見出し画像

#21 塩竃山上徳寺参詣記

 前回少し触れた塩竃山上徳寺は、京都市下京区本塩竃町にある浄土宗寺院である。徳川家康の側室、阿茶局を開基とし、その叔父である伝誉一阿を開山とする。慶長8年(1603)建立。世継地蔵の通称でも知られる。現在の五条通(河原町五条)からほど近い場所にあるが、オーバーツーリズムの観光客には見向きもされないため、休日であっても境内は空いている。
 たびたび火災に見舞われているが、現在の本堂は明治時代に永観堂祖師堂を移築したものである。本尊は近江国矢橋の鞭崎八幡宮から移したという阿弥陀如来像であり、快慶作との伝承がある。世継地蔵堂は境内奥にあり、江戸時代後期以降、子授けと安産祈願の名所となった。孝明天皇典侍、中山慶子が参詣し、明治天皇を出産したことでも知られ、いまだに京都市民の信仰を集めている。
 墓域には家康側室の一人である泰栄院の大きな供養塔が建つ。筆者は阿茶局(雲光院)の墓塔を見に行ったのだが、最初はひと際大きなこの供養塔が雲光院墓塔だと勘違いしてしまった。泰栄院供養塔に比べて笠塔婆形式の雲光院墓塔はなんとも控えめであり、その謙虚な人柄が現れているようである。泰栄院は阿茶局同様、ついに家康の子供を授かることはできなかったが、ともに甲斐武田家旧臣の出自であり、生前から交流が深かったらしい。
 阿茶局は武田信玄に仕えた飯田直政の娘であるが、甲斐飯田家は駿河今川家との所縁もあり、阿茶局は今川家旧臣でもあった神尾久宗に嫁いでいる。久宗の死後、家康に召し出された。側室の中でも特に聡明であったとされ、陣中にたびたび伴われている。徳川秀忠・松平忠吉の養育係となり、大坂冬の陣では豊臣家との和平交渉をまとめあげた。家康死後も秀忠、家光に重用されている。特に、秀忠五女で後水尾天皇中宮となった和子の入内に際して、その傅役となり、従一位を授けられた。一位局、一位尼とも称され、法号は雲光院殿従一位尼公松誉周栄大姉である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?