全ては自分を映す
コロちゃんに罹ってみて思ったこと。
今、Twitterやら世間の人たちを見ていると、この騒動を通してその人の中身が表に出てきているなあと思うのだ。
猜疑心。不信感。正しさで人を非難したい人。支配欲。恐れ。被害者意識。人を見下す人。攻撃性。周囲に合わせることが大事な人。事なかれ主義。依存。
それから反対に良いところも見える。逞しさやリサーチ力、明るさ、楽天性や優しさ、面倒見の良さ、楽しさ、ユーモア、緻密さ、親切心、伝達力や筋道立てて説明する力なども。
そしてそれは騒動の前から元々そんな人だったんだと思う。それが分かりやすく見えるようになった。
マスクをしていない人を取り締まる権利なんて本来はないはずなのに、ここぞとまるで権利を得たように人を取り締まる人は元々それをやりたかったんだと思う。
陰謀論者を笑う人と逆にマスコミを信じている人を笑う人も立場は反対だけど同じメンタルだ。
その底にある感情や信条はどんなものだろう。
医者やテレビを疑わない人は世界が自分に好意的であると信じている人だと思う。それは幸せな人。あまり人の言葉の裏を探らない人かもしれない。
医者やマスコミ、巨大利権、組織など全てを悪と言っている人の怒りのエネルギーの強さ。これまで不満や怒りを溜めて生きてきたのだろうかと思ったりする。
ヒーローを信じている人。誰かが代わりに救ってくれると待ち望んでいるのかな。それは依存ではないかしら?
お金を優先するためにおかしくなった人もいるとは思う。利権、プライド、面子、既得権益、大切なものや人、エゴを守ろうとする時には人は暴走しがちだ。
テレビに出ている人や、薬品会社の人が全員心を失くして悪に染まっているわけでも無いと思うんだよ。某国の全てが悪人でもないと思うの。エゴがあるってことは個別の意識があるってことだから。
一般人には完全な白とか黒とかそんなにいるとは思えないのだ。居ないとも言わないけど。
結局、それぞれの人の反応の癖なんだなあと思った。
誰かをジャッジしても見下しても恐れても嫌っても疑っても信じても縋っても、そしてそれを誰かに話しても自分はこれ以上救われないなあと気が付いた。
それでわたしは虚しくなって世界のことやマスコミやワクチンや正しいと思うことを話すことをやめようと思ったのだ。
分断を作るだけだし、そこに解らせようとする意識のパワーゲームが始まるのが想像できて、そのルートを選びたくないと思った。
それはこれまで散々やったのだ。
正しさの論争は虚しい。
ヒートアップしてくる男性が多くてわたしのハートは居心地が悪くなって閉じてしまう。わたしはそれが好きではないし楽しくないし幸せにならない。
戦いをしたいのならば他の人を探して欲しいんだけど、論争ではロジックに弱いわたしに勝てそうだから挑んでくるんだろうか(笑)←正解だけど。
とにかく勝ちたいんだろうな。元々は親切な正義感なのかもしれないけれど。
分かち合うとか受け入れ合うとか愛で繋がることよりもギスギスしても悲しませても自分は勝ちたいというエゴの声にその人は負けてしまうのだと分かるので悲しいのだ。
意見の違うままに置いておくことはできないものか。
それぞれの人の意志や選択は尊重したいと思う。
娘も夫も妹もワクチン接種をした。
わたしは打たないけれど彼らの意志は尊重する。彼らは大人だからわたしの口を出すことではないと思っているし、万が一悲しいことが起きたとしてもそれも受け入れるつもりでいる。
できそうなサポートはする。サプリやお茶を飲ませたり勧めたり。
夫と一緒にいて、シェーディングで熱が出るとか痒くなるとかならそれも含めて結婚生活をすることを選んでいる。(特にこれまで感じずに済んでいる。)
わたしにとってもこの騒動はわたしの中にあった自分の意志とかポリシーをはっきりみせてもらったし自分の嫌な部分や要らないものもたくさん見せてもらう機会になった。