わたしに教えられた
今朝、とてもはっきりとした夢を見ました。
人との別れや手離すということについてレクチャーを受けていました。
しかも、わたしから(笑)
もともと物欲も金銭欲もなく、人への執着だけが強かったのですが、そこもなくなってきた。
昔は誰にでも好かれたかったし、仲良くしたかった。好きな人には近づきたかった。
でも、今は変化してきて、好きでも近づきたくない人がいる。個性や主張が強い人はこちらも巻き込まれそうで興味はあるけれど近づくよりも遠くで観察して刺激をもらえればいい。
推しのアートは好きだけれど私生活は知らなくていいという感じ。
それからSNSなんかを見ていると、ご本人の感性は好きだけれど、仲間や取り巻きとの共通のノリがあんまり好きじゃない人もいる。
こちらもこっそり眺めていれば満足。
言ってることに賛成では無いけれど、面白い主張するなー。嫌いじゃないよ、その攻撃的な態度!なんて人もいる。こちらもこっそり観察する感じ。Twitter界隈によくいる。
人と関わる時に損得勘定をしてはいけないと教わったけれど、しないと危険である。そういうことをまじめに守るタイプこそがカモられ、搾取されるからね。
わたしは自分に精神的に負担をかける人とは会いたくない。プライベートはとにかく平穏でいたいのだ。
落ちていたり悩みがあったり自己卑下があって持ち上げるためのエネルギーを必要としている人や、わたしに認められたいとか好かれたいとか理解して欲しいとか共感して欲しいとかこちらにコントロールのエネルギーを向ける人は会うと疲れる。
承認欲求や顕示欲やらを向けられるのもつらい。わたしはホステスさんじゃないし、お母さんでもない。
いやもう、ただ楽しければいいのよ。
正直に自分のことを話せたり、楽しいことや好きなことを話してくれたらいいのよ。情熱を持って蘊蓄を言う人は好きだからオタクトークも聞いていられる。
わたしに言いたいこと言わせて!
「ああ言われて傷ついた」とか被害者意識で人のせいにしてくるタイプの人はプライベートでは付き合えない。
求められるのが嫌なのだ。
依存や期待を向けられるともともとセラピストだし、人類を救いたいとか思っちゃってる宇宙人ソウルだし、親切な性格だから無意識に応えようとして疲れてしまうのだ。
ところが、そこもだんだん減ってきた。相手に好かれなくてもいいとか期待に沿う必要もないと思えてきたからだ。
正しさも人の数だけあるから、自分が誰かには間違っていても誰かには正解になるのだ。
つまり合う人とだけ関わればいいのだ。
これまで仲良くしてきても自分が大切にされていないと感じたならばその思い出も手離すことも出来るようになった。冷淡なのかな?割と捨てるのが得意だ。
どうせ手に入れたものも人生の終わりに最後は捨てるのだ。
これまでで1番悲しかった別れはなんだろう。
ミステリースクールで自分の思いが曲解され否定されたことか、真の友達だと思っていた人の態度の変化か、前の夫に別れてくれと言われた時か、母が亡くなった時か、息子の態度が冷たくなった時か
その時は息が出来ないくらい苦しかったけれど今はもう悲しみも薄れてしまった。
本当に悲しいのは別れではなくて、そこに伴う喪失感やプライドの痛みや自分が否定されたような気持ちの方なのだ。
他者への愛ではなくて自分のもらっていた安心や愛の取り分みたいなものが減ったことが悲しいのだ。けれど、そこは自分の意識次第で埋めることもできるんじゃないかな。
自分にとっては正しいと思って握りしめていた生き方や道でさえ捨てる時というのはやってくる。そんな時は抗えない。受け入れるだけだ。
そして手離すと新しいものが入ってくる。人生はその繰り返しだ。
終わるから失敗ではない。続くから正しいのでもない。
結ばれるご縁、離れるご縁のどちらも神聖な有り難いご縁だ。
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