連載小説【フリーランス】#14:白でも黒でもない

 四月も半ばを過ぎて、幸代と正和はまた山梨の図書館を訪れ、婚約を報告した。ここには長年二人で通っているので職員たちともそれなりに親しくしている。中でも古くからのつき合いで、最初にアートクラスを立ち上げるときに幸代に声をかけてくれた児童サービス課の良美さんが、たいそう喜んでくれた。

「あら、でもそしたら原さんが原さんになるのね」
 
 ああ、ついに来たと幸代は思った。正和の苗字は原だが、幸代の苗字も原だった。どちらがどちらの籍に入っても字面上は変わらない。幸代はそのことに気づいていたけれど今日まで誰にも言わなかった。どうでもいいと思っていたからではない。その話をすればどういうことになるのか、どこかでうすうす感づいていて、それが嫌で先のばしにしていた、というのが正しいかもしれない。現に正和からもその話は一度も出ていなかったが、理由が自分と同じではないことも、やっぱりどこかでわかっていた。正和はきっと当然だと思っている。

「私なんかパスポートとか銀行のカードの名義を変えるのに役所を何回も回って大変だった。でもあなたたちの場合は、漢字も読み方も同じだから、手間が省けるんじゃない? ラクデイイワネ」

 rakudeiiwane。楽でいいわね。幸代がその言葉の意味を理解するのに、キーボードで七文字分のアルファベットを打ち込んでシフトキーを叩くぐらいの時間はかかった。楽をしたいなんて思ってもみなかった。楽って何だ。そもそも自分が正和の籍に入るとも言っていない。良美さんはどういうつもりで私にそんなことを言ったのだろう。いや、どういうつもりで、だなんてしらじらしい。本当はわかっているくせに。

「先生結婚するの?」

 耳ざとい生徒がちらほらと集まってきたので良美さんが代わりに答える。

「そうなんだって。相手は誰だと思う?」

 わかんなーい、という声に混じって、芸能人や有名なスポーツ選手の名前を叫ぶ声も聞こえる。

「マサスタントだよ」

 うそー! えー!? と大騒ぎになった。正和はここではアシスタントの“マサスタント”で通っている。「嘘じゃないよ」と苦笑いする幸代に群がった子供たちを良美さんがなだめる。

「だからおめでとうしなきゃね」
「おめでとう!」 

 誰かが最初に言うと、ほかの子供たちも負けじと倣って、しばらくおめでとう合戦が続いた。それが落ち着いて子供たちがクラスの準備に戻った頃、ユエナちゃんが幸代のそばにやって来た。

「先生どうして結婚するの?」

 どうして? そんなの決まってる、と思ったが、自分の口から出てきたのはまったく違う言葉だった。

「どうしてかな。ユエナちゃんはどう思う?」
「マサスタントが好きなの?」
「嫌いじゃないよ」
「好きと嫌いじゃないは違うの?」

 幸代は机の上に広げてあったアクリル絵の具の箱から、白のチューブと、黒のチューブを、一本ずつ取り出して両手に持った。

「好きが白、嫌いが黒だとするよね」
「うん」
 そこで白と黒のチューブを置くと、新しくもう一本、グレーのチューブを絵の具の箱から取り出した。
「嫌いじゃないはグレー」

 白と黒の間にグレーのチューブが収まった。並んだ三本をユエナちゃんがじっと見ている。

「好きでも嫌いでもないのが嫌いじゃないなの?」
「そう思う? でもほら、白でも黒でもない色なら、ほかにもたくさんあるよね」

 絵の具の箱の中には赤や黄色や青や、まだたくさんの色のチューブが残っている。

「ユエナちゃんは今日、グレーのスウェットを着てるよね。自分で選んだの?」
「そう」
「白でも黒でもないからグレーを選んだの?」
「違うよ、グレーが着たい気分だったからだよ」
「そうだよね。グレーはグレーなの。白と黒から生まれるけど、白でも黒でもない、独立した一つの色なんだよ」

 ユエナちゃんは三本のチューブの前に立ち、白がお母さんで、黒がお父さん、と言いながら、黒いチューブだけを離れたところに移した。

「黒がいなくなってもグレーはいなくならない?」
「ここにちゃんとあるでしょ」

 幸代がグレーのチューブを指差すと、ユエナちゃんはその隣にある白いチューブと一緒に指先で触れた。

「白もいなくならない」

 そうだね、と幸代は言って、ユエナちゃんが遠ざけた黒いチューブに手を伸ばした。

「先生も結婚したらお母さんになるの?」
「結婚してもみんながお母さんになるわけじゃないんだよ」

 戻ってきたばかりの黒いチューブを開けて中身をパレットに出し、次に白いチューブも同じようにして、二色の境目を水に濡らした絵筆の先で和える。

「こうやって、黒と混ぜてグレーを作ってもいいけど」

 絵筆を置き、フタを閉めた白いチューブをもう一度手に取った。

「白は白、ずっとここにいる」

 ユエナちゃんは蜘蛛の巣の迷路にかかったような顔をしていたが、わからないとは言わなかった。

「ユエナちゃんはお母さん好き?」

 少女は黙って大きくうなずいた。

「じゃあお父さんは?」
「わからない」
「そっか」

 せんせー、と呼ぶ声がした。クラスの開始時間は過ぎている。今日は紙ねんどで自分が好きなものを作る、という課題の日だ。前回のクラスの終わりに、今日までに作るものを各自考えてくるように言ってある。子供たちに作り方をレクチャーして作業を始めてもらわなければ。

「ユエナちゃんは何を作るかもう決めた?」

 今度はううん、と首を横に振る。

「じゃあさ、ユエナちゃんのお父さんを作ってみようか」
「作れるの?」
「もちろん」

 少女はしばし自分に語りかけているようだったが、そう長い時間はかからなかった。

「やってみる」

 幸代はにっこりと笑い、ユエナちゃんの背中に手をそえながら、生徒たちのところへ向かった。⏩#15


⏪#13:ムーンボウの娘
⏪#12:沈丁花の夜
⏪#11:ミスター模範解答
⏪#10:完璧な仏像に似た
⏪#9:割れた風船の中には
⏪#8:マッチ&デートツアー
⏪#7:人生はレディメイド
⏪#6:残されたまばたき
⏪#5:マスゲーム襲来
⏪#4:風の強い日
⏪#3:渋滞のハイウェイ
⏪#2:神々の大量虐殺
⏪#1:夜の教室

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