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視力は待ってくれない

眼が悪い。

どれくらい悪いかと言えば、たとえば対面して食事をしている人の口の横に付いた米粒に気付かない。食事とその人を写真に収めようとして、あっ、米粒付いてるよ。とカメラ越しに初めて気付く。

米粒に気付かないとすれば、仮に誰かの歯に青のりが付いていたら気付くはずもない。昨年の冬、新宿で落ち合い一緒に銀だこのたこ焼きをハフハフ言いながら食べた友人の歯にはきっと青のりがびっしり付いていたと思う。解散後、恋人の家に行くと意気揚々とたぶん満面の笑みで言っていた友人を思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

最近の話では、6歳になる知り合いの子どもが「視力検査ごっこ」と称して、さまざまな大きさの「C」を書いた紙を小さな手で複数枚持ち、5メートルほど離れてたぶん悪戯心に満ちた顔でシャッフルをして僕に見せてきた。

「はい、これは〜?」

視えるわけがない。明らかに小さい「C」を選んできてるな。一か八か指で右を指してみる。

「せいかい…!」

当たった。子どもは少し不服そうな声を出して、再度シャッフルした物凄く小さなサイズの「C」をおそらくニヤけた笑みをしながら見せてくる。

…僕には「C」が書かれているのかどうかも分からない。分からないんだ。君の持っているものは僕から見える世界では何も書かれてない真っ白な紙なんだよ。しかもナナメCとか姑息な手を使う年頃でもあるだろう、おい!大人を舐めるんじゃねえぞ!

最大限に目を細めて、なんとか視えそうですよ〜視力の限界に挑みますよ〜、と偽りのムーブを演出して"ナナメにアタリをつけ"て左下を指してみる。

「…せ……せいかい!眼、いいね〜」

ナナメを含む、1/8の賭けに勝ってしまったのだ。一平の鼓動の高鳴りを感じる。
子どもは驚きと少し敬意を表したかのように、たぶん悪戯心が消えた顔を浮かべて他の遊びへと去っていった。君は、まだ真っ白な希望という名の紙にこれから夢を描いていきなさい。僕のように、ぼやけた哀しき視界にはならぬよう…。

このように、日常生活が送れない視力というわけではないのだ。普通に生活は出来て、博打をしながらも人と交流をすることがなんとか出来る。

完全に支障をきたしていないレベルだからこそ現状に甘んじているわけだが、もちろん対策をしていないわけではない。仕事や運転、映画や芸術鑑賞、料理や家事など何か細かい作業をする際にはこの裸眼は使い物にならないため、都度眼鏡をかけているのだ。

ここまでして、眼鏡を常用しない理由と、コンタクトレンズをしない理由は何故かと聞かれたら、それは「見えすぎるのが怖い」からである。

見えすぎるの、怖くない?

僕はそう感じてしまうのだ。いくら不便になろうとも、見えすぎるのが怖いがギリ、勝ってしまう。

こんな理由で堂々巡りするのもどうかとは思うが、数十年前にインターネットを徘徊していたら、『BUMP OF CHICKENの藤原基央は視力0.05で眼がとても悪い。普段は見え過ぎるのが嫌(怖い)な為、眼鏡はかけない。コンタクトもしない。恥ずかしいのもあるらしい』という嘘かホントかわからない情報を目にしたことがあり、とても驚いた記憶がある。

何故かといえば、一語一句違わず、まったく同じ理由なのだ。

いや、本当である。本当に信じて欲しい。受け売りではなく、本当に同じ考え方で裸眼を通してきたのだ。僕が言ったか、藤原基央が言ったか、どちらが先に言ったか、まである。
兎にも角にも、この情報を目にして以降、同じような思想の人がいたことで確固たる信念のようなものに変わったし、実質、私は藤原基央なのである。

「見えすぎる」

本来であれば、こんなにもありがたい話はないだろう。人の表情がよく見えて、細かい挙動がよくわかる。それはほとんどすべての点においても、きっと利便や効率に繋がり生きやすさにも直結している。

眼が良くて損することはないし、眼が悪いことで得することなんてない。

…果たしてそうだろうか?

僕はよく人と話してる時に「目をしっかり見て話すよね」と言われる。
仕事の面接においても、同僚や友人との雑談においても、気になる人とのデートにおいても、ぼやけているからこそいい塩梅で目を見て話すことができる。

これは眼が悪いことの最も大きなメリットであり、どこに目をやったら良いのかわからないという羞恥心を掻き消すことが出来るのだ。

自分に自信があるわけではないが、おかげで良い印象を抱かれることが多く、このシンプルで強いコミュニケーションは他者からすると所謂"根拠のない自信"に見えるのだと思う。

しかし、初対面の人には諸刃の剣でもあり、2回目以降にふと眼鏡をかけてその人を見た時に(うぉ、顔がハッキリ見える!)とビックリすることがよくある。そして、見えすぎるために目以外の情報量を多く浴びてしまい、急に怖くなってしまう。
これは自分にも言えることで、眼鏡をかけて鏡を見ると、(おい、なんだよこのまごう事なきおじさんは!)とビックリして、ちょっぴり傷心する。

夜に裸眼で歩くと、雑踏は無碍に道端の汚いものには蓋がされて、街灯や看板のイルミネーションは全てぼやっとした輪郭で星のように輝いて見え、すれ違う人々の表情は闇に紛れて全くわからないけれど、それが良いのだ、これが良いのだとそう思っていた。

…のだが、これは偽物の世界なんじゃないか。ねぇ藤くん…?

ぼやけた世界を見ることで、良いように解釈をして、見たくないものを見ないように、僕は自分自身から目を背けていたのではないだろうか。本来あるべき感情に蓋をすることで必要な情緒を切り捨ててしまっていたのではないだろうか。
「見えすぎるのが怖い」は結局、理想と現実の乖離を直視せずに、埋める努力をしない者の戯言なのだ。
ただ、そこには美学も確かに存在はしていて、自分が自分らしくいられることが出来れば、画一化する必要なんてないはずだ、とも思う。

でも、

僕は一緒にたこ焼きを食べた友人の歯についた青のりに気付いて、胸を張って大切な人のもとへ送り届けてあげたい、

素直で正直な子どもと、ナナメな視線からではなく愚直で嘘のない対等な「C」のやり取りがしたい、

輪郭がはっきりとした視界の中で人と街と営みを続けて、恥じらいを持ちながらも本当の意味での自信や未来を繋げていきたい、

と、そう思うようになったのだ。我ながら情けなく、愛おしい限りである。

世界が見えすぎるのが怖い。
こうやって見える世界を有耶無耶にしてきた30を超えた大の大人が、明日初めてコンタクトを作りに行ってくる。

藤くん、僕はひとつ大人になれるのでしょうか。本当の星空が鮮明に映った世界で、流れ星ひとつだって気付けるようになれるのでしょうか。

ルララ ルララ …

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