#66 大塚山安楽寺参詣記
寒川神社を参拝したついでに、近隣の大塚山利益院安楽寺(高野山真言宗)を参詣した。南東向きの緩斜面(相模川左岸の台地縁辺部)に立地する安楽寺は、古来より寒川神社の別当寺であり、相模国分寺創建よりも古い養老2年(718)開基と伝わる。当初から相模国一之宮たる寒川神社の別当寺として創建されたと考えられている。同じく寒川神社周辺に所在する薬王寺、西善院、神照寺、三大坊、中之坊の5ヶ寺は寒川神社の神宮寺であり、供僧寺でもあった。これら諸寺院はすべて安楽寺の末寺であり、別当寺の伝統が生きているのであろう。現在は小さな寺院であるが、江戸時代までは中本寺格の寺院であり、「一之宮門中」、「大塚門中」と称され、多くの末寺を従えていた。江戸時代には関東における真言宗法談所となり、真言宗僧侶の養成機関でもあった。本尊である木造大日如来坐像(平安時代)は、定朝様を伝える由緒ある平安仏として著名であり、寒川町の重要文化財に指定されている。
筆者がわざわざ安楽寺を参詣したのは、本堂裏手に相武国造初代茅武彦命の墓と伝わる大神塚古墳があるからであり、これまでの発掘調査などにより、4世紀後半の前方後円墳であることが分かっている。前方部は現代の安楽寺墓地や周辺の住宅造成などにより削平されているようであるが、古墳主体部である後円部は高塚の威容を保っている。現存墳丘長51m、前方部直径37.5m、高さ5mを測るという。古くから寒川神社由緒古墳として守られてきた経緯がある。そもそも安楽寺が別当寺でありながら寒川神社隣接地ではなく、少し離れた場所に存在することも大神塚古墳に由来するものと考えられている。
なお、相武国造は第13代成務天皇の御世に初めて任じられたというから、4世紀初めのことであり、古墳はそれより若干新しい。相武国造の後裔が、先祖を顕彰して築造したとも伝わっている。相武国造は、相模国東部にあたる高座郡・大住郡・愛甲郡を領域としたが、壬生氏または漆部氏(姓は直)を称し、漆部氏は後に相模宿禰に改姓されている。漆部伊波や良弁(東大寺開山)らを輩出している。
大神塚古墳はこれまでに何度も発掘調査されているが、特に明治41年(1908)、坪井正五郎博士により調査され、学界で注目された。寒川神社の近くを流れる目久尻川流域には、大神塚古墳群のほか、県内最古の秋葉山古墳群もあり、前述の相模国分寺が置かれるなど古墳時代から古代における史跡が集中している。相模国府は相模川の対岸にあたる現在の平塚市、大住郡四之宮付近にあり、古代東海道の要衝でもあったが、相模川左岸には墓域や社寺が多く見られる。かなり古い時代から聖なる場所と認識されていたのかもしれない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?