ネコとサクラ
――冬。
街路樹の葉もすっかり落ちて、他の季節ではなかなか見ることのできない幹の芸術を味わうことのできる季節。
この季節独特の空気の清らかな感じと、足元のひんやり感を私は嫌いではない。むしろ夏のアスファルト地獄を思うと冬の寒さは天国ではないだろうか。陽だまりのほんわりと暖かい空気は、お日様にしっかり温められた毛布に包まっているときの幸福感と同じだ。
ただ、冬の朝は苦手だ。夜が長い。活動期間が長くなりすぎる。正直ちょっとしんどい。
ようやくスズメがちゅんちゅん鳴きだした。東の空もうっすら明るい。長かった一日も終わりそうだ。
さて、今日最後の仕事に出かけるとしよう。
当面のところの寝床としている神社の鳥居を抜けて、駅前通りに向かう。
駅前に特に用はない。あそこは人が多いだけで歩きにくいし、今の時間はカラスたちが前日に飲食店から出されたゴミのチェックに忙しく、変に近づくと攻撃されかねない。
カラスとは若かりし頃一度だけ本気でやりあったことがある。
あの時はこちらも食探しに必死だったし、ようやくなんとか手に入れた食べ物をカラスなぞに渡す気はなかった。しかし奴らは私からそれを奪おうとしたのだ。到底許せるものではない。
というわけで一戦交えたわけだが、相手は複数で襲ってきたものの、私は強いので当然のごとく打ち負かしてやった。
しかし奴らの大きな嘴と足の爪は意外と奥まで食い込んだりする厄介な武器なので、傷はなかなか治らなかった。言っておくが泣いたりはしていない。何度も言うが、私は強いのだ。
駅前通りに出ると、カラスのいない一本内側の道を通る。
こちらは車も通らない、主に人や自転車の通行が多い道で商店が両脇にずっと続いている。屋根もついているので雨の日も通りやすい。
この道は昔の旧街道というものに当たるらしい。
駅前の開発でメインの通りが駅前からまっすぐ伸びる太い道に変わったが、もともとはこちらが主だった道だったそうだ。
特にこの屋根のある道は昔、宿場町という呼ばれ方をしていたらしい。宿場町というのは、まだ車などという危ない乗り物もなく、人々が歩いて旅をしていたころ、休憩したり宿泊したりしていた町だが、ここは街道自体がメインに使われていた街道ではなかったようで、ものすごく規模の小さい宿場町だったそうだ。
さすがに今はホテルという大きな高層ビルなども建てられているため宿泊施設は少ないが、漬物を売っていたり、野菜を売っていたり、居酒屋だったり、喫茶店だったりする店に古い建物が利用されている姿も見られる。新しいコンクリートの建物が好きなのかと思えば、古いものにもこだわりがあって、人とはよくわからない生き物だ。
この宿場町の外れにはぽつんと1本の木が立っていて、春になると、とても美しい淡い桃色の花を咲かせて行き交う人の心を和ませていたという。
いつしかその木は旅人たちが旅の安全を願う対象になった。どうやら、無事に旅を終えてまたこの木の花を無事に眺めることができますように、という願掛けみたいな感じだったらしい。願う心は次第に増えて根元には祠も建てられたそうだから、余程旅人たちにとってこの木は心の支えだったのであろう。
――この道に関して「らしい」とか「そうだ」とかが多いのはこれらが私の知識ではないからだ。これは神主のおっちゃんの言で、神社に残っている奉納された絵馬や掛け軸のような、なにかしら古いものを調べたところそう書いていたらしいが、正直私は興味がないので、話の半分しか覚えていない。それでもおっちゃんが楽しそうに話すのは嫌いではないので、真剣には聞いているつもりだ。……まぁ、たまに寝てしまうこともあるが。
屋根のある道を抜けると駅前から続く大きな道が大きく曲がり交差する。その交差している道路を渡った先は小さな緑地になっている。道路を渡るのは私にとっては大きな危険を伴うので、右に高々とそびえている歩道橋の階段を軽快に上った。
眼下には箱のような車がたくさん走っている。私は上から人の世界を見下ろすのは嫌いではないが、ここはあまり好きではない。見ていても面白くないし、時折吹く風は暖かく冬には身体が温まる気がするものの、空気の匂いが好みではない。
鼻を通り越して喉までもイガイガする匂いだ。
もっと美味しそうな感じの匂いにならないものだろうか。
橋の終着点までたどり着き階段を降りると、先ほど道路の反対側に見えた緑地がばんと目の前に現れる。緑地を正面に見て左は屋根のある道から続く旧街道。右はさっき上から見た、幅の広い新しくできた車が行き交う大きな道だ。
私の主観だが、お散歩するには左側の道がおすすめだ。
この道沿いには商店が数多く並んでいるが、これは宿場町から時代を経て別に発展したもので「商店街」という名前だということは八百屋のおばちゃんがよく口にするので覚えた。
昔からのなじみ人が多いのでなかなか美味なおやつもくれるし、なんなら疲れた時に店先で寝ころんでも誰もイヤな顔をしない。
まさに絶好のお散歩ルートなのだ。
さて、「商店街」に進む前に緑地について話しておかなければならない。
緑地には一本の木と小さな古びた祠。今にも崩れ落ちそうな石で加工されたその祠を守るように、木で作られた新設の壁がその周囲を囲んでいる。
そうこの木と祠はもちろん、宿場町のはずれにぽつんと立っていた旅人たちにとってなくてはならなかったアレだ。
昔も愛されていたこの木は、今もまた「商店街」の人から愛されている。
祠の手入れは毎朝必ず行われていつも塵一つないし、無駄な草も生えていない。「商店街」のシンボルとしてあちらこちらにこの木の春の姿をモチーフにした旗が掲げられ華やかに揺れている様は、常に春の季節のなかにいるようで気持ちが明るくなって悪くはない。
祠には季節の花が絶えず供えられ、たまに食べ物もあったりする。
――うむ、腹時計的に時間ぴったりだ。
私がその緑地へ訪れるのはいつも決まって同じ時間だ。
朝の掃除が終わり、食べものが何か置かれていたらちょっと嬉しいからだ。それが私の好みのものだとなお最高だ!
緑地へ足を踏み入れると、すこし甘い香りが漂ってくる。
近づくと案の定白くてまるいお菓子だった。中にあんこの入っているもちっとしたあれだろう。
私は身震いする。
――危険だ。今すぐ急いでここから離れなければならない!
「こらぁっ! このどら猫ぉっ!」
出た!
私はすぐさま緑地の木に飛びつくと、そのままよじ登って人の手の届かない枝までたどり着く。
「こら、その木に登るな! 降りてきなさーい!!」
降りてこいといわれて降りるバカはいないだろう、と心の声を押し殺して枝の上から怒りの主を見下ろした。
予想通り和菓子屋の女将だ。
箒を逆さに振り上げてこちらに絶えず怒声を浴びせている。心なしか髪も逆立っているように見えるのは私の目の錯覚だろうか。
女将が怒鳴るたびに、私のひげがぴくぴくする。とうとう女将は空気をも振動させる技を習得したらしい。ますます勝ち目はない。
私に親切な「商店街」の住人の中にも天敵はいる。その一人がこの和菓子屋の女将だ。
昔、愛犬が猫にキズを付けられて以来、猫は彼女にとって悪者となった。もちろん犯人は私ではない。和菓子屋の裏手通りにある青い屋根の家のブチ猫だ。あの猫は、よく家を抜け出してはまるでこの街を牛耳っているかのように我が物顔で闊歩しているが、実は図体の割には強くない。私に勝てたことは一度もないし、その上私の方がずっと愛らしい!
そもそも、私は和菓子を食べない。
食い散らかしているのはカラスであって私ではないのだ。濡れ衣で怒鳴られたらたまったものではない。
――まぁ、和菓子以外をたまに拝借するのは認めるが...…
「そもそも、自分で自分を愛らしいというのはどうかと思うよ?」
私の隣、どう考えても人が座ることなどできそうにない枝先で男が足を組みながら「ふふっ」と笑った。
葉のなくなった小枝ひとつ揺らすことなく、なんでもないような涼しい顔でこちらに笑顔を向けるその男に、私はまた「出た...」と、今度はあきらめに近い声で言った。
「心外だな。化け物でも出たように言わないでほしいんだけど。ぼくによじ登ったのは君のほうだろう?」
「化け物みたいなものだろう」
「君には言われたくない」
まぁ、大方その通りなのでここは黙っておこう。
男の方も私の沈黙など気に留める様子は全くない。それよりも祠の前からチラチラとこちらに睨みを聞かせている女将の方が気になるようだ。
座っていた枝先から音もなく地上にふわりと着地すると、柔らかなウェーブがかった淡い桃色の髪もまたふわりと波打った。
男は女将の横に立つと、2、3、言葉をかけてから女将の右肩にそっと手を乗せた。淡い球状の光が見えたかと思うとすぐに周囲の景色に溶け込んで消えた。
女将は毒気を抜かれたのかあきらめたのか、ぶつぶつ言いながらようやく箒を正しい持ち方に変えて祠の周りの掃除を再開した。
「なにか言ってやったのか?」
枝から顔を伸ばして下をのぞき込みながら声をかけると男は「いや」とだけ答えた。
きっとこの男のことだ。「いつもきれいにしてくれてありがとう」などと感謝を述べたのだろう。声は届きもしないのに。
そうして、日ごろの礼に女将が抱えている負の気持ちを軽くしてやった、というところか。
この男は人が好きすぎていけない。じつはそれが自分自身の負担になっていることに気づいていないわけではあるまいに。
男は私の言いたいことに気付いたのか苦笑いを向けた。
「あらあら、これから幼稚園?」
高めのかわいらしい、鈴のようなころころとした新たな声の主を確認して、私は枝からずり落ちそうになる身体を必死に支えた。なんと和菓子屋の女将その人ではないか!私へ向けられたのはむしろ銅鑼のようで音色であったというのに、違いすぎるその声はどこから出るのだ!
女将と会話しているのは、母親と幼稚園の制服を着た男の子だ。そういえば最近この近くに幼稚園ができたと聞いたが、私は私のお散歩ルート以外に興味はないのであまり意識したことがなかった。もしかしたらそこに通っているのかもしれない。
「いや、あれは昔からある方の幼稚園の制服だよ。今年入園する子から変わったんだ」
勝手に心を読んだかのようなタイミングで木の根元から説明が飛んできた。見上げる瞳はとても綺麗な新緑の緑をしている。
「お前、人の世に詳しすぎはしないか?」
「まぁ、ずっと見てきたから」
笑うと、その新緑が枝から出てきたばかりの葉のように細い三日月形になった。
女将と母親の方は、通園まで時間があるのかご近所の話で盛り上がっている。
魚屋のおじいさんが今度マラソン大会に出場するらしいだとか、最近商店街に新しくできたケーキ屋のおすすめはシフォンケーキだとか。
――ふむ。シフォンケーキは、まぁ食べてやらんでもない。
母親の顔を見上げたり地面に目を向けたりしていた男の子は、とうとう飽きたらしい。
透き通った水晶玉のようなまん丸の茶色い目が、木の方に向けられた。
最初は木の根元に立つ男の辺りで留まり、そのままじっとしていたが、やがて木の幹を伝ってとうとう私を捉えた。
目が合った瞬間にひげがぴくんと震えた。
――これは、持ってるな。
直感が囁くとほぼ同時に男の子が私に指をさす。
「ねぇ、あの猫さんしっぽが二本あるよ?」
女将と母親は私を見上げて首を傾げた。
「あの灰色模様の子?」
「あのどら猫?」
女将はいちいち私を「どら猫」というのをやめてくれる気はないらしい。私は特に危害を加えたことはないのに心外だ。
少し腹が立って、しっぽをパシンと振ってやった。
きっと女将たちには見えまい。この私の美しき2本のしっぽを。
「う~ん、おばちゃんには1本にしかみえないけどね」
女将が首をかしげると母親の方も「枝を見間違えたのかしら」と不思議そうな顔をしている。
「ふん」と鼻を鳴らす。
見えてたまるか。
「大人気ないなぁ」
男はほとほと呆れている。
「しっぽを振ってやっただけだ」
たまにこういう特殊な眼を持った人間が存在する。私たちの本来隠している姿や、人には見えない何かを見る眼。眼だけならまだしも中には言葉を交わす力を持つ者もいるというから恐ろしい。
幸い私は眼を持つものにしかあったことがない。
言葉まで交わしたらどうなるのか、恐ろしくて考えたくもない。私たちは人の世では存在してはいけない存在なのだ。深く関わらないに越したことはない。
「あ、いけない!そろそろ行かなくちゃ」
母親の方が女将に挨拶を済ませると、男の子も諦めたように、けれど名残押しそうに私を見上げる。
そして母に手を引かれて数歩歩くと振り返って手を振った。
「お兄ちゃん、またね」
男は驚いたようだったが、それに応えて手を振ってやっている。
残された女将は何のことだかさっぱりだ、と動きを止めていたがまた黙って箒を動かし始めた。
「おどろいたな、お前のことまで認識できるとは」
「ぼくもびっくりしたよ。実体のある君はともかく、ぼくはただの魂に過ぎないのにわかる子がいるんだね。――長生きするもんだね」
嬉しそうに笑っている。
本来なら警戒すべき相手なわけだが、この男がいいならまぁいいか。
――紹介が随分遅れてしまった。
この男、名は「サクラ」という。
男もそう話していた通り、この木の魂そのものだ。人の世界でいうと「木の精」などともいわれるらしいが、呼ばれ方にこだわらないらしい。
当然私より長生きだし、この町の移り変わりをこの場所からずいぶん長い間眺めてきた。たった一人で。
救いは木がこの町の人に愛されていたことだろう。絶えず人はここを通るし、毎朝商店街の誰かは必ずここを訪れる。本当の意味での孤独ではなかったのかもしれない。
人々の身を案じて一喜一憂し、同じ場所で雨の日も風の日も関係なくただここに立っている存在。
ここを通る人の心の支えでもあり、同じく長く生きる道を選んだ私の悪友でもある。
🌱🌱🌱
あとがき
創作大賞、今年もイラストで、と思っていたのですが描いて消して、最終的にコレジャナイってなってしまいました。
結局小説にしようと話の構成がまとまったのが、7月頭^^;
(おそっ!!)
なんとか1章分だけまとめましたが、時間がなくて書ききれませんでした。
お話はこれから進んでいく、起承転結でいうと「起」の部分なのですが、なかなか「ふふっ」と自分でなったので、みなさんにも「ふふっ」ってなってもらえたらな、と思ったのでアップしました。
ちょっとだけ「ふふっ」となっていただけたら幸いです。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
次からはまたいつも通り、植物の記事です^^
そして、これ書いてたのでほぼnoteがなかなか開けませんでした。
すみません。また平常運転に戻ります。