アカンサス
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アカンサスの花言葉は「離れない結び目」である。
その花を多くこしらえた花束を両手で抱え、ラミは姫婆の家へ向かう電車内にいる。
姫婆の住む谷豆町は、ラミの暮らす都心からやく30分ほどのところにある。久しぶりに見る町の景色は、きれいな建物が増えたからか、知らない人が多そうな雰囲気だ。しかし窓の隙間から、懐かしい風が頬をなでる。町の空気はラミを変わらずに受け入れてくれるようだ。
母が失踪したラミが煙草屋の前を通りがかった時、「ちょっと待ちな」と声をかけた姫婆。腐ったビニール袋のような服に、大きな荷物を抱えたラミは、それから姫婆の家で暮らすことになった。
それから姫婆は本当の親のようにラミを叱り、愛してくれた。しかし、物心がとっくについてからのことだったので、本当に親でない姫婆に育てられることに、なんとなく、違和感、申し訳なさ、ふがいなさを感じていた。
姫婆に拾われた時にラミが抱えていた大きな荷物の中身は、着物だった。姫婆は「ラミの母親にも、申し訳なさが少しはあったのだろうな」と言った。着物は少々高価なものらしかった。
電車は駅に到着した。ラミが住んでいた頃から、ホームがひとつ増えている。この町も人口が増えたのだろか。駅の広場へ出ると、駅前のスーパーに出入りする人以外には、あまり人はいなかった。日中のこの時間は、みな都心へ出てまだ帰ってきていないのだろう。
両手に抱えたアカンサスの花束は、まだそのみずみずしさを保っている。花屋の前で数十分もどの花にするかを考えてしまった。調べているとアカンサスの花言葉は、その角々しい葉が互いに引っかかり離れないことから「離れない結び目」と言われているらしい。それにはっとしたラミは、アカンサスを中心に花を束ねてもらった。
ラミがまだ姫婆の家にいた頃、姫婆の家には、ひとつの変わった形の花瓶があった。それは大きく、濃い青色の花瓶だった。取ってを持っても筋力がないとバランスを崩してしまうような、ややこしい形だった。
ラミはその花瓶がどのような花瓶なのか、何度か質問したが、いつも教えもらえなかった。高価そうな物だったので、だれか有名な職人が作ったのか、昔の将軍の家にあった、もしかして魔法の花瓶?なんて、いくつも想像を巡らしたが、それで分かるはずもなかった。「こういう芸術品は自分で見て、自分でどう思うか以外のことを考えるのは、あまり好きじゃない」と、姫婆はよく言っていた。姫婆はこの花瓶をよく眺めていた。何を思いだしていたのか、よく分からないが、「自分がどう思うのか」を考えていたのかもしれない。姫婆は厳しく、そして優しいが、謎が多い人だった。
ラミは、その花瓶に花を飾りたいと思っていた。
大人になった今、「離れない結び目」の花をあの花瓶に入れて、姫婆と一緒に眺めたかった。
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ラミが姫婆の家を出たのは、高校生になってすぐのときだった。いや、ちゃんと家を出られたのは高校二年生になってからかもしれない。
本当の親のように育ててくれているとは言え、ラミは親から捨てられた身、一人で生きていく運命を背負っていることを、多感な時期のラミは痛切に感じていた。
高校生になればアルバイトができる。だから、家を出ることができる。この安直な考えで、姫婆の家を出ることにした。
姫婆にこの話をしたとき、止められなかった。
「ああ、勝手にすればいい、きっと色々学べるさ」とだけ言った。
高校生の女子の一人暮らしは簡単ではなかった。親の許可なしに仕事や部屋を探すことに一苦労した。もう姫婆は頼らないと決めていたのに、結局は姫婆の元に帰っては、仕事や部屋の書類を書いてもらったり、例えば、寂しさから成人とを嘘ついて異性と付き合い、トラブルを起こしたときに警察に姫婆の元へ返されることもあった。
姫婆はそれにも何も言わなかった。警察に対して謝りもしないし、ラミをとがめもしなかった。その姫婆に警官は不信感を持っていたようだった。その後「わしはずっと、ラミが好きだ、自由に生きろ」と言うのが、毎回の決まり文句だった。ラミはその言葉を聞く度に、姫婆に感謝と同時に申し訳なさを感じるのだった。
結果的に安定して姫婆の家に帰らなくなったのは、高校二年生の頃だった。それからは、居酒屋のアルバイトで固定された。学校が終わって夜まで働く日々は、まだ未熟なラミにとっては非常に過酷なものだった。ラミは学業との両立ができなかった。結果的に高校を中退した。しかし、しかしその分仕事ができ、生活も楽になることを考えると、ラミはそれでも良かった。しかし、高校を辞めたことにより、より姫婆の家に帰りづらくなった。
20歳を過ぎた頃から、アルバイト先で社員登用の話を受けたり。新しくできたバイト仲間や彼らの友達を中心に、色々な人間関係ができるようになった。ラミは親に捨てられ、自分のわがままで高校も中退したことにより、人一倍劣等感を感じている時期でもあった。だから、こんな自分でも社会の中で必要とされることが嬉しかった。
だからといって、生活が豊かになることはなかった。紹介される仕事の誘い文句はよく聞こえず、度々ラミのなかで姫婆の顔が浮かんだ、姫婆はなんと思うだろうか、考えてしまった。そのためもあったのか、その後の人生を決める仕事選びに慎重になっていた。しかし、幾度も知人の飲み会に参加したり、おしゃれな大学生やいい大人ぶって服を買ったりしていた。
ラミは家を出るときに姫婆に持たされた「母の着物」を大切に保管していた。着る機会も、着物をどうこうするでもなかった。しかし、家賃の滞納を3回ほどしてしまったとき、着物を売ってしまった。思ったよりまとまった額のお金が入ってきた。それを機に、もうこのようなことはしてはいけないと、気持ちを入れ替えて生活を改めた。
ラミは先月25歳になった。着物を売った後、いくつかの会社の面接を受け、安定した事務の仕事に去年から就くことができた。これで、一人前の人間として、強く生きていける実感が持てた。就職してから半年が経つ。今なら、姫婆の家に帰ることができる。ラミは、そう思った。ラミは、いつでも姫婆のことが頭から離れていなかった。
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「毎度あり」
姫婆は常連をあしらうように会計を済ませ、いつものように世論雑誌を広げた。また嫌なニュースでもあったのか、眉毛の間は地割れと間違うほどのしわの深みである。仮病で学校を休んでいるむっくんは、その姫婆の表情を見て世間の難しさを図っていた。
「おいむっくん、そろそろ学校も終わる時間だから、外で遊んでおいで。いやならお使いに行っておくれ。小遣いはやるから。」
「ええ、どっちにしろ外に行かなきゃいけねのかよ。外にでたら、あいつ学校休んでるくせになんで外に出てんだって思われるから嫌だよ。」
「お腹痛かったけど、もう治ったとでも言っとけ。」
「わかったよい、買い物にいくよい」
むっくんは買い物袋と財布を借り、外へ出るために玄関を開けた。すると、目の前には赤い花の花束を抱えた一人の女性が立っていた。
「ごめんください、、、、君は誰?姫婆は?」
女性はむっくんを見てそう言った。むっくんは何も言わずに、姫婆の方を向いた。姫婆は、珍しく目を丸くさせてその女性を見た。
「姫婆ぁ!」
「ラミじゃないか!」
ラミと言われた女性は、慣れたように玄関に荷物を置き、姫婆のいる煙草屋の売り場の方へ向かった。ラミは姫婆の前で立ち止まり、姫婆に言った。
「今まで、帰らずにごめんなざい。。。」
ラミの目は赤くなっていた。涙をこらえているようだった。
「おかえり、ラミ。わしは嬉しいよ。久しぶりに会えて。」
ラミは、姫婆の前で号泣した。姫婆はラミを見て、微笑んでいた。
「その花束どうしたんだい」
姫婆は置いてある花束を見て、ラミに聞いた。ラミは晴れた顔付きで説明した。
「姫婆の花瓶に飾りたくて、買ってきたの!私からの、お詫びと、今までの感謝の気持ちを伝えようと思って。」
姫婆は、ややうつむき、そして目を細めて頭を掻いた。
「どうしたの?姫婆。」
「いや、実は、花瓶は売ってしまった。」
「え!何でよ!いつもあの花瓶を眺めて、大切にしてたじゃない!」
「別に大切でも何でもないさ。花束は別の花瓶にでも入れることにするよ。それとラミ、わしからも渡したいものがある。」
「え、いいよ。私は姫婆からはもう何も受け取れないよ。」
「まあ、そう言うな。」
姫婆は、奥の物置のような部屋へ入る。ラミが振り返る。むっくんが、ラミを見ている。
「あなたは、誰?ここに住んでるの?」
むっくんは黙ってラミから目を逸らした。姫婆が、大きな箱を抱えて戻ってくる。
「ラミ、着物はまだ残っているかい。着物だけで、帯がなかったから、帯を買ったんだ。またラミが帰ってきたら、いつか渡そうと思っていたんだ。あの着物と合うと思うんだが。」
箱を開けると、雲のような繊細な生地でできた、ラミが見たことがないほど輝いた帯だった。しかし、ラミは生活のために着物を売ってしまっていたので、何を言えばよいか分からなかった。
「姫婆、ありがとう。でも受け取れないわ。」
「いや、これはラミの為に買ったんだから、持って帰っておくれ。」
「実は、着物は売ってしまったの。生活が苦しくて、5年ほど前に。」
姫婆は、一瞬うつむいたが、すぐに顔を上げ、こう言った。
「わしも、せっかくラミが花束を買ってきてくれたのに、帯を買うために花瓶を売ってしまった、ごめんな。」
姫婆がそう言うと、ラミは姫婆を抱きしめた。姫婆も、そしてラミも、お互いがお互いを思い続けていたことを感じて、今まで伝えられなかった分を取り返すかのように、二人は抱き合った。
その後、姫婆は着物の為の帯を花束に巻いた。花束に対して帯は大きすぎて不格好だったが、輝く光を散らせるアカンサスの花々と、愚かで、しかし満ちあふれた彼女たちを強く結んでいた。