八神マキノ、青森四姉妹を調査する(後)
4、宗像三女神
八戸(名久井)工藤は、犬房丸の血筋であるという。
彼らは津軽黒石に進出することを望まず、八戸・名久井方面に引き返して、一族存続の道を捜した。
たとえば、八戸の蕪嶋神社は、犬房丸と関わりがあり、弁才天(=宗像三女神)を祀っている。
蕪嶋のあたりは八戸藩唯一の港だったというから、航海を守護する女神を祀るのは、当然のことともいえる。
ただ、この神社の創建は1296(永仁4)年と伝わっていて、まだ幕藩体制における八戸藩・南部藩が成立する以前から存在していたことになる。
つまり、根城南部や名久井工藤が、八戸の漁労民たちの生活に馴染もうとする際、彼らの信仰に自分がよく知っている神々の由緒を付け足すことで、なんとかこれを理解しようとしたものとも考えられる。
そして当時の八戸の人々も、これを歓迎したのではないか。
「貴方たちがお祀りしているのはとにかくスゴイ神様だ。我々が費用を負担するから、社を立ててそこにお迎えしよう。一緒に拝もうじゃないか」という流れである。工藤氏は「木工助の藤原氏(=藤原為憲)」から出ているので、材木を集めて社を建てる技術については、一見識あったはず。
その時、神社の縁起に犬房丸の話が混じっても、それぐらいは寺社の創建に携わった者の特権として、黙認されたのだろう。
名久井工藤は工藤祐経の裔なのだから、当然「平氏に仕えていた官僚的な武家の裔」ともいえる。
「だから彼らは厳島や福原(=神戸)で信仰されていた宗像三女神を勧請したんだろうな」とPは言った。また、「犬房丸流の工藤氏は、外ヶ浜で善知鳥(うとう)神社のことを知って、宗像三女神信仰が青森で受け入れられやすいと考えたのかもしれない」とも。
要約すれば「名が体を表わすとすれば、棟方愛海は宗像三女神の神社とご縁がある血筋だよ」というのが、彼の言い分だった。
この女神たちは本来九州の宗像/胸形氏が祀っていたものだが、海路の旅を保護する御利益から、平氏の交易拠点である福原でも尊ばれた。
そして仏教化したサラスヴァティーであるところの弁才天と、いつのまにやら同一視されたものという。
「関西には九州から出てきた人も多いし、六甲山頂では今もこの三女神を祀っているという話だな。桃華ちゃんとかそのご家族に尋ねてみれば、面白い話が聴けるかもしれない」
「その線をつきつめると、棟方愛海は平家の庇護を受けた航海者の末裔ということになるのかしら」
「わからない。ただ、戦国時代が終わるか終らないかという頃に、関西から来て青森に移住した人々のひとりが彼女のご先祖様だという可能性は、高いように思う」
「私の調べによると、1591年に宗像から外ヶ浜に移住して津軽藩に仕えた人物がいて、その子孫が現在の棟方さんだという話があるのだけれど――貴方の説はそれとは別?」
「……やっぱりマキノは調べてるな、いろいろと。あ、説としては一応、別物になると思うよ。移住してきたのがその人だけなら、愛海のご先祖様と推定していいんだろうと思うが……そもそも西で大事件があってさ。
つまり、毛利元就が厳島で陶晴賢を討った後、宗像氏自体も毛利氏に従うことになった。これは宗像氏にしてみれば、陶氏から解放されて一息つく間もなく大友氏との戦いに駆り出されるということだ。そこで先見性があって戦にうんざりした船乗りが、一人とは限らず、別の港で食っていこうとしたと考えてみてくれ」
彼の言うところによると、海の交通路に詳しい棟方が知る青森の港は、八戸や外ヶ浜(陸奥湾沿岸部)に限らなかった。そうして海とお山が近くて夕陽に映える(=西海岸の)景色を気に入って青森に定住した一族の末裔が、愛海かもしれないという。
「個人的には鯵ヶ沢あたりの港から、岩木山や白神山地に向かったんじゃないかと思うね。あるいは山伏と意気投合でもしたのかな?」
「不確かな話すぎるな……もう一度尋ねるけど、そう考える理由は?」
「うーん。例によって大浦為信の影響といえば恰好はつくかもしれない。彼が来てから、鯵ヶ沢は津軽の玄関口として栄えたって話だ。
為信の人柄について面白い話はいろいろあるが、人脈をみると秀吉とか三成に取り入ったタイプといえる。そのおかげもあって、鯵ヶ沢は大坂や瀬戸内との交流が盛んだった。そっち方面から人が来てるんだよ。なんて言ったっけ……西廻航路とかって呼び方だったような」
Pはやけに鰺ヶ沢にこだわるが――そこになにがあったというのだろうか。私は過去の情報を手掛かりにして、その答えを捜した。
「ああ。もしかしたら、愛海が七海を津軽のじゃっぱ汁で元気づけたのは、そういう背景に拠るものだっていう話?」
「そうそう、そういうこと」
「でも貴方の情報に従うなら、ゆかりは八戸の人なんでしょう? 八戸と津軽の文化は別だと聞いた気がするけど」
「うん。そのへんの原因は津軽藩・盛岡藩の対立だけでなく、その境界が奥羽山脈の東西でわかれてしまったところにもあるようだ。この山脈は、雲の流れや雨風のご機嫌なんかを、東西で全く別のものにしてしまう。フェーン現象とかやませが地政学的な見方に及ぼす影響力云々という話については――どうだろう、興味ある?」
「貴方のことだから、オミットできると判断してそう訊ねたんでしょうね。……なら、今日のところはオミットしましょう。時間が許せば、またモノの本に目を通しておくわ」
「オーケー。それで、まあ山の東西で気候や文化が別といっても、水本家は笛のつながりで根城南部と懇意にしてきた経緯がある。だから、そちらの母方の黒石工藤から津軽式のもてなしをうけたことだって、何度となくあったに違いない」
「はぁ……なんとも。いずれにせよ棟方某さんが津軽に現れたのが為信公の時代だったとすると、工藤忍の一族はその頃まだ黒石にいたかも――という感じかしら。直接の面識はなさそうね」
「そんなところかもな。まあ今はユニット組んでるけど。奇跡かしらん?」
「組ませたのは貴方でしょう」
「おっしゃる通り。歴史にifがあるとしたら、誰でもその分岐点を自分の手許にたぐりよせたくなるもんだよ。マキノはそう思わないか?」
「……歴史のif、ね……。見ようによっては、貴方自身が歴史のifなのでは?」
「まるでRPGのラスボスみたいな評価じゃないか、おいおい……」
この男はやはり、自分の正体以外にもなにかを隠している。
「いわゆる特異点呼ばわりかと思うと、グラン君みたいでもあるよね」
たいしたことを隠しているわけでもないなら、いいのだが。
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5、浅利七海と1564年のライブ
それから数日後。ふたりきりになる機会を見計らっていたものだろうか、彼の方から私に話しかけてきた。
「マキノって最近、おれのこと避けてない? こういうの傷つくなー」
「そう? お互いに多忙なだけだと思うけれど。こちらとしては調べなければならないことも増えてしまっていたし」
「ふーん。商売繁盛だね。ま、それなら良かった! って安心しちゃうのがおれのKawaiiとこだよ、うん」
「椅子に腰かけた貴方を上から眺めてみると、そうね、kawaiiのかもしれないわ」
「ゆかりもメアリーも楓さんもみんなそういうけど、おれの頭のてっぺんには何があるんだろう……天使の輪かな?」
いいえ、寝癖です――と、私は心の中で答えるのだった。
* * *
北畠顕家や南部師行とともに出陣した工藤貞行は東北に帰ってこなかったが、かといって跡取りとなる男子もなかった。ゆえに彼が切り取った津軽の領地は、彼の妻や娘たちに託された。
その娘のひとり・加伊寿御前の夫となったのが南部政長の子・信政で、孫の代にあたる信光・政光兄弟が、両家の遺領のほとんどを併せて継承した。
ただし七戸や黒石あたりは、根城南部の嫡流・八戸氏のものとはならず、貞行の娘たちや傍流・七戸氏(政光の子孫)のためにとっておかれた。この地に暮らした工藤氏が、P曰く工藤忍のご先祖にあたる。すなわち黒石工藤氏である。
工藤・南部連合は、14世紀後半頃に、津軽曽我氏を滅ぼした。ねぷた祭りの題材としても有名な武将・曽我貞光などは、この津軽曽我氏の庶流から出て北朝方で活躍した人物で、工藤・南部と互角以上に渡りあったことで知られている。しかし彼らの衰退は、後に大浦(津軽)為信が頭角を現すための前提条件のひとつともなるのだった。
「そのあたりは私も下調べを済ませてる。それより、いつまで経っても浅利七海の名前が出てこないのがね」
「……あ。もしかして、ちょっとイライラしてます?」
「少しぐらい手こずるからといって、負けを認めるのは私のキャラじゃないわ。ただ、知りたいことにあっさり辿りつけていないことも確かね」
「なんだよ。もう七海ちゃんとなかよしで、知りたくて仕方なかったのか。それなら早く言ってほしかったぐらいだ」
「なかよしというところまで行っているかは彼女にも尋ねてみないと」
「明らかになかよしだよ、その反応。うわー。おれの正体とか、もうどうでもいい感じだし」
「……寂しがりなの? 最後の〆にとっておくと言ったのは、貴方自身だったのでは」
「いわれてみれば、たしかに」
「責任とって、あらいざらい話すことね」
「それはもう、確かに、お約束します。というかね、タイミング的にはやっとこのへんで、浅利の名前を出せる段階に入った感じなんだよ?」
実を言うと、浅利氏は源平合戦の頃から、歴史にちらほら姿を見せる。
浅利与一義遠というのがその武将で、壇ノ浦の戦いでは「十四拳の箭」を用いて義経の指揮下で戦い、「三与一」と呼ばれるほど活躍した。後には、頼家の力添えで「巴御前とならぶ女傑」といわれる板額御前を室に迎えている。
ふたりの子孫は甲斐に所領を持っていて、甲斐浅利氏というのだが――これがまた、加賀美氏や南部氏の拠点のすぐ近くらしい。それも当然、義遠は甲斐源氏として有名な武田信義や安田義定の弟(壇ノ浦の時点では安田義遠を名乗っていた)であって、つまり加賀美遠光の三男である南部光行の親戚にもあたる。
浅利義遠もやはり、源平合戦だけでなく、奥州合戦にも参加した。その功績を評価されて比内に領地を認められて移り住んだのが、浅利氏庶流の比内浅利氏だという。
ところが南北朝時代になって、なぜか顕家から所領を安堵されなかった比内浅利氏の六郎四郎清連は、曽我貞光と一緒になって北朝方に鞍替えした。そして鹿角郡をめぐって成田氏と戦ううち、南部氏をも敵に回してしまったのである。
これは比内浅利氏が、南部・工藤連合と津軽曽我の戦いに巻き込まれてしまったことを意味する。彼らは津軽曽我の側について、一応は血縁関係にあるはずの南部と泥沼の戦いをしたということになるだろうか。
その後、津軽曽我が滅びようと南北朝が合一しようと、もはや比内浅利は南部に心を開くことができなくなっていた。
以降の比内浅利氏は安東氏に接近して、安東愛季にいいように翻弄されてしまう。具体的には、当主・則頼を暗殺されたうえで、先に生まれた側室の子・則祐と、後から生まれた正室の子・勝頼のお家争いを煽られた。
それで比内浅利氏最後の当主といわれる勝頼の子・頼平は、新たに力をつけつつある勢力――大浦為信を頼ったのだという。為信の人脈を借りて、秀吉に仲裁してもらうつもりだったらしいが、しかし頼平は結局、比内を確保できないまま、交渉のための上洛中にこの世を去っている。
こうして比内浅利氏は瓦解した。16世紀末のことである。
「その瓦解した一族の生き残りの中に、青森に逃れた人物がいたことになるのかしら。向かう先は、そうね――当時の安東氏の勢力圏だった深浦以外のどこか。鰺ヶ沢までたどり着ければ、あとはどうにか……?」
「うん、まあな……しかしどうも七海は、頼平以前の代で鰺ヶ沢に向かった人物の子孫なのではないかと、おれは睨んでいる」
「というと? 時期が限定できているなら、そこから浅利某の名前を特定するまで、あと一歩のように思えるけれど」
「当時の記録があまりないんだよ。七海の先祖は家を滅ぼされた側なうえに、比内浅利氏の嫡流でもないようだ。ギリギリ辿れる範囲では、則祐には同母妹がいて、彼女が重要人物ということになる。そこまではわかるんだが――」
「そう……残念ね」
記録が乏しいうえに母方の血筋を追跡しなくてはいけないのなら、それが困難なことは想像に難くない。なにしろ婦人の名前が明らかにならないことも多い時代だったのだから。
「彼女の夫は婿養子として一城を任されたこともあったが、義兄の則祐が安東氏と勝頼に攻め入られて自害したことを知ると、妻を残して出奔した」
「戦国時代にはありうること……そして彼女自身も歴史の闇に消えたということかしら」
「うん。だが彼女も板額御前の血を引く自覚ゆえかタフな女性で、世を儚んで自害するようなことはなかった。そこがひとつのポイントでな――つまり彼女は、ある手がかりを元に夫を探しだそうとしたようなんだ。失踪した夫は、鷹狩りに一家言ある男だった」
失踪した夫が生活資金を得るためには鷹を処分するのが手っ取り早く、その取引が盛んなのは津軽だと推理した……というような流れだろうか。
「ハードボイルドミステリにありそうな話ね。それで彼女は、鷹の名産地である津軽を目指したというの?」
「記録はみつからなかったが、米代川を下って鰺ヶ沢へ向かったんじゃないかと、おれは考えている」
鯵ヶ沢、ひいては現在の津軽の礎を築いた津軽為信は「乱世の梟雄」とでも呼びたくなるような人物である。
南部氏の庶流で津軽方面を任されていた大浦家から出て、さらには中央で近衛龍山公に袖の下を贈り、秀吉の義兄弟に当たるような系譜を作ってもらったりした――とか、そういう話だ。
石田光成を介して秀吉に鷹を献上するなどさっさとすり寄って、大浦の本家筋である三戸南部氏に先んじたというのもちゃっかりしている。根城南部氏の方は時流に乗れず、三戸南部氏の家臣となって遠野(『遠野物語』の、あの遠野)に移封されたというのに。
とにかくこの為信、いやなやつというよりは「乱世にへこたれるどころか水を得た魚になった」という感じの人物で、全く憎めない。
「これは余談になるかもしれないが、根城南部が遠野に移封された理由には、及川雫のご先祖さまもちょっと絡んでたりする」
「はい?」
「及川氏は源頼光とか源三位頼政の血筋だ。頼政公は以仁王をお救いしようとして志半ばに倒れた人だが、馬場頼政とも名乗っている。その馬場氏の分家が及川氏で、頼朝が幕府を開いた後、一部が奥州総奉行・葛西清重の家臣になって東北に根を張った」
「……? 話が見えないわ」
「なるべく手短に説明しよう。そもそもは頼朝に認められ奥州に名を馳せた葛西氏も、戦国時代の末ともなると、足利氏からでてきた斯波氏あたりと争って苦しい状況にある。それで秀吉の小田原征伐に参加できなかったんだ。
所領を安堵されなかった葛西氏はさっきまで争っていた斯波氏のうち、かつては奥州管領だった大崎氏と同時に一揆を起こしたが、これが要は伊達政宗に唆されて、蒲生氏郷にぶつけられる感じだったわけだな。
結局、氏郷はこの策を看破したから、政宗は上洛してまで秀吉に申し開きをした。それでまあ、秀吉の方も政宗に『落とし前はきっちりつけとけ』みたいな感じに言い含めたもんだから、必死こいた政宗の軍勢に攻められた葛西・大崎は、ひとたまりもなく滅ぼされてしまった」
「どこまでも報われない話ね。それで主君を滅ぼされた及川氏は、武士を辞めたということ?」
「そう、一部は帰農した。でも全員がそうというわけじゃないんだよな。葛西氏は基本的に南朝方だったから、顕家の弟・顕信を擁して南部政長と共闘したことがある。その筋を頼って南部氏の家臣に組み込まれた及川氏もいたんだが、とにかく奥六郡――現代でいうところの北上川流域・盛岡市から奥州市にかけて――は戦火でボロボロの大混乱だ。戦のことを考え続ける者もいれば復興を考えるものもいただろうし、雫の祖先は後者だったように思う」
「Pが唐突にいい話っぽいことを言い出した時は要注意だと、私は思ってるわ」
「信用ねえなあ。まあ、復興だけ考えたって埒が明かないというのも確かさ。なにせそれまで葛西氏が支配してた土地に入ってきたのは政宗だよ? 南部氏も警戒せずにはいられないし、直後に九戸政実の乱が勃発する」
「九戸氏も南部光行を祖にした一族で、南部氏の家督相続に絡んでいたという話だけど……ああ。それで根城南部を」
「多分な。秀吉にのっかって九戸氏の脅威を排除することは、別に三戸南部氏にとっての安泰を意味しない。むしろ三戸にしてみれば、家督争いの収束とひきかえに、ノークッションで為信と政宗に挟まれることを選んだような状況だろう。実際、関ヶ原の戦いの真っ最中にも伊達からちょっかいをかけられて、花巻に詰めていた北信愛が気を吐いている。
それでいろいろ考えた結果がおそらくは『伊達氏と一緒に南朝を守ってた経緯のある根城南部が伊達氏の近所に回るべきなのでは?』っていう……多賀城や霊山城の強み・弱みを知ってるし、その方が伊達の手の内もわかろうというもんだ」
「そして、いざとなれば北上高地から兵を出せるように?」
「ああ。またぞろ花巻に攻め入ろうもんなら、山から遠野南部が逆落としだな。旧縁をアピールしつつ穏当に睨みを効かせるのは悪くないが……さすがの政宗も『年を食ってからは丸くなった』と自分で言っている。
んで、こういう状況下にあった盛岡藩に、徳川家光が『いわくつきの坊さんを預かれ』といってきた。なんでも対馬では勝手に朝鮮との国交を再開していて、この問題と関連した一時預かりだったらしい。坊さんの名は方長老といって、例の三女神崇拝の本場でもある宗像出身だ。数十年後に赦免されて南禅寺に戻ったが、それまでは盛岡で噂の人というわけよ」
「……ちょっと待って。それはどことどう繋がる話なの」
「うーん、そうだな。この話はふたつの断片的エピソードと繋がっている。まず第一においかわ牧場とだ。南禅寺に戻ったってことでもわかるが、この坊さんはかなりの知識人で、盛岡に茶の湯を流行らせた。南部鉄瓶が発達したのもそのおかげだというが、それだけじゃなくって牛乳を飲むことも流行らせたとかなんとか――なんだよマキノ、ポカーンとしないでくれ」
「呆れもするでしょう、そんな話……。つまりおいかわ牧場の起源は、南部藩に仕えた同じ及川氏から『方長老のお墨付きだし、流行るぞこれ』といわれた雫のご先祖さまが、『なるほど、ウチでもやってみるか』と牛乳を搾りはじめたのがきっかけです――みたいな」
「さすマキ」
「は?」
「『さすがマキノ、話が早いね』っていう意味の造語だ。おれが発明して、今年も流行語大賞に推している」
「去年も推していたの……?」
それで、この話の落ち着く先はどこだろう――と思っていた私の手許に、Pは多少しらじらしい素振りで、一葉の写真を滑り込ませるのだった。
「そんな牛乳のメッカ・盛岡に、おいかわ牧場の牛乳を使っているホテルのカフェがある。ここで雫とゆかりはすれ違っていたらしい。お互い名乗りあったわけではないそうだが、二人の話を聞くと、どうも状況が一致する」
「これが水本家の……?」
「うん。ゆかりとゆかりパパだ。水本家は根城南部あらため遠野南部氏の末裔と、いまでも繋がっているんだな。そのカクテルパーティーにゆかりを連れて、盛岡に来た時の写真がこれだ」
「……誰が撮ったのよ……」
「おれたちとは関係ないご家族の浮気調査写真の背景に映りこんでいた――というとロマンがないか。念写ってことにしてくれ。ムムムーン、って感じで」
むむむーん、ね……。私は肩をすくめた。
「そして第二の断片は、比内浅利氏に婿入りした後、義兄が自害に追い込まれるのを見て失踪した例の人物だ。結論から言うと、彼は蒲生氏郷の鷹匠になっていた。名を浅利及蘭という。及蘭はつまり《じゅりあん》の音を写したもので、高山右近に影響されてキリスト教の洗礼を受けたらしい」
「……妻の側では鷹を売ったと思っていたけど、鷹を売らずに生業にしていたのね」
「妻にとっては残酷な話だな。自分は捨てても鷹は手放せなかったのかと。しかしどのみち、ふたりが顔を合わせる機会はなかった。浅利則祐が自害したのは1563年、浅利及蘭が氏郷に率いられて奥州に戻ったのはそれより二十年以上後だったからだ」
「現代でも7年以上行方不明なら死亡届が出るわね。その間に何があったか、貴方は突き止めたの?」
「……幾分かは。実は及蘭が妻を棄てて失踪した理由のひとつは、妻がかつて安東氏に嫁いでいて、夫と死別した後に及蘭と再婚したことだった――彼は妻の周辺に安東氏の内通者がいることを知ったが、それがあまりにも妻と親しい人物だったので、追い出すこともできない。だから自分が逃げるだけで済ませた」
つまりそれは……乳母や爺やといった存在だったということか。
「実は妻の側で、夫よりも内通者を選んでしまっていたと?」
「そこまで悪くいうつもりはないよ……。ただ、『妻と連絡を取らずに姿を消してキリスト教に改宗した人間が、二十年以上後になって妻の実家に仕官先を紹介した』という話をわかりやすくはしてくれるだろう。そうして比内浅利氏の生き残りは、配置換えで秋田にやってきた佐竹氏の鷹匠になったらしい。
及蘭の妻――つまり浅利則祐の妹については、甲斐浅利氏の某と出会って駆け落ちしたのじゃないかと思う。この逃避行によって内通の心配はなくなったとも言えるわけだが、かつての夫婦にあった縁については、もう元には戻らない」
「比内浅利と甲斐浅利が出会って、その子孫が七海だと貴方は言いたいのね」
「そうだ。ふたりの男女が、お互いが棄てた家の名を、お互いで拾いあったんだろうと思っている。もはや比内でも甲斐でもない、新しい浅利だな」
「甲斐浅利氏の話は、ほとんどしていないわ」
「南部と工藤の話だけで普通に手いっぱいだったからなー。ただ、甲斐浅利氏の中に『武田信虎から離れて津軽に流れ着いた』という人物がいる」
「……ややこしそうな名前が出てきたものね」
「おれもそう思う。ところで、甲斐に浅利虎在という男がいた。彼は信虎の妹の婿にあたるが、まあ、ざっくり義弟といえばいいか。このふたりは相性抜群の主従だったものの、浅利虎在の子と信虎はどうかというと、多少覚束ない。世間一般では、晴信が信虎を追放したとまでいわれてるからな。それで、晴信についたのが虎在の嫡男・浅利信種だった」
「思わせぶりな言い回しね。晴信ではなく、信虎についた子もいたということ?」
「うーん。どちらにもつかなかった子がいて、どちらにもつかなかったがゆえに、歴史の本にはほぼ出てこないわけだよ。名はたしか……浅利義益だ」
「貴方はその人こそ七海の先祖だというのだから、真実味のない話だわ…」
「しかし考えてもみてくれ。武田信虎というのがそもそも熟練のスパイそのものみたいな男だ。南部光行とは別の資質によって、忍びの者として優れている。汚名もなんのそのだが価値観と目的を持っているという生き方に、鳥肌が立つ凄みがあるんだよ。マキノにもちょっとアレは真似できないだろう。真似させたくもないがな」
「……貴方、もしかして私の評価ポイントを稼ごうとしている?」
「してません。本心ですよ。で、そのスパイが甲斐国外で自由に動けるきっかけを作った追放劇を、今川義元というインフルエンサーの前でやってのけたのが晴信だ。さて『親子の仲が悪かっただけだ』と、バッサリ切り捨てるのは気が早くないだろうか」
「……さあ……それは一考に値するかもしれないけれど、そこまでの話でしかないと思うわ」
「信虎は浅利信種を評価した。だが同時に信種の才能を諜報活動に不向きなものだともみなしていたんだ。つまり、彼は日向に生きるべき人間だとな。
だから信虎は、彼を自分ではなく晴信につけてやりたいと考える。晴信の方でも上杉や後北条との戦いで消耗した戦力を補いたいはずだし、もってこいのタイミングだ。とはいえ、外部から『父子の連携がうまくとれている』と察されるのは少々面白くない。
さあ、マキノならどうする? ……とまあ、ここからは少し、そういう話になるのかもしれないな」
京都扶持衆、というシステムがあった。
鎌倉公方に対抗して、室町幕府将軍に直接仕えた関東・東北の武家をひっくるめた呼び方である。
その中には武田、南部、伊達などの錚々たる面々が名を連ねている。
武田といえば騎馬隊と忍者、という人がいるなら、規模の大小こそあれ、南部や伊達についても同じことが言える。
そもそも南部氏の初代・光行が八戸に来た時の話からして、義経の消息を確かめるための諜報活動として説明可能なのだった。
そのうえ武田信虎は八戸信長(根城南部氏の元当主)と笛を通じての知己でもある。
既に家督を譲ってご隠居といえる身分(のはず。70歳前後?)だったふたりは、上洛して将軍・義輝の前で笛の腕前を披露した。
特に八戸信長はこの日のことを生涯の喜びとして、七戸氏にいろいろ報告した手紙が今も残っているそうだ。
スパイとして振る舞う術を心得たうえで笛にも通じる二人が、この時京都で何を調査し、何を仕掛けたかを探ることは、もはや難しい。後に義輝殺害の現場となったいわゆる武衛陣のことか、あるいは三好長慶、織田信長、上杉謙信の動向を探るためだったか……「憶測の種には事欠かない」以上のことははっきり言えそうもないのだ。
しかしこの歴史的なコンサート会場に居合わせなかったまでも、一部始終を見届けた人間として、三人の人物を挙げることができる――というのが、Pの主張だった。
ひとりは水本。
ひとりは工藤。
そして最後のひとりが、このことについて今語っているP本人である。
「今考えるとちょっと惜しかったよなー、アレ。生で見たかった……」
「生で見なかったなら、何で見たというの」
「千里眼パワーってやつだよ。幕に投影して、水本と工藤にも見せてやった。世界初のライブビューだな、わはは」
私はひとまず眼鏡を外して、ここ数日の調査に疲れた目をいたわるように瞼を閉じ、目頭を揉んだ。
「やっぱり貴方、不老不死だったの……。Pとしての名はいうなれば隠れ蓑で、正しくは源九郎判官義経――と呼べばいいのかしら」
「ご名答だが『隠れ蓑』ってことはないよ。実際に現在はPだ。だってさ、おれもああいうライブ開きたくって」
「はいはい」
「酷いぞマキノン。反応が理知的というより事務的だ!」
「衣川で焼き討ちにあって死にかけた時に、鞍馬山で修行した力が目覚めたということかしら。信じがたい非常識だわ」
「常識はあくまでも常識でしかない。理不尽な死地にあってこそ目覚める非常識なパワーも、世の中にはあるのだ……!」
何を思ったか、義経Pはオーディオの電源をONにして、アイドルソングらしきものを再生しにかかった。
死んでも夢を叶えたい……いいえ、死んでも夢は叶えられる!
後で検索にかけて知ったところによると、曲のタイトルは『徒花ネクロマンシー』というらしい。何にせよ、他所の芸能事務所の楽曲であることはわかりきっていたので、私は以下のようにPをたしなめた。
「そういうモットーを個人で持っているのは構わないけど、あんまりハメを外しすぎるとちひろさんがね」
「あ、はい。どこかの線で自制を心がけるようにします」
この件に限らずなにか思い当る節があるのか、義経Pは途端に大人しくなった。私は眼鏡をかけなおす。
「……それで貴方は南部光行に追われつつ衣川から八戸に落ち延びて、水本家のお世話になった」
「うん。光行のやつ、マジでしつこかったぞ……でも、水本のご主人が間に立ってくれてな。それでどうにかこうにか」
「工藤貞行まで不老不死にしたのは、どうして?」
「え、だってそうしてやってくれって頼まれたからさ。師行とか顕家あたりからも熱心に。ノリ的には『我らの生きざまを語り継いでくれ』――みたいな? でも、おれはおれでやりたいことがあって忙しいというか」
顕家は石津の戦いの直前に、後醍醐帝を諌める文書を奏している。そういうこともあって、見届け人が欲しかったという話はわからなくもない。ただし、他に考慮しておくべき事情があることも、既に私は察していた。
「そうなの? またてっきり、工藤祐経の子孫の頼みだったから断りきれなかったのかと思ったわ。借りを返すとか、そういう男の世界の話で」
「うっ……なんでそんなのわかるの?」
「『祐経は頼朝を逃すために、自分の死を受け入れた』という貴方自身の言葉を、私は忘れていないわ。
加えてもうひとつ、有名な話があるでしょう。静御前が鶴岡八幡宮で舞った時に伴奏で鼓を叩いたのは、祐経だったって」
「それはそうかもしれないんだけど、祐経が憐れみをかけたのは――いや、やめとこうこの話は。やりづらいな、微妙な心理を指摘されちゃうとさ」
「……気に病む必要はないと思う」
「はい?」
「兄との関係修復を願って箱根権現におさめた貴方のかつての佩刀は、曽我兄弟の手に渡って、祐経を斬った。貴方はそれを止められなかった。けれども、その事件について貴方が罪悪感に囚われなければならない論理的な理由はなにもない――ということを、私は指摘しているのよ」
名刀・膝丸は源氏重代の宝刀であり、かつて頼光の手にあっては蜘蛛切、八幡太郎の血筋が継いでからは吠丸の名で伝わっていた。それを源平合戦では義経が佩いて、薄緑と呼んだのだという。
800年以上も生きた男が泣くのを初めて見たが、私は自身が伝えた言葉を撤回しようとは、かけらも思わなかった。
* * *
「それで? 貞行さんは故郷に帰らず、関西で何をしていたのかしら」
「『神皇正統記』とか『太平記』とか、あのへん偽名で広めてるうちに、気が付いたら百年経ってたみたい」
「それはちょっと……呆れてしまって、言葉が出てきづらいというか……妻子が泣くのでは」
「あ、そういう話ね。いろいろ事情があってな。そのへんは」
義経Pは苦笑いしながら頭を掻いた。
「曽我兄弟の仇討の話の続きになるようだが……そもそものきっかけは、重盛に仕えていた祐経の上洛中に起きた不祥事にあるって話はしたよな」
「ええ」
「貞行は、なんとかその時代の京における工藤の政治的コネを修復できないかとも考えていた。太平記を広めるためだけに、京に潜伏してたわけでもない。西園寺とも秘密裏に、いろいろ情報をやりとりしてたようだ」
「どういうことかしら……」
「考えてみてほしいんだが、黒石で工藤がやっていけなくなったらどうすればいい?」
「……また別の土地に移る?」
「うん。今風にいえばフェイルセイフってやつだな。貞行のやつはこのふたつを同時進行でやろうとしたが、そのうちあることに気付いた――何年経っても、自分の容姿が変わらないってことに」
「……えっ。そのタイミングで、そこに気付くものなの?」
「ああ。わかってやっていることだと思って修行をつけてやったんだが、やつは本当の意味では、まだわかっていなかったんだ」
義経Pはどこか寂しげに、ポツポツと喋り続ける――最初はそのように見えた。
「貞行のやつ、自分が老けないことに気付いてからは、あんまり滅茶苦茶に根を詰めるもんでな。そんなこんなもあって、おれは息抜きにどうかと思って『笛のライブあるから見ようぜ』って誘ったんだ。それが武田信虎と八戸信長の笛ライブだった。もし現代にあいつらが蘇ってユニット名つけるとしたら……まあ、ダブルノッブってところだな。いや、ノブノブツイン?
当時の水本家の当主も八戸信長に連れだって京まで来てたから、よっしゃーってテンション上がったのを今でも覚えてるよ。打ち上げなんかもう、呑むわ歌うわ。そしたら貞行が鼓を構えるだろ? 後はおれと水本で笛を重ねるしかない」
寂しげどころか、テンションが上がる前の溜めでしかなかったようだ。
「歴史家には話せないどころの話じゃないわね、これは。謝らないといけない方面が多すぎる……!」
「えー。なんで? いい話じゃん」
「貴方が楽しかったこと自体は伝わってくるわ。それでこの時代に及んで、とうとうPにまでなったんでしょう」
「うん」
実を言うと、今のはちょっと否定してほしかった流れかもしれない。
「後から紗枝はんのご先祖も遊びに来たよ。『夜も更けますのに賑やかで、元気がよろしゅおすなあ』って」
「京の人としては、騒音で眠れなくて怒り心頭に発していたのかもしれないと思うけれど……というか、どなた? 名のあるお方だったのかしら」
「あるもあるある、小早川隆景だな」
「……はい?」
「毛利元就の三男――というより、例の《三本の矢》の話を聴かされた三兄弟のひとりといった方がわかりやすいか」
元就の長男が毛利隆元で、次男が吉川元春、三男が小早川隆景である。
この三兄弟が大内・尼子・大友という顔ぶれとどのように渡り合ったかはそれだけで十分面白い話だが、今回の件とは関わりがないので割愛する。
ただし、元春がその陣中にあっても『太平記』を愛読し、書写していたという事実は、注目に値する。
これがいわゆる吉川本太平記で、ほぼ全巻揃っていることから、今なお重要な資料らしい。
では、吉川元春が筆写するもとになった『太平記』はどういう流通経路を辿って彼の手許に届いたかというと――おそらく弟・隆景から手に入れたものだろう。
義経Pは「貞行グッジョブすぎるな! 機を逃さないダイマができるスゴイやつだ、あっはっは!」で済ませた(呆れた話……)。
「小早川隆景といえば、時の天下人からみても五指に入る切れ者だったわけでしょう? 貴方、そんな有力者と一悶着あったというの?」
「まあ、一緒に酒呑んで一緒に演奏したら、だいたいノーカンだろう。粋で優雅な宴ってやつさ」
「南部光行ともそうやって打ち解けたのね。……というか、小早川紗枝は毛利氏の子孫だとか、そんな話は聞いたことがないわ」
「そうかなあ。……そうかも。たしかにおれ自身、吹聴してきた覚えがないといえばない」
「きちんと。わかるように」
「うーん。正確に言うと、おれの先祖にあたる八幡太郎義家の軍略の師匠が大江匡房で、その曾孫が兄貴(=頼朝)の知恵袋の大江広元だ。
毛利はその広元の四男・季光の流れだな。三浦一族ともども宝治合戦で討滅されたが、越後に一族の生き残りがいたっていう。ここまではわかる?」
「ええ。日本史でみかける名前だわ」
「季光というのは目端が利くというか、さすが戦略家・大江の出だけあってか彼我の戦力差を見抜く目に長けていてな。たとえば承久の乱の時には、兄の大江親広でさえ朝廷にひれ伏したのを知りつつ、京に攻め上ったような男だ。それが宝治合戦の時は『時頼が勝つ』と見抜いたのに、そちらにはつけなかった。さて、その理由は?」
「たしか、三浦泰村の妹を妻に迎えていたから――だったはず」
「正解! 考えてみれば《朝威よりうちのワイフがおそろしい》を地で行く、そんな季光さんだったわけだ。ところでこの季光の奥さんは、三浦泰村の妹であると同時に、他の何者かでもあったんだよ」
「……どういうこと?」
「《曽我兄弟の仇討》のくだりで、『伊東祐親の娘の万劫御前は、工藤祐経から引き離されて土肥遠平に再嫁した』といっただろ? それで、遠平と万劫御前の間には、嫡男の維平とふたりの娘ができた。この娘たちのひとりは三浦義村に嫁いで泰村やその妹を生み、もうひとりの娘は犬房丸こと祐時に嫁いでいる。つまり毛利の祖・季光の奥さんは、三浦であり伊東=工藤であり土肥=小早川でもあるのさ」
遠平以降、毛利氏に組み込まれるに至るまでの小早川氏といえば、嫡流の維平が和田合戦に参加して処刑されてしまったため、平賀義信の子・景平が養子になって家督を継いでいたのだが――
「ちょっと待って。貴方の話が正しければ、土肥遠平と万劫御前は、小早川紗枝と工藤忍に共通する――」
「そう。共通するご先祖様だよ。おれにしてみれば実平・遠平父子は、一緒に源平の戦を潜り抜けた仲だし……まあ、運命が交差しちゃった感が多少なりともあるな」
もはや開いた口が塞がらない。しかし実際この話が正しいかどうかはまだ判断の余地がある。そのはずだ。
「季光の子孫が毛利元就で、『京や安芸の地盤を固めるため、小早川に三男・隆景を送り込んだ』といえばもっぱら政略的な乗っ取りのようにも言われているが、おれ自身は案外そうでもないように見ている。
応仁の乱の時にもたしか――これは元就の祖父の、毛利豊元の代か。毛利と小早川は、東陣で一緒に相国寺を守って戦ううちに意気投合したと聞いている。その後も大内氏との絡みで顔を突き合わせることが多くて、しばらくして小早川氏に嫡子がいなかったタイミングで、毛利から入った奥さんが身内の隆景を連れてきたという流れだったはずだ」
「相国寺、ね。『美に入り彩を穿つ』の歌詞に《墨絵の龍》を出したのも、そういう理由から?」
「千年の歴史を秘めた絵巻物だからねー。……というか、京といえば内緒の話はまだまだいっぱいあるよ?」
「焦らしにかかるとは随分ね……」
「いや、でもこっちは内緒にしてほしいレベルのアレかもしれない。話の出所がおれ以外にないだろうし、怪しすぎる内容だから」
「あなたの正体を受け入れたことで、信頼を得たと思っていいのかしら?」
義経Pは無表情から徐々に満面の笑みに移行して、親指を立てた。……おめでたい人。
「小早川隆景に実子はなかったことになっている。だから秀秋を養子に迎えた。秀秋は関ヶ原でいろいろ辛辣な評価もつけられている人物だな」
「まるで隆景に子があったかのような……そう言いたいのでしょうね」
「むう……さすマキ(本日2度目)。とにかく、系図なり日記なりをひっくり返しても、隆景に子があったと書いてあるはずはない。けどこういう裏が取れない話は、ここまでで既に何度もしてきたと思う。だから今回も同じ処理で頼むよ。信じるかどうかはマキノに任せる」
「……そう。いいわ、続けてみて」
「オッケー。年を食ってから嫡子・秀頼ができた秀吉は、ちょっとおかしくなった。彼も逃れがたく人間だから、よくあることだ。おれは兄貴を許すように、秀吉も許すよ。
ただなんというか、影響力が大きい人間のやることなら、不義理や迷惑の規模は、相当とんでもないことになる。
たとえば秀吉は、養子に迎えていた人材をよそに片付けようとし始めた。
秀吉の養子で、ねねの甥っ子にあたる秀秋もそのひとりだ。最初は毛利輝元におしつけようとしていたらしい」
「完全に乗っ取りよね、それこそ」
「だろう。隆景はこれを毛利の危機と見た。そこで、『自分にも子がないから、是非とも我が小早川の家に』――とやった。秀吉は機嫌をよくしたし、毛利もなんとか救われたことになる」
「……その陰で、生まれていないことになった息子がいたと?」
「いたかもしれない。いなかったかもしれない。今更おれが似顔絵を描いたところで、何の意味もないことだ」
描けなくはないが、描かない――その含みの示すところは、つまり、Pは隆景の子の顔を見たことがあるということなのだろう。そしていかなる系譜にも現れないその人物の顔に今なお深い印象を持つ理由は、Pもある時期、その子を託されたことがあるからではないかと、私には思われた。
「誠実なようで、無責任な話だと思う」
「歴史の闇に消えたおれでは、たしかに責任がとれないよ。ところで紗枝はんの血筋は、他のビッグネームとも繋がっててな」
「あいまいね。つまり誰と関わりを持ったというの」
「いや、あの。賀茂氏の流れで、たまたま『娘はいるが嫡男がいない』って分家があってな。隆景はそこに息子を預けたと考えてくれ」
私は心の中で、次のような訂正を行う――《隆景に頼まれて、義経が》。
「賀茂氏って、あの神社や陰陽師で有名な? できすぎているわ……」
「うーん。まあ紗枝はんの家自体は、神主とか陰陽師ってわけじゃないよ。
ほら、『陰陽師の家柄だけど、自分はお坊さんになりたい!』って理由で、賀茂から名前を改めた人がいただろ? なんか教科書に載ってるらしいし……。そうだ、露伴とか芥川の小説にも出てくる。最近はなんて呼ばれてるのかな」
「……慶滋保胤?」
「そう、その人だ。彼は文章の道ではまず菅原文時の弟子で、似た立場にある大江匡衡と互いの実力を認め合っていた。そしてもうひとり、匡衡の従兄弟にあたる大江定基とも、仏道における師弟関係にあった」
「つまり以前から家ぐるみの付き合いがあったと」
「うん。もうひとついうとこの人、具平親王からみると文章の先生みたいな存在でな。具平親王といえば久我の大臣とか北畠氏のご先祖さまだよ」
「冗談にしても、できるかぎり派手すぎるところをもってきたのは、よくわかるわ」
「川島さんいいよね……おっと脱線しちゃいけない、話を戻そうかな。おれに保胤のことを教えてくれたのは、最近の教科書じゃなくて大江匡房だ。
鞍馬寺で修行してた時代に、匡房が書いたっていう『続王朝往生伝』を読まされてな。そこに出てくるんだけども。
まだガキだったおれが『保胤みたいな人ってマジで世の中にいるんすか』って訊ねたら、天狗さまも大笑いよ。『いるもいないもあるか、ワシなぞはあやつと文通しておった!』って大威張りで、真贋の見分けもつかないような手紙をだな」
「はぁ……」
私としては、歴史上の人物と天狗さまの存在を秤にかけることに、いまだ一抹の逡巡がある。
「んで、保胤はお坊さんになったんだけど、出家する前には妻子を持っていた。これは『池亭記』にも書いてあって間違いないことだが、名前までは書いてないから、おれも詳しくはよく知らない。ていうか、ぶっちゃけ天狗さま御自慢の手紙の中でちらほらみかけた名前はあるんだけど、これって証拠には使えないだろ?」
「使えないでしょうね……ともあれ、その子孫にあたる人物が――?」
「そう。大内記保胤の子孫であり、なおかつ大江=毛利=小早川の子孫でもあるのが、紗枝はんの実家だよ」
「……公表できないような話ばかり……判断を任せるもなにもあったものではないという感じよ」
「スケール大きいから、びっくりした? マジで千年の歴史とは、さすがお紗枝はんよね。流石におれもまだ生まれてない頃からの話だし」
「次に会う時にどんな顔をしたらいいか、今から考えておくわ……それと、思い出してしまったからには訊いておくけれど、この前の水本ゆかりライブにも、貞行さん来てた? ほら、《音色を抱きしめて》のライブよ」
「おう。来てたぞ。ていうか、おれがゆかりをスカウトした時のクラシックコンサートにも一緒にいた。『水本の子孫なら我が娘も同然だ』って」
「いたんだ……」
「まあ感動で咽び泣いてるおっさんは楽屋に連れていけないから、おれひとりでゆかりのスカウトに向かったけど」
「ゆかりが怯えて泣くようなことにならずに済んだのはよかったと思うわ」
「ちなみに、ゆかりのフルート独奏会の時には、おれの方から貞行に警備を頼んでみたりもした。ホールを霊的守護の面から強化してみたくなって」
「警備会社内部のセキュリティはどうなっているの?」
「あ、クレバーなツッコミきたな。さすがにこれはオフレコということで、よろしくお願いします」
小日向美穂っぽくダメダメしないでほしい(美穂Pに叱られればいいのに……)。
「……ちなみに、忍のことはどう思ってるの、貞行さんは」
「ああ。たしか忍が東京に来たばっかりの時『事務所までの道を聞かれて教えたことがある』って自慢してたな。ライブにもおれが誘えば来るし、来たら来たで感情の振れ幅がすごいことになってる。ご両親より激しく泣くなって叱ったことあるぞ。あとは『ネット通販で津軽りんご買って応援したい』って話もしてたような……?」
「顔もメアドも住所もバレてしまうじゃない……バカなの?」
私個人が彼の身元を割った経緯としては、SNSで《音色を抱きしめて》のライブレポを書いていた貞行さんっぽい人(※さすがにご先祖さま目線で忍のライブレポを投稿するのは自粛していたらしい)をみかけたのが先で、実際それが貞行さんだったのかをPに訊ねてみたらその通りだった――というほとんど最短距離を行ってしまっている。もう少し隠すとかしても良いのでは? と多少心配にならざるをえない。
「あんまり酷いこと言ってやるなよ。たまに周囲がみえなくなるだけで、基本はいいやつなんだから。ていうか世間に工藤さんなんて大勢いるんだし、そんなんでご先祖バレする方が難しいぞ。まだまだセーフよセーフ」
「……なんて言ったらいいか、彼の人生はもうそれでいいと思う。私もそちらの事情には口出しを控えるから、そろそろ七海の話に戻りましょう」
「あー、そうだった。どこまで話したっけな」
「たしか、ノブノブツインの笛ライブまでだったかしら」
「なるりょ(『なるほど了解』の意)」
この人、正体を明かしてから完全にキャラクターが変わってきている気がする……。やはりはしゃいでいるのだろうか?
「ノブノブツイン・ライブの夜が明けると、水本は南部と連れ立って八戸に戻り、おれは貞行と隆景を京に残して、他のメンバーと伊勢まで遊び歩いた。その中で信虎や甲斐浅利の兄弟といろいろあったわけです」
「そのいろいろが問題なのだけれど」
「ああ。まず信虎は浅利信種を晴信につけてやりたい。そして信種の弟・義益は広い世界をみたがっていた。駿河の海だけじゃなくて、もっといろいろ見て回りたいと言ってたかな。おれが各地の土産話をしたのも、あいつの好奇心に火をつけた部分があるかもしれないが」
「自由人ですものね貴方は」
「もう少し憧れるみたいな感じで言ってくれる? ……ともあれ信虎とおれは、そういう流れで一芝居打つことにした」
「何の落ち度もない浅利兄弟を追い出すような事件を演出したと?」
「酒に酔ったふりして弟君とふたりで信虎の坊主頭に落書きしてみた。落書きの内容は、その、女性にはちょっと言えない」
「最低すぎる……もう少しヒロイックな理由を用意してほしいものだわ」
「すまんが無理だ。事実は覆らないからな……翌朝、鏡を見た信虎は本気で怒った演技をした。演技だったと思う。そうであってほしい。とにかく、真面目な信種がそれを見て幻滅してくれる程度にリアルな演技だったんだ――そうやっていろいろぶっ壊してやったら、浅利義益は笑って海に出た。いくつも港をめぐって、おれも例の鰺ヶ沢まで一緒に行ったよ。その旅の中で、二つの出会いがあった」
「ひとつは、棟方愛海のご先祖さまね。山伏の正体は、またもや貴方だった」
「そう。途中まで仄めかしはしたけど、よく覚えてたな。甲斐浅利の義益は鰺ヶ沢で比内浅利と称する美女と運命の出会いを果たし、おれは船上でパワフルなおっさん・棟方と意気投合したって流れになるか。船を下りた後に、ふたりの浅利がどう生きたかはわからない――でもきっとお互い幸せにやってたから、今の七海がいるんだと思うよ」
「だといいわね」
「そうに決まってる」
「フフッ……。それで貴方は棟方氏と連れ立って、白神山地へ?」
「そう。棟方のやつ、泊岳(二ッ森)とかめっちゃ気に入ってた。なんというかその、女性美の象徴的なものが宿ってるとかで。その後、山伏時代の知り合いを紹介して適当に山遊びを楽しんでもらおうと思ってたんだが、数日どころじゃない大行脚になってな……。気が付いたら青森の山という山は一通り登ったような有様よ。八艘跳びを教えてやったのがいけなかったか……外ヶ浜、つまりは今の青森市あたりでやっと棟方は山から下りたんだけど、その理由ってマキノは想像つく?」
「うすうすは」
「常陸坊とか山伏連中もひきつれて浅虫温泉に浸かりにいったら、同じように温泉に来てた善知鳥神社の氏子さんたちと意気投合しちゃってさ。後日お参りがてら顔を出しに行ったら、そこが宗像三女神の神社だったせいなのかどうか――」
「ああ。そこでやっぱり例の」
「そう。女性美の象徴的なものが云々」
私は思わず頭を抱えた。やっぱり一度、青森の全県民から一度叱られておくべきだと思う、この人は……。
「そんなことばかりを繰り返して、800年以上過ぎてしまったのね……」
ぐったりする私を尻目に、義経Pはカラカラと笑う。
「おやおや、ガッカリさせちまったかな。でもおれは楽しかったぞ。これまでの800年も、今日この日に交わしたマキノとのやりとりもな!」(了)