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#80 仙台碑林の話

 東北大学図書館には、「仙台碑林」とも呼ばれる碑拓コレクションが収蔵されている。常盤大定(1870~1945年)が戦前の支那で収集した拓本200余点が基となっており、原碑から直接採拓した原拓がほとんどであるという。
 特に有名なのが、景教碑文とも呼ばれる「大秦景教流行中国碑」の拓本であるが、これは唐代の建中2年(781)、長安にあった景教(ネストリウス派キリスト教)寺院、大秦寺に建てられた石碑である。碑石は高さ2.76m、幅1m、厚さ0.26mを測り、亀趺に乗る唐代に一般的な石碑形式である。筆者も西安碑林博物館で実見したことがあるが、漢文の他、側面や裏面にはシリア文字で僧名などが刻まれている。我が国にも模造碑があり、高野山奥之院、京都大学総合博物館、日本景教研究会本部(愛知県春日井市)の三箇所が知られているが、筆者は京都大学総合博物館で何度か見た。
 ネストリウス派キリスト教は、唐・太宗(在位626~649年)の頃、ペルシア人阿羅本により支那に伝教され、景教と呼ばれるようになったが、元々はコンスタンティノポリス総主教ネストリウス(381~451年頃)により説かれた教義である。イエス・キリストに人性と神性双方を認め、当時、「神の母」と呼ばれることの多かった聖母マリアをあくまで人間であると主張した。431年のエフェソス公会議を欠席して、アレクサンドリア総主教キュロス(380~444年頃)の主導するアリウス派に敗れ、異端となって破門された。その後、拠点をオリエント(現イラク)のセレウキア・クテシフォンに移し、東方への伝教に努めたとされる。現在のアッシリア正教会が後継であるという。
 支那に伝わった景教は、一時大流行するが、会昌5年(845)、武宗による禁教を受けて衰退し、石碑も地中に埋められたといわれる。明末に大秦寺跡地にあった崇聖寺境内で発掘され、再び建てられた。ちなみに、元代に流行した也利果温教(福音evangelionに由来)も景教の一派とされる。
 もう一つ、仙台碑林の中で注目されるものが、慶陵哀冊の碑拓である。これは、遼の第三代皇帝道宗(在位1055~1101)の陵墓に収められた墓誌である。慶陵とは、契丹族により支那北方に建国された遼(国号契丹のち大遼)の最盛期、聖宗・興宗・道宗三代の陵墓群の総称である。日本の人類学者、鳥居龍蔵(1870~1953)によって1930年、1933年の二度に亘って調査され、世界から注目されるようになった。1939年には、日満文化協会の委嘱を受けた京都帝国大学(総長羽田亨、調査隊に田村実造・小林行雄らがいる)による調査が行われ、東陵(聖宗陵)の壁画を中心に詳細な記録保存がなされた。戦後、慶陵は封印されたため、かかる碑拓は重要な学術資料ともなっている。

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