連載小説【フリーランス】#18:何もかも似合わない部屋
蔵石さんのおかげで気分がよかったので、幸代は新しい部屋に寄ろうと思った。引っ越しは五月始め、ゴールデンウィーク後半の予定だったが、契約は済ませてあるから、もういつでも出入りできる。
幸代はこのごろときどき一人で新居を訪れていた。来たからといって特に何をするわけでもない。がらんとした部屋の床で、ぼうっと数時間を過ごすだけだ。仕事が終わってもなんとなく真っ直ぐ帰りたくない夜に寄って、デパ地下でテイクアウトしたガパオライス丼を食べたり、どこへも行く予定のない休みの昼間から、一本のエールビールを缶のまま飲むこともあった。第二の家、二つ目の生活を手に入れたような気分だった。
向かう途中、仕事のお遣いで立ち寄った全国チェーンのライフスタイル用品店で、組み立て式のハンモックを見つけた。自立型で木製のスタンドフレームとネットがセットになっており、折りたたんで持ち運びができる。ハンモックは、今よりも広い家に引っ越したら、いつか欲しいと幸代が思っていたものだった。あの部屋にちょうどいい。そう思って買った。今日は直帰だからこのまま持ち込んで置いておける。電車に乗って部屋に向かう道中、ずっとわくわくしていた。
部屋についてもまだ陽があった。リビングでパッケージを開け、自分で一つ一つフレームを組み立てていく。その間も浮き浮きとはやる気持ちを抑えきれず、この時間を一分でも長く楽しみたいような、早く出来上がって欲しいような、贅沢な誘惑に左右から両手を引っ張られて、胸がはちきれそうだった。もうすぐ念願のハンモックと部屋で対面できるのだ。最後に生成りのネットを吊るせば、いよいよそのときがやって来る。
幸代は目を疑った。完成したハンモックは、少し離れたところで、幸代の視線を一身に受けている。これがあのハンモックなのだろうか。さっき店頭であんなに輝いて見えた、幸代の想像の中でも完璧に輝いていた、本当にあれと同じものなのか。店員が間違えて別の製品を渡したのではないか。そのぐらい、目の前のハンモックは光を失い、ただの物体と化していた。ハンモックというよりもフレームとネットだった。その周りをぐるぐる回って角度を変えて見ても、あちこち置く場所を変えて試してみても無駄だった。どこに置いても、場違いな客のように--なりが大きい分悪目立ちまでして--馴染まない。これといって特徴のないその部屋に、ハンモックは絶望的に似合わなかった。
いつの間にか陽は沈み、寒々とした闇がハンモックの周りにも立ち込めていた。キッチンのシンクの中で、ハンモックに揺られながら食べようと思って買ってきた、瓶入りプリンの保冷剤が溶けている。 幸代は床に座り込んでそれを食べた。とてもハンモックに乗る気にはなれなかった。床の冷えがワイドパンツの布地を通してじわじわと体内に染み込んでくる。添加物を一切使わず自然の材料だけで作ったというそのプリンはまるで味がしなかった。買ったばかりのハンモックはもう一度フレームとネットに分解して、ショルダーストラップで背負う専用の収納バッグに詰め、プリンの空き瓶と一緒に持って帰った。
それから幸代はいろんなものをその部屋に持ち込んだ。新しく必要な家電や家具は正和と選ぶことにしていたので、インテリア用のオブジェを飾ってみたり、観葉植物の鉢植えを買ってみたりもした。アンスリウムという南米産の観葉植物は職場近くの花屋で心をつかまれた。花のように見えるのは、花ではなくて仏炎苞という葉の変形したものなのだけれど、艶やかな赤いハート型をしていて小憎らしいほど可愛い。心に火がともったようにときめいた。それがこの部屋に来た途端、嘘みたいに色あせてしまった。がっかりするよりも、あんなに魅力的な植物をこんな目に遭わせてしまった自分が情けなかった。
とにかく何を置いてもしっくりこない。いっそのこと部屋いっぱいを色とりどりの風船で埋め尽くしでもすれば満足するとでもいうのか。そんなふうにわざわざ自虐的に思ってみて、次の瞬間に笑い飛ばそうとしても、びっくりするほど笑えなかった。次第に幸代がその部屋に持って入るのは食べものや飲みもののだけになり、そのつどゴミを持ち帰って捨てると、いまだ新居の物は一つも増えていなかった。
何の家具も入っていない空っぽのリビングを眺める。ここに好きなものを、好きなように、飾ることができるのだ。寝室に移動してクローゼットを開けてみる。もちろん何も入っていない。代わりに自分が中に入って扉を閉めた。今のクローゼットよりも広いから、部屋の中にあふれ出してしまっている服も、余裕で入るだろう。扉を少しだけ開け、細い隙間から部屋を覗き見る。今使っているものの中から何を持ってきたらよいか、新しくどんなものを買えばよいだろうか。
しかし幸代には自分が何をどこに置きたいのか、どんなイメージも浮かばなかった。そんなはずがない。いつからこうなった? 内見に来たときの私にはそれが見えていたというのか? それすら思い出せない。
かつて有名な画家の絵を落札した人が、自宅にそれを飾った写真と、飾る前の写真を、二枚並べて公開しているのを目にしたことがある。その絵が壁に一枚あるだけで、その部屋はまったく違って見えた。絵のある部屋は生きていた。部屋が脈打ち、壁越しに心臓の鼓動と息吹が聞こえてくるようだった。私もあんな絵を持っていたらいいのに。
あるいはグランドピアノがあったらどんなにいいだろう。でも私は蔵石さんのようにグランドピアノを持っていない。ピアノどころか、ここに置くべきものは、何も持っていない気がする。
たまらなくなってクローゼットから飛び出した。カーテンのない窓から入ってくる夜の薄明かりを頼りに、ざらついた暗闇にいくら目をこらしても、部屋は何も答えてくれなかった。がらんとした部屋の真ん中に立ち尽くして、幸代はただただ途方に暮れていた。それが今の幸代にできる唯一のことだった。⏩#19
⏪#17:六畳一間のグランドピアノ
⏪#16:かろうじて戦争ではなく
⏪#15:ユエナは虹の子
⏪#14:白でも黒でもない
⏪#13:ムーンボウの娘
⏪#12:沈丁花の夜
⏪#11:ミスター模範解答
⏪#10:完璧な仏像に似た
⏪#9:割れた風船の中には
⏪#8:マッチ&デートツアー
⏪#7:人生はレディメイド
⏪#6:残されたまばたき
⏪#5:マスゲーム襲来
⏪#4:風の強い日
⏪#3:渋滞のハイウェイ
⏪#2:神々の大量虐殺
⏪#1:夜の教室
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