#34 正暦・長徳の疫病
前回のNHK大河ドラマ「光る君へ」は、平安京を襲った疫病を軸に話が進んでいった。かかる疫病は、実際に正暦4年(993)から長徳元年(995)の約三年間に亘って猛威を振るったことが史料に残されており、疫病(疫神)の退散を願って正暦から長徳に改元されたのである。平安京は死屍累々の有様で、遺棄された死体で道や堀が埋まり、通行に支障が出たとまで記録されている。なお、このような異常事態は当時の死や遺体に対する穢れの思想が影響しており、朝野ともに亡骸の処理を放棄していた可能性が高い。
死者数は不明だが、正暦5年(994)の5月から7月までの三ヶ月だけで「京師の死者過半」、つまり京の人口の半分が死んだとある。これは誇張であろうが、「五位以上六十七人」、貴族の死者67人というのは正確な数値と考えられている。貴賤を問わず、病魔から逃れることはできなかった。正暦4年8月8日には、もっとも警戒していたであろう一条天皇も罹患している。当時の朝廷は、疫神の祟りを鎮めるための祈祷や祭祀を積極的に行い、賑給や税の停止など様々手を打っているようにも見えるが、疫病に対する医学的施策は皆無であった。京はパニックに陥り、この井戸の水を飲めば罹患しないというデマが飛び交い、人々が殺到したりしている。ちなみに、正暦・長徳の疫病退散のための祭祀を起源として、京都市北区紫野の今宮神社は創建されたと伝えられている。
ところで、疫病の正体は疱瘡(天然痘)であった。天然痘は紀元前よりオリエントで猛威を振るったが、東アジアへの伝播は比較的遅く、五世紀頃、北魏と北斉の戦いによって流行したとの記事がある。朝鮮半島には六世紀半ばに伝わっているが、我が国にもその頃、新羅から仏教とともに伝来したらしい。かかる疫病の流行によって一時、排仏派が優勢となった。疱瘡の流行はその後もたびたび起こり、奈良時代の天平年間には大きな流行が長く続き、聖武天皇による大仏建立の一因ともなっている。
なお、天平の大流行も平安時代の正暦・長徳の大流行も、発生源は九州の太宰府周辺であり、海外からもたらされた可能性が高い。天然痘はウイルス性の感染症であり、感染力が非常に強く、致死率も20~50%と極めて高いが、一度感染すれば免疫が出来るため、再び感染することはない。世代が替わることにより、新たな大流行が引き起こされたのである。
十七世紀イギリスの医師エドワード・ジェンナーは、牛特有の天然痘(牛痘)に罹患した牛飼いが天然痘に罹らないことを聞き、牛痘を用いて種痘(天然痘ワクチン)を発明した。日本にも十九世紀半ばには伝えられている。種痘の普及には地域差があったが、その効果は絶大で、昭和55年(1980)、WHO(世界保健機関)により天然痘の根絶宣言が出された。人類史上初にして唯一、根絶に成功した感染症とされている。人類を救った英雄ジェンナーの功績を称えて、上野の東京国立博物館東洋館脇に銅像が建てられているのだが…。