#83 後見考

 前回のNHK大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道長が敦康親王の後見(うしろみ)を止める可能性について触れられた。ドラマでは分かりやすいように後見(こうけん)と発音していたが、後見(うしろみ)を「こうけん」と読み始めるのは中世以降のことであり、当時から「補佐すること、補佐する人」の意味として使われている。ただし、平安時代においては、特に摂関政治を語るうえでは欠かせない重要な歴史的意味があり、有力な公卿の後見のない皇族が、天皇として即位することは極めて難しかったのである。
 実際、亡き皇后定子所生の一条天皇第一皇子敦康親王は、中宮彰子が第二皇子敦成親王を生むと、大叔父であった藤原道長の後見を失い、東宮(皇太子)候補から外されることとなる。后腹(皇后・中宮所生)の第一皇子が皇位を継承できないことはこの時代も珍しかったが、後見の有無はそれほどまでに重要視されていたのである。まだ敦康親王を生む前ではあったが、当時の中宮定子が父道隆を失い、兄伊周・隆家の失脚に絶望して出家したのも、自らの後見を失ったことによる。
 そもそも皇族とは、天皇含め後見を受ける側であり、父院(天皇の父)や女院(天皇の母)が子どもである天皇の後見をすることはあっても、経済的基盤を持たない天皇・皇族自身が後見になることはできなかった。皇族は私有財産を持たず、国家財政により支えられている。平安時代後期に至って院政の時代になると、経済力を持った父院の力がクローズアップされてくるが、それまでは天皇との強い身内(ミウチ)関係を持つ有力公卿の後見が必要だったのである。一条天皇自身、母である東三条院詮子を介して摂政・関白藤原兼家の後見を受けたことにより即位している。
 平安時代の後見とは、律令制度のような公的なものではなく、私的な保護関係である。それでいながら皇統を左右するほどの政治的意味合いを持つのは、摂関政治そのものが、天皇外戚を基盤としているからである。母方に偏るのは、当時の婚姻形態が婿取婚だからであり、子は必ず母方で養育されたことに由来している。母である皇后定子を失った敦康親王は、道長の後見の下、代理母としての中宮彰子に養育されたのであった。一条天皇は、第一皇子である敦康親王を三条天皇の東宮に望んでいたが、道長が後見を放棄したため、第二皇子敦成親王を東宮に定めたのである。三条天皇の遺志により後一条天皇(敦成親王)の東宮となった敦明親王が、道長の圧迫により東宮を辞退するのも、父院(三条天皇)や母の父である大納言藤原済時がすでに死去しており、有力な後見がいなかったためである。
 婿取婚であり、財産を女性が相続することの多い時代ではあっても、公卿層における男性当主の経済力は、律令制度の成熟と荘園経営の進展によって看過できないものとなっており、当初妻を介して岳父の後見を受けていたものが、やがて妻子の後見をするようになり、天皇外戚ともなれば、娘を介して天皇の後見をする存在となっていたのである。

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