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#91 青森市域における「貞享4年検地水帳」の古館記事
江戸時代前期に全国規模で貞享の新検地が実施され、弘前藩領ではいわゆる「貞享4年検地水帳」(1687年)として各村の詳細が記録されることになった。村名、石高、小字名、反別用地などが書かれており、かかる反別用地に田・畑・屋敷地・永荒地などとともに、古館・神社地などの記録が残っている。古館は中世城館跡のことであり、ここでは青森市域における古館記事を抽出する。
貝久保村…「古館跡地1町3反余」、駒籠村…「古館5町余」、新城村…「古館2ヶ所・9反余」、高田村…「古館地2反余」、築野木館村…「古館1ヶ所・3反余」、野尻村…「古館2ヶ所・3反余」、松森村…「古館1町4反余」、以上7つである。
貝久保村は、戸山村から分村された村であり、現在の戸崎地区を含む地域であろうと推定されている。「古館跡地1町3反余」は東隣の戸崎村・桑原村境に占地する山城、戸崎館遺跡であろうと言われているが、標高が高いため、もっと低位の丘陵上に城館跡があったのかもしれない。その擬定地は不詳であるが、本村である戸山村には古館記事がなく、枝村である貝久保村にのみ記事があるということは、戸山村から離れた位置にあったと考えるのが妥当であろう。
駒籠村は、中世天文年間に作られた「津軽郡中名字」にも名前の見える郷村であるが、現在の駒込集落周辺に城館跡と思しき地形はなく、駒込字桐ノ沢の丘陵先端部に占地する駒込館遺跡が「古館5町余」であろうか。5町余といえば、約50,000㎡であり、かなりの広さである。貞享元年古図(1684年)には三つの郭を持つ古舘が描かれているという(鈴木政四郎『浜館村誌』1960年)。現在、城館遺構は確認されていないが、地元民から「堀こ」と呼ばれていたらしいから堀跡があったと推定されている。館主・築城年代ともに明らかでない。
新城村は、近世から村位上の大きな村であり、中世から戦略上の要地として重要視されてきた。「古館2ヶ所・9反余」は新城跡内における郭の並びを指すのか、新城跡と天狗館跡(遺跡未登録)を指すのかは不明である。
高田村は、中世には廿折とも呼ばれたというが詳しくは分からない。高田城跡は高田集落の中にあり、「古館2反余」が高田城跡を指すことは間違いないものと思われる。津軽氏側の史料(東日流記)には、天正13年(1585)、大浦(津軽)為信による油川城攻略の際、「其時高田・荒川・横内のそれぞれの侍衆、大浦様へ随ひ奉り、皆々罷出御禮申上候」と記すのみであるが、南部氏側の史料(南部藩参考諸家系図)には「高田氏 本名土岐」の項目があり、城主土岐大和助則基が天正18年(1590)、大浦勢の攻撃により高田城で戦死、その子土岐善兵衛則里は天正18年、やはり大浦勢の攻撃により浪岡(波岡)城で戦死とある。同じく則基の子土岐善太郎則忠は、浪岡城から三戸へ逃れたとあり、その後、高田善助を名乗ったとある。
築野木館村は、明治以降は築木館と書き、「古館1ヶ所・3反余」が築木館遺跡を指すものと思われる。菅江真澄の「すみかの山」には、城主として「隅田の小太郎某」と出てくるが、南北朝時代の伝承であり、真偽のほどは定かでない。
野尻村には、野尻館遺跡があり、主郭・副郭・帯郭が明瞭に残っており、「古館2ヶ所・3反余」はその大きさからしても主郭・副郭のことを指すのであろう。南北朝期の史料に見える中世野尻郷が、そのまま近世野尻村に重なるとは思われないが、「津軽郡中名字」にも野尻という郷村名がある。
松森村は、はじめ古館村と称し、村内にあったという「古館1町4反余」が村名の由来と思われる。菅江真澄の「真澄筆のまにまに」に「松森村の西方五町許福田にある遺跡こそ是ならめと考らる此舘跡と思しき地凹字形なし周囲塁壁らしきもの今に残れり」という記述があり、これが松森古館(遺跡未登録)であろう。現在、確認できる遺構はない。