているが、かかる時代こそ支那、唐の文化が奔流のごとく我が国に流れ込んだ時期にあたり、唐の文化にはインド・ペルシアをはじめ、西方文化が多分に混淆していたのであった。
火鼠の皮衣の原形は、支那の伝説にある「火浣布」という布が想定されており、古文献によれば、支那のはるか西方にある崑崙山の猛火の中に棲む大鼠の毛から織られたものが火浣布であるという。その布で着物を作ると、永久に洗濯する必要はなく、汚れたら火中に投ずればいいのである。水ではなく、火で洗うことから火浣布と名付けられた。
ここで重要なのは、伝説にあるように火浣布が西域産だという点にある。ジョセフ・ニーダムの名著『中国の科学と文明』にも記述があるように、支那人は古くから火浣布と呼ばれた石綿布を知っていて、それは中央アジアからもたらされたとされている。実際に、石綿は糸を紡いで織物にすることが可能であり、火浣布の実在はほぼ疑いないものであろう。というのも、西洋、特にヨーロッパでは火中に棲む火トカゲ、サラマンダーの説話が伝えられているが、古い説話によれば、サラマンダーとは火中で繭を作る虫ともされているからである。石綿布が西洋においても織物として認識されていた可能性は高く、マルコ=ポーロの『東方見聞録』には、中央アジアの一地方の説明の中に「サラマンダーは動物ではなく、鉱物である」という記述まである。当事、石綿布が広く知られていた証左ともなろう。
我が国においては、前述の平賀源内が、独自に石綿布を開発している。明和元年(1764)、武蔵国秩父郡の両神山で石綿を発見した源内は、これから布を織ったのであり、支那の伝説にならって火浣布と名付けたのであった。大きなものは作れなかったらしいが、『火浣布略説』なる冊子まで発行している。ただし、建材としての石綿の利用は、明治以後のことであるらしい。