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#96 張昭の墓

 今月初旬、三国志の英傑である呉の重臣、張昭(156~236年)の墓が見つかったとの報道があった。江蘇省南京市の南部新城油庫公園で見つかった576基の墓のうちM171墓から二つの金印が出土したことにより特定されたという。金印の銘文は、「輔呉将軍章」と「婁侯之印」であり、『三国志』呉・張昭伝には、呉(東呉)の皇帝となった孫権が、張昭を「輔呉将軍」に任じ、「婁侯」に封じたと書かれている。隣接する墓域は、張昭一族の家族墓であったというが、詳細は報じられていない。
 張昭(字は子布)は、後漢末から三国時代の呉の政治家にして武将であり、孫策・孫権兄弟の二代に仕えた呉の重臣として知られている。元々は徐州彭城郡の出身であり、若くして東海郡の王朗、琅邪郡の趙昱と並び称されるほどの名声を博した。文才で知られた同郷の陳琳にも注目され、自分は張昭に遠く及ばないと評されている。
 後漢末の戦乱を避けて江東に移り、そこで孫策に招かれて意気投合した。孫策は主君でありながら師友として寓し、参謀として重用した。江東の二張と呼ばれた張紘とともに、内政・外交に手腕を発揮している。
 建安5年(200)、孫策の臨終に際しては、弟の孫権を補佐するよう委任された。『三国志演義』では、孫策は孫権に対して「内政のことは張昭に、外交のことは周瑜に相談せよ」と遺言している。張昭は気骨ある人物として描かれており、幾度となく孫権に諫言しているが、戦乱を避けるべきとの姿勢が根幹にある。甘寧の勧めによって劉表と戦った際にも張昭は当初反対しており、曹操が江東に大軍を派遣してきた際は、兵力差に鑑みて降伏を進言している。結局、孫権は強硬派の周瑜・魯粛の勧めに従って赤壁の戦いに勝利することになるが、その後冷遇されても、戦いを極力避けようとする姿勢は変わっていない。
 黄龍元年(229年)、魏の曹丕、蜀漢の劉備に続いて孫権が皇帝を名乗ると、張昭は隠居を申し出るが孫権から慰留されている。老年に至っても諫言は止まず、たびたび出仕停止となっている。それでも孫権からの信頼は変わらず、何度も和解している。
 嘉禾5年(236)、81歳で死去し、文侯と諡された。素朴な棺を用い、普段着のまま葬るよう遺言していたとされる。その墓も特別目立つことはなく、金印がなければ張昭のものとは分からなかったであろう。葬儀には孫権も参列し、遺志を重んじて素服で臨んだという。

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