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【寝前小説】苺のショートケーキ
あまり昔のことを覚えないタイプの人間だ
だが、いくつかの経験は忘れようにも心にこびりつくものがある
あの時私は入院していた
ぼんやりとした記憶の中だが1人の少年を鮮明に覚えている
どんな病気なのかどこで療養しているのかは知らなかった
彼はよく僕の夢枕に立ったのだ
正直夢だとしか思えない だが僕の記憶で彼は確かに居た存在として覚えていた
彼はよく私に思考実験のような問いかけをしてきていた
想像で作り上がった人物の心情が揺らぐことはあるのかとか死神という存在を信じることは死を願う気持ちそのものではないかとかよくもまあそんなことが思いつくなと感心するほどだった
私は彼の話題に自分なりに意見して
彼は私のなんでもない答えを面白そうに聞き入ったり質問してきたり
私の中で育まれた意思を彼が聴いてくれることで現実にあっていいものだと認められるようだった
私は彼の優しさに甘えて自分の思考を確立させていたのだ
意味の通っていない答えをしてしまっても彼は後日また話をしに来てくれるのだ
私はこの関係性が幸せだった
その日も来た
彼は苺のショートケーキを無表情に食していた
彼は綺麗に生クリームを塗られた平らなケーキをただひたすらに口に運んでいた
彼はこっちを見なかったが私の存在に気付いている気がした
ケーキを一口ずつ見据えて口に運ぶ姿は私に何かを訴えているように感じた
かける言葉が見つからなかった
私よりいくつも年少であるはずの彼だがその姿は私が見ているものより大きな物を見ている気がした
「おじさんは…」
ふいに彼が話始めた
「おじさんのケーキは色んな果物が乗ってておいしそうだね」
何も言えなかった
「僕はもう…このケーキには飽きちゃった」
私はまだケーキを食べて欲しかった
彼の表情は既に何かを決断していて、自分はそこに意見できるような人間じゃない気がした
私の視線は既に彼を避け、俯いていた
もしかしたら彼はいつものように私の意見を聞きたかったのかもしれない
あるいは私は彼のように彼の決断を優しく受け入れるべきだったのかもしれない
しかし私はそれに向き合えるほど強くなかった
「苺は…」
私の口は必死に私の意思を言葉に紡いだ
「苺が残っているよ…」
これが精一杯の私の意見だったのかもしれない
私は彼にどうにかケーキを楽しんで欲しかった
彼はそっと苺に手を伸ばし、口に運んだ
いくつもの雫と共に崩れた果肉がボロボロと落ちる
…あぁ、もうダメなのだ
私はもう何もできなかった
「…」
彼が言葉にならない何かを伝えようとしている気がした
彼は私に崩れかけた苺を差し出していた
受け取らないといけないような気がした
それが私にできる唯一の彼と向き合うことなのだと思った
顔を見たいと思った
最後に目を見て笑顔を見せたいと
確かに受け取ったと、伝えたかった
顔を上げると見慣れた病院の天井だった
起きると私は大泣きしていたのを思い出した
あぁそうだ、あれは退院の日だった
彼とは多分二度と会えないのだと思った
病院の玄関を出て広くなった視界の端を見る
最後に私の意志が彼に届いたかは分からない
それでも私は彼と向き合って生きていく