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人間であること、人間でないこと-ピノキオピー『東京マヌカン』の考察

 生きていない人間は人間だろうか。

 中学3年生の時に出会ったピノキオピーの『東京マヌカン』の持つ深みを、中学3年生には言葉にできなかったかもしれない深みを、高校生と大学生のまんなかにいる今言葉あえてにしたいと思った。このnoteは『東京マヌカン』の考察として書いているので、先に上のリンクから楽曲を聴いてもらった方がいいかもしれない。

 聴いてみて歌詞から察した人もいるかもしれないが、マヌカンとはすなわちマネキン人形のことである。服飾の世界ではこう呼ぶこともあるそうだ。


 中学3年生の私に言わせれば、この曲の深みは「段々と明かされる真相」であったという。

君は動かないから好き
喋らないから好き
体温がないから好きだよ
君は馬鹿にしないから好き
ぶってこないから好き
幼い頃に芽生えた 諦めと祈りを抱いたまま

 1番のサビ前。この部分だけを考察すれば、この曲の主人公は所謂ピグマリオンコンプレックス、すなわち人形愛者であるように捉えることができる。直後のサビでは命が宿ることへの期待と諦観が混ざったような描写がなされ、心の中で蠢くものの苦しさを抑えて「君が生きてなくてよかった」と締めている。

 しかし、これが単なる人形愛でないことが次のサビ前で明かされる。

君は否定しないから好き
文句言わないから好き
嫌わないから好きだよ
君はもう死なないから好き
もう死なないから好き
監視カメラは どこにもない
ゆがんだ愛の歌 寂しく
さまよっている

 「もう死なない」。この言葉の意味をあえて口にする必要はない。それがお店で買えるような人形ではないことをここで私達は知ることになる。

ずっと まともなふりをしてきたのに
ずっと心の内 隠してたのに
身勝手から犯してしまった罪
ぼくは人間になりきれなかった

 誰かを「マヌカン」にしたのはまさにこの主人公であることが、ここで真相として述べられ、この曲は終わる。

 形の分からない愛の輪郭が、曲の進行につれて徐々に見えてくることに、かつての私は『東京マヌカン』の美を見出した。そしてそれは今も思うことだ。


 ここまでなら3年前の私にも書けたことだが、今私がこの曲を通じて問い直したいことがひとつある。

人間であるとは何か、人間でないとは何か。

 と。以降、主人公の愛の対象であるそれを「マヌカン」として書くことにする。

 『東京マヌカン』に登場するマヌカンは、1番のAメロで「人間あらざる君」と表現されている。マヌカンは人間の形をしていても、主人公にとっては人間でないということになる。

 サビ前では主人公がマヌカンを好きな理由が列挙されていて、これはマヌカンが人間あらざる所以でもある。「動かない」「喋らない」「体温がない」「馬鹿にしない」「ぶってこない」「否定しない」「文句言わない」「嫌わない」そして、「もう死なない」。マヌカンはそれゆえ人間あらざるのであり、それゆえ主人公はマヌカンを愛している。

 しかし、『東京マヌカン』で述べられている人間あらざる所以はこれだけではない。この曲で主人公は最後に「ぼくは人間になりきれなかった」と自省している。そう、主人公にとって人間あらざるものはマヌカンであると同時に、自分自身も人間あらざるものなのだ。

 それでは、主人公はなぜ人間でないのだろうか。主人公の抱くマヌカンへの愛は、人間には生じないのだろうか。生じた者は、人間ではないのだろうか。

 話が大きく逸れるが、2019年の一橋大学の国語では、なだいなだ氏の『人間、この非人間的なもの』が問題文として出題された。「リンゴ色」という言葉は単にリンゴそのもの色を指すものでなく赤色を指す言葉であって、青リンゴの色を「リンゴ色」とは表現しないのと同じように、「人間的」という言葉は実際の人間そのものとは“切り離されて”いて、現代の人間はある意味では「非人間的」である、といったことが論ぜられている。

 この文章の中で、氏は次のように述べている。

 人間、この非人間的なもの、と私がいうのは、人間をして語らしめば、私たちが人間的と呼んでいたものを越えて、非人間的と呼んでいたものを語りはじめるであろうことを予告したいからに、ほかなりません。
なだいなだ『人間、この非人間的なもの』

 時の流れの中で人間そのものが更新されていくことで、人間は「人間的なもの」という限定的な枠組を越えた存在になるのである。

 話は『東京マヌカン』に戻るが、『東京マヌカン』はこの『人間、この非人間的なもの』と対をなす哲学を内在しているように思える。

 『東京マヌカン』で主人公はマヌカンを「人間あらざる君」として定義づけた上で、最後に自分自身を「人間になりきれなかった」と締めくくっている。生きていないマヌカンに与えた「人間あらざる」という枠組を、生きている自分にも当てはめているのである。主人公が自身を「人間になりきれなかった」とすることは、「人間あらざる」の意味を主人公自身が更新することだ。その意味で、『東京マヌカン』の主人公は、「非人間、この人間的なもの」ではあるまいか。

 主人公は愛するマヌカンと同じ「非人間」になりたかったのかもしれないし、自分が「非人間」であるからこそ、誰かをマヌカンにしてしまったのかもしれない。いずれにせよ、人間/非人間という枠組が、主人公の愛において障壁であり、それを主人公が罪によって乗り越えた、乗り越えてしまったという経緯が見てとれる。


 『東京マヌカン』は人間の非人間性、非人間の人間性に、人形愛という観点からせまった作品であると思う。ピノキオピーはこの楽曲のリリースの2年後の2017年に『君が生きてなくてよかった』をリリースしている。生きていない、感情がないからこそ初音ミクを愛したというピノキオピーの初音ミクに対する思いが込められた楽曲だ。2017年は初音ミク10周年の年であった。『東京マヌカン』と直接関わりはないが、この楽曲でも「君が生きてなくてよかった」というフレーズが強調されている。また、先日(2023年2月)リリースされた『匿名M』でも初音ミクの非人間性を重視した表現が見られる(初音ミクが「好きな食べ物は?」と問われて「ないです。人間じゃないので。」と答えるなど)。こうした「非人間(性)」はピノキオピーの楽曲の中で重大なテーマの一つであると言えよう。なだいなだ氏が先の著書で主張した「人間とは何かを問いかける姿勢」、その様相は、ピノキオピーの楽曲の中で出会えるのかもしれない。

それでは。

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