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#102 上北鉱山小史

 先週最終回を迎えたTBS系日曜劇場「海に眠るダイヤモンド」は、毎週楽しみに視聴していたが、筆者はとても微妙な心持ちで見ていた。というのも、筆者の出身地である青森県青森市近郊には、戦中から戦後にかけて我が国最大の銅生産量を誇った上北鉱山があり、以前も書いたように、筆者の実家のある青森市桐ノ沢団地は上北鉱山と関係が深いからである。何より筆者の父親(故人)は、小学校は分からないが、上北鉱山中学校を卒業しており、最盛期には5000人程度の人口があった上北鉱山の風景が、ドラマの舞台となった端島(軍艦島)と重なったのである。
 もちろん筆者は上北鉱山を実際に知っているわけではなく、昭和48年(1973)の閉山後、昭和51年(1976)の生まれである。ただ、父親から子供の頃、上北鉱山での生活の様子をほんの少しだけ聞いた記憶がある。
 上北鉱山は、上北郡天間林村(現在は七戸町)にあった日本鉱業(現在のENEOSホールディングス)経営の銅鉱山・鉄鉱山として知られている。昭和15年(1940)以降、本格操業しており、戦中戦後が最盛期で、終戦直前の昭和19年(1944)には一ヶ月の銅生産量が1400トンを超え、神風鉱山の異名をとった。従業員は1500名ほどに急増し、その家族のために鉱山町が形成され、人口は5000人程度にまで膨れ上がった。住宅700戸のほか、小中学校、高校分校、映画館、郵便局、スーパー、無料の共同浴場9ヶ所、入院施設を備えた総合病院まで整備されたという。雪深い土地柄ゆえ、冬はほとんど陸の孤島となるが、それ以外は青森市や東北町との間にバスや専用自動車が開通しており、鉱石を運ぶための索道(ロープウェイ)が青森市野内まで通っていた。生活物資も索道で運ばれたらしい。
 戦後も生産量はしばらく変わらなかったが、石油・石炭など資源の海外依存が高まると国内の鉱山は次々と廃坑になり、上北鉱山も生産量の減少とともに昭和48年(1973)閉山することとなる。操業期間はわずか33年間であったが、鉱毒処理のために閉山後50年以上経つ現在でも鉱毒中和作業が継続されている。
 筆者の父親は中学生という多感な時期を上北鉱山で過ごしており、青森市内の高校に進学するとともに上北鉱山からは離れたのであろう。今となっては知る由もないが、もっと詳しく話を聞きたいと思うばかりである。

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