エズラ・ミラーが目を七つ生やした話
エズラ・ミラーが目を七つ生やした。
冗談だと思うなら、メットガラでの彼の写真を検索してみて欲しい。
エズラくん、とわたしや友人たちは呼んでいるのだが、もうそんな気軽には呼べないくらい、彼は日々進化している。正直、凡人のわたしにはそのセンスが理解できないことも一度や二度ではないが、何だかすごいのは分かる。
彼を見ていると、性別なんてものに縛られているのがバカバカしくなってくるのだ。
そもそも、性別とはなんなのだ。足の間に棒と玉がついていれば男で、穴が空いていれば女なのか。
その程度の差で、着るものや、働き方や、社会での役割まで決められねばならないのか。身体的な特徴以外に、どうやって「女」か「男」を分けるかなんて、本当は誰にも分からないのではないか。
国籍だっておんなじだ。どこで生まれたか、でとりあえずは「何人(なにじん)」か決まるけれど、実際はそんな単純なものではない。
どこの言葉を喋るのか、どんな文化で育ってきたのか、どういう見た目をしているのか。
人間は食べたもので出来ていると言うから、もしかしたら何を食べてきたかが一番重要なのかもしれない。
だったら、消化が済んで体から出たものは、例えば「日本人の便」とか「イギリス人の便」とかに分けられるのだろうか。
消化が完全に済んでいない場合はどうだ。吐いた物のどこまでが自分になるのだ。わたしが吐いた、日本人の便になりかけていた未消化の食べ物は、いったい何人なのだ。
体から出た、という点で言えば言葉も一緒である。
日本人の口から出た言葉は「日本人の言葉」で、アメリカ人の口から出た言葉は「アメリカ人の言葉」になるのか。
そんな馬鹿げた話があってたまるか。便は便だし、言葉は言葉で、そこに女も男も日本人もベトナム人もイタリア人も関係は無いはずだ。
女が言ったことだから、とか、〇〇人が言ったことだから、とか優劣をつけようとするのは、道端にひっかけられたゲロを観察して「これは△△人のゲロに違いない。であるからして〇〇人のゲロよりマシだ」などと評しているのと変わらないのである。
我々がこんなみみっちい事に気を取られている間に、エズラくんには目が七つ生えた。友人に言わせれば、もう「魔人」である。人間なんて枠からすら飛び出てしまった。
わたしの目はまだ二つのままだ。