#52 羊と円面硯
昨夜のNHK大河ドラマ「光る君へ」で、宋(北宋)の商人朱仁聡は、朝廷に貢物を献上したいと申し出ているが、実際に長徳2年(996)、「唐人」(大宋国人)がガチョウ・オウム・羊を献じるために入京したとの記録がある。羊は角羊と呼ばれる大きな角が特徴的だが、実際の姿は分からない。ただし、奈良時代では羊を描いた「臈纈羊木屏風」などが正倉院御物に納められているから、海外からたまに招来される珍獣としては知られていたのであろう。宋人にとって羊肉はブームともなっており、宮廷料理に供されていた記録がある。賓客をもてなす料理としてはふさわしいものであった。もちろん、食べなれない羊肉の臭いは強烈であろうし、これは現代日本人にとっても同様である。
史実のうえでは、翌年にはこれら献上品は返却されているのだが、宋の商人はたびたび我が国に来着しており、通商を開きたいとの意図が垣間見える。ただし、中華思想の宋から見れば、東夷の蛮国である日本に頭を下げるわけにもいかず、当初は朝貢を求めたのだが、やんわりと断られたため、民間商人の力を頼むこととなったのである。
平安時代中期の我が国は、半鎖国状態にあり、海外との通商は太宰府に一任されていた。越前敦賀に来着することもしばしばあったが、そのたびに太宰府へ回航させられており、江戸時代の長崎貿易とあまり変わらない。これは支那諸王朝の海禁政策の模倣でもあり、中央政府が海外貿易を把握するためには仕方のないことであった。また、藤原道長が宋人の来着を警戒する場面も描かれたが、実は我が国は北宋以前の江南地方に拠った五代十国の数ヵ国と通商を開いており、北宋は貞元元年(976)にようやく全土を統一したばかりの新しい国であった。藤原道長が10歳のときである。
しかも、北宋の北方には契丹族の強国、遼が全盛期であり、半世紀前に渤海国を滅ぼし、朱仁聡らの来着した前年の正暦5年(994)には、それまで北宋に朝貢していた朝鮮半島の高麗が遼に服属するなど、東アジアの政治情勢は風雲急を告げていた状況にあった。朱仁聡らは最後は太宰府へ移されるのだが、越前に5年間も滞在しており、単なる商売目的とは思えない節がある。越前や若狭の国司らとたびたび争議を巻き起こしている。
ちなみに、ドラマの中で筆者がもっとも注目したのは、まひろ(紫式部)が円面硯を使う場面であった。大河ドラマに円面硯とは、考古学関係者としては感無量であるが、輪状の脚台部に透かしがある圏足円面硯であろう。平安時代中期は円面硯が消滅する時期でもあるが、地方官人にとっては憧れの文房具であったから、田舎には残っていたとの演出なのであろう。奈良時代の事例では、羊形の形象硯も知られている。