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広い台所と老婆と街 #3

 昼間の炊事場では早めに到着した一人の調理使の女性が階段に腰を下ろしている。奥では蒸し料理のために沸かされたお湯の湯気が立っている。青のスカーフで身を包んだ女性はさらに腕を組んでその風貌からはあまりにも考え事が深すぎるように見える。しかし彼女に声をかける人は一人もいない。彼女はここに、一人で座っている。
 奥には並木と言うにはあまりにも木が数本建ち並ぶ公園とちょっとした飲食を楽しめるテラスのある店がある。ここは夜になれば仕事を終えた労働者たちで溢れる。労働者と言っても炊事場で働く彼女と比べれば高等な商人たちでおめかしをした女性たちと、その女性たちをどこかへ連れ去ろうと舌を舐めずる男たちである。この炊事場は店の料理の下準備のために作られた貧相な職場である。
 彼女は今日、早く家を出た。彼女の子どもたちはもう自立して家にはいなかった。旦那は死んだ。彼女は一人暮らしだった。彼女がこの調理の仕事を始めたのは一年前だった。当時、家で何もすることもなかった。子どもたちも彼女にかまいもせず都市で働いた。彼女の唯一の趣味、というより暮らしのためにしてきた料理だけが心の拠り所だった。一人、自分のためにだけ何か料理を作る日々。旦那のと子どもたちの世話に人生を捧げた彼女は友達もいなかった。
 誰にも頼られない彼女が、人生を見失いかけたときに寄ったのがこの酒場だった。酒場では生き生きとした若者からいい大人まで、働き盛りの人間たちがごった返していた。その中で我を忘れて酒を飲んだ。喉が酒を求め続け、咽喉を鳴らし続けた。人生で初めて人から後ろ指を指されるような振る舞いをしていると思った。もうろうとしてた目が捉えたのは、きちんと整頓された炊事場だった。しかし、そのまま彼女は酒の回りに身を抗いきれず眠った。
 起きると朝を越えて昼だった。そこへは数人のいそいそと動く定年も越えたような老人たちが何か調理をしていた。湯気が四方八方に立ち上がり、フライパンがいくつも踊っていた。彼女は思わず聞いた。「ここで、働きたいのですが。」そこにいたお玉を片手にした老婆は言った。「あんた、ただ酒飲みかい。それとも老後の迷宮に入った迷子ちゃんかい。」
 彼女はそれ以来ここの炊事場で働いている。彼女の作った料理は、彼女が人生を捨てた店で、夜の労働者の胃を満たしている。

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