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#4 南部と津軽(下)

 南部氏は、源頼義の三男、新羅三郎義光に始まる甲斐源氏の一族であり、武田氏や小笠原氏と同族である。甲斐国巨摩郡南部郷を本貫地とする。奥州合戦に際して源頼朝から糠部郡(現在の南部地方とも重なる地域)を与えられたとの伝承もあるが、鎌倉時代の動向は定かではない。史料的に明らかなのは、南部師行・政長兄弟が建武の新政に従って北畠顕家とともに奥羽へ下向し、北奥の検断職として活躍してからである。以来、南部一族は糠部郡・閉伊郡・鹿角郡を中心に徐々に地方領主としての地位を固めてゆき、室町時代中期には津軽地方の大豪族、安藤(安東)氏を渡島(北海道南部)へ駆逐し、現在の青森県全域と秋田県北部、岩手県北部までを勢力圏とする。「三日月の丸くなるまで南部領」とはよく言ったものである。
 しかし、前回書いたように、南部宗家には、大きくなりすぎた領域を統制することはできず、大浦(津軽)氏の独立や九戸の乱を経て、近世南部藩が成立する。つまり、南部地方とは南部氏の土地という意味が強く、元々の地名ではない。
 対して津軽地方の津軽とは、古来よりの地名であり、大浦為信は津軽を統一したことにより、津軽を家名としたのである。『日本書紀』斉明天皇元年(655)には、最も遠い蝦夷の名として「津刈・東日流・都加留」の表記がある。その後もたびたび蝦夷の一大勢力として、津軽の名が登場する。
平安時代中期に至るまで、陸奥国の奥六郡以北は王化されない化外の地であり、蝦夷の領域とされていた。前九年の役、後三年の役とその間に行われた延久蝦夷合戦(1070年)などを経て、奥州藤原氏の時代には、奥六郡の北にも閉伊郡や糠部郡、鹿角郡や比内郡が置かれるようになる。津軽にも「平賀郡・鼻和郡・田舎郡」が確認されている。
 ただし、中世においても青森県や秋田県北部の日本海沿岸は西浜、陸奥湾沿岸は外浜(外ヶ浜)と呼ばれ、郡を置かれるには至っていない。奥州合戦以後の北東北は、執権北条氏の得宗領となっており、被官となった在地豪族や御家人が実質的に支配していたと考えられている。津軽地方に拠点を置いた安藤(安東)氏も同様であるが、俘囚長安倍氏の後裔を称し、鎌倉時代には蝦夷沙汰職、室町時代には蝦夷管領となり、北奥の大豪族となって繁栄を極めていた。
 しかし、やがて南部氏の圧力に屈して津軽を追われたことは前述の通りである。ついに津軽を取り戻すことはできなかったが、その後、安東氏は出羽北部へ本拠を移し、戦国末期には秋田氏と名を変える。近世には三春藩秋田家となり、明治維新を迎えることになった。

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