#75 東三条院詮子の生涯

 前々回のNHK大河ドラマ「光る君へ」で、迫真の最期を迎えた東三条院詮子は、日本史上初の女院としてその名を歴史に刻んでいる。その生涯は、父藤原兼家の栄達と密接に関わっており、その死後は、兄藤原道隆、弟藤原道長の栄達にも大きな影響を及ぼしたが、何より権勢の根源となったのは、第66代一条天皇の生母(国母)としての立場にあった。
 詮子は応和2年(962)、藤原兼家の次女(母は時姫)として生まれ、天元元年(978)に第64代円融天皇に入内し、女御となる。天元3年(980)には東三条第(兼家邸宅)において懐仁親王(後の一条天皇)を生んだ。ただし、兼家はもともと第63代冷泉天皇の皇統を正統と考えていたようで、詮子の姉超子を入内させ、居貞親王(後の三条天皇)を生ませているが、皇太弟であった円融天皇はあくまで一代限りの天皇と考え、当初は娘を入内させなかった。円融帝と兼家の不仲はなかなか解消されず、中宮に関白藤原頼忠の娘遵子を立后したため、兼家は詮子と懐仁親王を伴って自邸であった東三条第に引き籠り、たびたびの召喚にも応じていない。しかし、円融天皇としても自らの皇統を継承させる好機を逃すわけにもいかず、次代は東宮(皇太子)師貞親王(花山天皇)、その次を懐仁親王(一条天皇)、さらに次を居貞親王(三条天皇)という両統迭立とすることで政治的和解を図ったのであった。
 7歳で践祚した一条天皇の御世となり、摂政兼家がほぼすべての権力を握ると、詮子は女御から皇太后となる。この際、皇后(中宮)はそのまま円融天皇中宮の遵子であった。幼帝にとって詮子は名実ともに後見(うしろみ)となり、公私を問わずその補佐をしたのである。永祚元年(989)、兼家は太政大臣に任命されるが、これを「母后命」として詮子が行っている。摂政は幼帝期における天皇大権の代行者であり、上皇や母后であっても政治上の決定権を持ち得なかったが、摂政本人に関わることは自ら決めることができないため、詮子の立場を利用したわけである。以後、母后は天皇と摂関を結び付ける役割を担うこととなり、大きな発言権を持つようになる。
 兼家没後、その権力は長男道隆が継承するが、朝政における詮子の発言権を抑え込むため、道隆は正暦2年(991)、円融上皇の崩御によって出家した詮子に女院宣下を出させ、以後、詮子は東三条院と号することとなる。上皇同様、院は内裏に住まうことができないため、道隆は詮子を一条帝から遠ざけたのであった。
 しかし、天皇との身内意識の強弱が権勢の強弱に直結する平安時代にあって、一条帝唯一の肉親である国母詮子の権威は否応にも高まり、道隆没後の中関白家の没落と道長の栄達は詮子の支持によるものである。道長の娘彰子の入内を後押ししたのも詮子であり、一帝二后も詮子の支持なくしては不可能であった。
 詮子は政敵とみられる人物にも寛容な面があり、安和の変で失脚した源高明の娘明子を引き取って養育し、道長に娶わせたり、皇后定子が崩御した際は、その忘れ形見である媄子内親王を養育している。また、あまり仲の良くなかった兄道兼の子である兼隆は、詮子没後に骨壺を抱持して宇治陵まで運んでおり、関係が良好であったことが分かる。ちなみに、詮子の甥でもある兼隆の妻は藤原宣孝の娘、すなわち紫式部の娘賢子である。  
 一度は失脚させた道隆の子、伊周を復権させたのも詮子と考えられており、ドラマの通り、一条帝とその子、敦康親王の後見を増やしておきたかったのであろう。この時点では円融系の皇統は一条帝と敦康親王しかおらず、次代の三条天皇(居貞親王)以後にも両統迭立を続けるための措置と推定されている。孫が可愛くない祖母はいないというわけだ。
 詮子は道長の庇護者でもあったが、道長は両親と変わらぬ敬意を払っており、長保3年(1002)、詮子が崩御してからも父祖の忌日として父兼家、母時姫、姉詮子の命日には供養を欠かさなかった。盆供の送り先も法興院(兼家の菩提寺)、浄閑寺(時姫の菩提寺)、慈徳寺(詮子の菩提寺)が指示されている。

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