#6 野辺地城の話
筆者の生まれた上北郡野辺地町には、かつて野辺地城という平山城があったとされる。前に書いた野辺地町立図書館や歴史民俗資料館が建つあたりが主郭であったといい、野辺地川を天然の堀とするだけでなく、実際に南東側には堀跡が残っている。周辺には城内という地名が残されており、本来の縄張りはもっと広かったのであろう。
野辺地城の築城年代は明らかでないが、中世以来の城館であり、天正20年(1592)の『諸城破却書上』には「野辺地山城七戸将監持分」との記載があるという。野辺地城を領した野辺地氏は、隣接する北郡横浜村の横浜氏と同族とされ、南部支族の七戸氏の庶流と伝わっている。南部支族とはいえ、七戸氏は一戸氏、二戸氏、四戸氏(櫛引氏)、九戸氏などとともにかなり早い段階に分かれた一族であり、戦国末期の九戸の乱で没落するまでは北郡に大きな勢力を保っていた。大浦(津軽)為信を輩出した久慈氏も七戸氏の傍系とされる。ちなみに、野辺地町の西隣、平内町も戦国時代には七戸隼人の領分であり、大浦為信に降伏したため津軽藩領となり、現在は東津軽郡になっている。
九戸の乱では、八戸氏(根城南部氏)以外の古い南部支族はおおむね九戸政実方に立って没落しているが、もともと南部宗家ではなかったと考えられる三戸南部氏への根強い反感があったのかもしれない。いずれにしても、七戸氏とともに横浜氏や野辺地氏も滅亡の憂き目を見たものと推定され、七戸氏の領地は三戸南部氏により接収された。
野辺地城は、下北半島の付根にある交通の要衝であり、一国一城制の近世においても要害屋敷として維持・管理された。城代は石井伊賀、小軽米氏、日戸氏と相次ぐが、みな戦国時代には城持ちの小領主であったような一族が配されている。享保20年(1735)には南部藩内に通制が敷かれ、野辺地代官所となるが、城館としての機能は維持されている。
実際に、明治維新に伴う戊辰戦争では、南部藩と津軽藩の間で野辺地戦争と呼ばれる戦いがあり、野辺地代官所は南部藩兵の拠点となっている。
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