エゴと冷静に付き合う
これはわたし自身の経験から言うのだけれど
スピリチュアルな世界にいるとエゴを無くせとかエゴを超えよとか言われる。
一般的なエゴとは自己中心的な振る舞いや考えをエゴというけれど、スピリチュアル世界で言われるのは我欲の「我」自我の「我」だ。
自己顕示欲や承認欲求はこのエゴの自己主張だ。
内なる神や大いなる流れに対して明け渡す。抵抗しない。
その時にエゴがあると「わたし流のやり方」「わたしの良かれ」「わたしなりの愛」「わたしの正義」「わたしの美学」などが邪魔をする。
大いなる意志に対して抵抗を生むのだ。
「宿題をやらなくちゃいけないってわかってる、わかってるよ?でも今じゃないし、やろうと思っているのにそうやって先に言われるとやる気を失う」、、なんてことを言う(笑)
長年エゴを無くしたいと、見張り、嫌い、疎み、そんな自分を恥じてきた。
なかなかにストイックなわたしはセラピストとして20年以上ここに向き合ってきた。
そして、どうなったか。
エゴ警察になった。
エゴのある自分を恥じ、自分にも容赦ないけれど人にも厳しくなった。
口には出さなくてもいつも自分をジャッジして、人もジャッジするようになった。
世の中の人たちは愛もあるけれど、エゴもある。善人だけれど、人へは配慮を求めながら自分の得を優先する。
自分の取り分は請求しないと分け与えられないから自己主張して自分の存在や価値をアピールしなくてはいけない。
あわよくば人を利用しようとする狡さや甘えもある。相手の利益より自分の利益を優先する。与えるよりはもらいたい。
当たり前のことだ。それを悪いこととは思っていないのだから。そして、その上で好きな人には親切だったり、寛大だったりもする。
エゴ警察をしていた時にはほとんど全ての人間に対して厳しい目を向けていた。
「どうしてそうなんだろう?もっと全体を考えなよ?」と苛立っていた。
エゴを放置しているままの人間に腹も立てた。
選民思想のように仲間内で普通に生きている人たちを見下していた時もあったように思う。
正しさや頑なさにはエゴが入り込む。
もちろん、エゴで人を振り回したり人を搾取することや人の命を尊重しない行いを認めるつもりはない。
けれど人の弱さや成長過程で反対側に振り子が振れることもあるのだと理解できてきた。
人の中に見えるものは自分のものだ。
それを持っている自分を責めるのではなく、恥じるのでもなく、ただ冷静に今はその段階にいることを認め受け入れる。
正しさは人を救わないことを何度も体験した。
ついストイックになりがちな自分自身に対して近視眼的にならず忍耐強く冷静にエゴを見ているようになれてきたかと思う。
そうして自分のエゴに大騒ぎしないようになって同じように人を許すことができるようになった。人を嫌わなくてすむようになった。
わたしの世界はエゴを見張っていた時よりも愛があって優しくなった。
エゴを持った自分や人をそのまま許すことができるようになったからだ。
もちろん、わたしはそれでもエゴやカルマをなるべく消して大いなる流れや内なる神に明け渡すことを目指すけれど
それは力技でエゴを落とそうとゴリゴリ押し通すのではなく、そこも大いなる存在にお任せしていこうと思っている。
https://ameblo.jp/lovebundle/entry-12665397579.html
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