総合型選抜と年内入試が高等教育に及ぼす影(1/2)
1.「総合型選抜」の導入の経緯
文科省は、本年4月総合型選抜の導入効果に関する調査結果を公表した。
慶応大学の湘南藤沢キャンパス(SFC)の開校と同時に我が国で初めて導入されたAO試験は、その後Admission Officeの定義、制度内容、試験としての選抜基準の客観化・透明化等々、さまざまな課題を置き去りにしたまま、燎原の焔のような勢いで全国の私立大学に広がり、国公立大学にも特別な才能を有した学生の確保手段として活用されてきた。
(AO入試は、1990年の慶応大学をきっかけに、2000年に東北大学、九州大学、筑波大学が導入し、2008年には全国で約500大学が導入した)
このAO入試の功罪を問うことなく、2021年、政府は内閣府に「教育再生実行会議」を設置し、改めて「学びの3要素」を定め、多様な能力を有した人材を高等教育に導きいれることを目標に(英語の4技能の導入には失敗したけれど)、共通テストと総合型選抜の導入を進めるに至った。
そのような大学入試改革の流れに足を揃えて、「何を学ぶか」「どのように学ぶか」「何ができるようになるか」を3本の柱に据え、英語学習の早期化、GIGAスクールの導入、アクティブラーニング等の導入を進める学習指導要領を改訂し、来年度大学入試において、その一期生を大学に迎いいれることとなった。
(大学共通テストと同時に導入するとした高校での「基礎学力テスト」、英語4技能の導入を断念した当時の文科大臣の「1年後には代案となる制度の導入」の確言は、今やその影すらない)
2.総合型選抜導入の目的と効果
ところで肝心の総合型選抜である。この選抜制度は、各大学の「アドミッションポリシー」に適う学生の入学を進め、「学力の評価だけではなく、多面的・総合的に評価する選抜」を重視し、書類審査、小論文、学力テスト、面接等を組み合わせて選抜を行うことを基本とし、23年度入試では、国立大学の78%、私立大学の93%で導入されている。その募集人員では大学によってさまざまではあるが、国際卓越研究大学の第1号に選定された東北大学は、「ゆくゆくは全学生を総合型選抜で入学させたい」と豪語しており、少子化、大学全入時代の到来とともに、この総合型選抜は、やがて大学の入試制度の根幹をなし、厳密化が進む入学定員充足のかけがいのない武器と化していくであろう。
その効果について、「アドミッションポリシーに適った学生の確保」に有効であったとする大学は80%を超え、「学力試験では選抜できなかった資質の学生」の入学に有効であったとするものが88%弱、「他の選抜方式よりも「主体性、多様性、協働性をもって学ぶ姿勢の学生」の確保に有効であったとするものが80%弱と答えている点では、総合型選抜は所期の目的を十分に達したといえるであろう。
他方、「他の選抜方法と比して、高校での総合的な探求の時間を生かしたいとする受験者を集めることができた」とする大学は25%に止まり、入学者の質と量の確保に資したとする大学が半数に及んでいる。その点では、総合型選抜は、他の年内入試と同様、入学定員の確保の手段として活用されたに過ぎないといえる。
おそらく積極的に有効だとする大学と、定員確保の手段として止むに止まれず活用した大学とに二極化していると想定される。
では、策定と公表を義務づけられているアドミッションポリシー(入学生の受け入れに関する方針)とはどのようなものであり、各大学は、どのような基準で運用しているのであろうか?
文科省は、3つのポリシーの策定と運用のガイドラインの中で、アドミッションポリシーについて次のように述べている。
3.アドミッションポリシーと総合型選抜
では、他大学に先んじてAO入試を導入した慶應義塾大学は、どのようなポリシーを掲げて総合型選抜に臨んでいるのであろうか?
全学的なアドミッションポリシーは、以下のように述べられている。
一見、否をつけようのない見事な「ポリシー」といえよう。だが、「慶應義塾の理念と目的」とは何か、それを理解するすべはどこにあるのかは、幼稚舎から進級してきた志願者はさておき、志願者は知るすべがない。また、「本学での学修に必要な基礎学力」は、だれがどのように判断して評価を下すのか、実際に入学して授業を受けてみるのでは無ければ、受験者は判断しようがない。大学が入学を希望するものになにを求めているのか、具体性がないし、客観的評価基準もない。
大学が提出を求める「志望理由書」にしても「小論文」にしても、総合型選抜入試に特化した塾、予備校が跋扈し、生成AIがそれぞれの大学向きに見事な文書を作成することが可能な時代にあって、大学にとって選抜制を担保できるのは、各種教科オリンピックで上位入賞者、すでにして大学での学習レベルを超えるようなディープラーニングの修得者の奪い合いに堕する以外にない。面接試験にしても、権威ある教員に囲まれて自らの進むべき道を朗々と弁じることができる受験生などごく限られているだろうし、他方で「多様性の重視」を掲げながら、受験生の隠れた才能、今後の知的・情緒的成長を予測できるような時間は与えられないし、面接官に識別できる能力があるとも思われない。
結局のところ、並行して行われる科目を絞った従来型のペーパーテストの結果に頼るほかはないであろう。総合型選抜は、全入時代の入学試験の形骸化を促進するものに他ならず、そのほとんどが専願制で行われていることから、入学者の青田刈りを象徴するものでしかない。
今やそのような入学試験の形骸化の象徴と堕した総合型選抜を全否定することができないとすれば、大学入試制度はどのような社会的価値を回復すべきかについては、次節を待ちたい。