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#92 堤浦古舘考
前回書いた松森古舘こと堤浦古舘は、青森市内の中心部にほど近い堤川・駒込川合流地点左岸に占地したと伝えられている。現存する遺構はなく遺跡としても未登録であるが、近世南部家・津軽家の古記録や青森湊古図(弘前藩作成)に記された著名な城館である。堤浦古館の館主は、堤・大光寺両氏の祖となった堤弾正左衛門光康(康時)であり、三戸南部氏第20代当主信時の末子で第22代当主政康の弟である。三戸南部氏(後の盛岡南部氏)の系譜は、戦国末期以前は不明な点が多いが、戦国時代後期までには本来の南部惣家であった根城南部氏(八戸家)を凌いで南部家中の盟主的存在にまでのし上がっていたのであろう。
光康は、はじめ田子を領して田子(達子)弾正を名乗ったが、津軽郡代として堤浦に入部し、堤弾正を名乗ったとされる。盛岡南部家の「御系譜」では、光康は明応9年(1500)に没して堤浦に葬られたとあり、津軽家の「前代歴譜」には、明応7年(1498)の堤浦入部を記す。「前代歴譜」では、その後すぐに横内城を築き、そこへ移ったような記述をしているが、南部家側の史料(「系胤譜考」・「参考諸家系図」)では、光康の子経行も「堤浦二階堂之城代」を務めたとあり、光康の孫景行が大光寺へ移り、大光寺氏を名乗ったという。堤氏を名乗っていることからも、一定期間、堤氏一門が居城としたことが推察される。景行が大光寺へ移った後も、その傍流が堤氏を名乗ったまま当地に残ったものと思われ、戦国末期の横内城主堤弾正左衛門はかかる一族であろう。ただし、景行の後、堤浦古館には津軽郡代津村某が拠ったとする史料(「祐清私記」)もあり、横内堤氏の系譜には不明な点が多い。
南部(石川)高信の津軽征討記事にも、外ヶ浜の本営として「堤ヶ浦の屋形」の名が出てくることから、堤浦古館が三戸南部氏による外ヶ浜経営の拠点であったことが窺える。そうなると、横内堤氏はいつ、なぜ横内城に移ったかが問題となるのであり、横内築城の年代も不詳である。嫡流が大光寺へ移る際に、傍流が横内城を築いて入ったか、あるいは傍流堤氏が堤浦古館に拠ったまま戦国末期を迎え、大浦(津軽)為信による外ヶ浜攻略など戦乱が激しくなってから、横内城へ移ったかは確かめようがない。
青森湊古図に見える大古館および古館が、「堤ヶ浦の屋形」の遺構と思われるが、平城ということもあり、現存する遺構は皆無である。絵図そのものは作成年代不詳であるが、おおよそ寛永年間と言われており、江戸時代半ばまでは城館遺構が明確に残っていたことは間違いないものと思われる。「大古館」は、北と東は堤川(荒川)、西と南は空堀で囲まれ、東西144間(259m)×南北160間(288m)と書き込みがある。大古館から北に110間(198m)離れた堤川沿いに南北26間(46.8m)の「古館」があり、小古館とも理解できるであろう。これら二つの古館はもともと一つの城館であったと思われ、複数の郭を持った平城であったと推定されよう。
堤川西岸、現在の松原地内に当たるが、地割の上から範囲を確定することはできない。そもそも荒川・駒込川合流地点ということもあり、川の流れはかなり広範囲に亘り変化していると見るべきである。付近に高台地形も見当たらず、城館遺構は宅地開発により完全に消滅したと想定される。しかし、今後、宅地開発・商業地開発等で偶然、空堀などの城館遺構が発見される可能性は残っている。一部分でも確認されれば、そこから絵図を基に遺跡範囲を確定することも不可能ではない。現状では、遺跡範囲は曖昧なままに説明板の設置などで留めおくのが妥当であろうと思われる。