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#32 宇多源氏の後裔

 前回のNHK大河ドラマ「光る君へ」で穏やかに退場した左大臣源雅信(920~993年)は、宇多源氏の始祖としても知られている。皇族出身の賜姓源氏は源氏二十一流と呼ばれるほど多様であるが、それぞれ出自の天皇に因んでそう呼ばれる。宇多源氏は、第59代宇多天皇の子孫たちであるが、第八皇子敦実親王の子雅信王が臣籍降下した源雅信の系統が著名である。
「光る君へ」の時代考証でも知られる倉本一宏著『公家源氏』(中公新書、2020年再版)によれば、そもそも賜姓源氏は天皇家との身内関係により栄達していくものであるから、御代が替わり、皇室との関係性が薄れていくと自然と没落していく運命にあるのだという。唯一の例外ともいえる村上源氏の繁栄は、その高貴な血筋ゆえではなく、摂関家および王権とのたび重なる血縁関係に依拠したものであった。
 実際、宇多源氏は雅信こそ左大臣にまで上り詰めたが、大臣になれたのは弟重信だけであり、雅信と重信の子孫にわずかに公卿が出ているばかりである。雅信の娘倫子は藤原道長の嫡妻であるのだから、もう少し栄達してもよいような気がするが、摂関家の公卿たちの間に入り込む隙がなかったということであろうか。子孫の公家源氏には、庭田家(羽林家)、綾小路家(羽林家)、五辻家(半家)、大原家(羽林家)、慈光寺家(半家)などがある。
 雅信の四男源扶義の子孫に近江国佐々木荘に土着した佐々木氏があり、源頼朝を助けた佐々木四兄弟の父、佐々木秀義(1112~1184年)が著名である。秀義の母は安倍宗任の娘であり、俘囚長安倍氏の血筋まで受け継いでいるのだが、源義朝に従い、平治の乱では悪源太義平とともに戦うが敗れ、従兄である藤原秀衡を頼って奥州へ落ち延びる途中、相模国渋谷荘の渋谷重国の客将となって匿われた。頼朝挙兵の際、定綱、経高、盛綱、高綱の四兄弟を差し向けたことを頼朝は深く感謝し、後に佐々木荘を安堵された。
 ちなみに、後鳥羽上皇の近臣でもあった源仲章は、雅信の子源時方の子孫と伝わっており、阿野全成の三男頼全を佐々木定綱とともに誅している。同族の誼であろうか。
 佐々木氏は近江源氏とも称されるが、足利尊氏と懇意になった佐々木道誉(京極高氏、1296~1373年)の子孫、京極氏は特に室町時代に隆盛を極めた。応仁の乱後は家臣であった浅井氏の台頭もあり、没落していたが、豊臣秀吉側室となった松丸殿(竜子)の兄弟である京極高次・高知は秀吉に取り立てられ、大名となっている。徳川家康にも従い、京極氏は四家(讃岐国丸亀藩・多度津藩、但馬国豊岡藩、丹後国峰山藩)が近世大名として明治維新を迎えている。

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