#98 埴輪の話
過日、東京国立博物館で開催されている特別展「はにわ」を見に行ってきた。その後、ついでに東京国立近代美術館で開催されている「ハニワと土偶の近代」も見てきたが、今年は全国各地で埴輪(はにわ)に関する展覧会が開催されているようだ。
東京国立博物館の「はにわ」展は大変な人混みであったが、話題の展覧会(だけ)が長蛇の列となることは、日本人の知的好奇心の高さとともに同調圧力やミーハー的なものも感じ、いつも何とも言えない気持ちになる。展示のメインである国宝「挂甲の武人」は、平成館(考古展示室)常設展示でいつでも見れるし、全国各地の主要な埴輪をまとめて見るには便利だが、見る機会の少ないものと言えば箸墓古墳の壺形埴輪や大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の埴輪ぐらいではなかろうか。
ここでは「はにわ」展の概説ではなく、埴輪そのものについて少し書いてみたい。というのも、一般の方々にとって埴輪は、「はに丸くん」に代表される人物埴輪のイメージしかないであろうし、古墳時代の考古遺物ということは知っていても、その意義については知らない方がほとんどであろう。
埴輪(はにわ)とは、埴(はに)で作った輪(わ)のことであり、埴(はに)とは陶土、すなわち焼き物の素材となる粘土のことである。埴は「はにつち」と読むこともある。特に黄土・赤土を指すことが多く、埴輪のほとんどが素焼きで赤褐色の色調となることも同様である。ちなみに、奈良(大和)の枕詞である「青丹吉(あをによし)」は、奈良が青土(あおに)の産地であったことにも由来するのだが、青丹を土壌顔料のことと解して、青土と赤土を産する豊かな国とする解釈もある。
輪(わ)は円筒形であり、埴輪とはその一種である円筒埴輪から命名されたことはあまり知られていない。そもそも出土する埴輪のほとんどは円筒埴輪であり、円筒埴輪こそ埴輪の本質と言ってもよいだろう。古墳墳丘に立て並べることが埴輪の本義であり、墓域を画することを目的としている。つまり、この先は墓域・霊域であることを明示しているのである。同時に辟邪、悪霊や災いを避ける意味もあるという。大きな古墳であれば数万本もの円筒埴輪を並べることも珍しくない。転じて王権の権威を示す目的も生じた。様々な器財埴輪や人物埴輪、動物形埴輪も並べるようになるのは中期古墳からであり、後期古墳が主体である。
さて、埴輪の起源は、考古学的には弥生時代末頃の吉備地方における墳丘墓に多用された特殊壺・特殊器台にあり、大和地方で古墳が造られると同時に、特殊壺は壺形埴輪に、特殊器台は円筒埴輪へと変化していったとされる。両者が合体した朝顔形埴輪も生まれた。とすると、埴輪の起源には吉備地方の勢力が深く関わっているようにも思うが、『日本書記』に記された埴輪起源譚は、「第11代垂仁天皇32年7月、皇后の日葉酢姫命が薨じたとき、野見宿禰の建言により、出雲の土部(はにしべ)100人に命じて人馬や種々の物形をつくり、陵墓に樹(た)てさせた。この土物(はにもの)を埴輪(はにわ)または立物(たてもの)といい、今後は必ず陵墓にたて、人間を生き埋めにしてはならない。宿禰を土部職(はじのつかさ)に任じ土部連(はじのむらじ)と称するよう言われ、これによって天皇の喪葬を司る縁ができた」の意であり、出雲地方との関連が強い。土師氏の祖神、天穂日命(アメノホヒノミコト)は出雲国造の祖神でもある。『日本書紀』の記述は、朝廷において埴輪や土師器(はじき)、古墳造営などを司った古代氏族、土師氏(はじのうじ)が先祖を顕彰するために提出した文書に基づいて記載されており、考古学的事実との齟齬も大きいが、いずれにしても土師氏は自らの起源を出雲地方にあると考えていたことになる。
焼き物や古墳造営などの土木技術というと、すぐに渡来系氏族を思い描いてしまうが、須恵器(陶器)と違い、土師器は弥生時代以来の素焼きの土器であるし、埴輪も同じ技術によって焼かれている。また、埴輪は古墳以外からは発見されない遺物であり、土師氏が古墳造営に深く関わっていることの証左となろう。
なお、土師氏はその後、平安時代初期、第50代桓武天皇の時代に菅原氏・秋篠氏・大枝(大江)氏などに分かれ、それぞれ廷臣として活躍している。