残念な投資家列伝~私はこれで大損しました ⑦ 世紀の相場師ジェシー・リバモア
このエッセイは投資に失敗して、大損してしまった人々の記録です。
彼らは何を間違え、どんな末路を辿ったのか・・・。
彼らの「失敗の本質」から、成功への道筋を探ります。
あっけなく散った「世紀の相場師」
ジェシー・リバモア(Jesse Livermore)は「世紀の相場師」として、ウォール街にその名をとどろかせた大物だ。
「黄金の20年代」と呼ばれた1920年代のアメリカでは、株式市場も活況を呈し、リバモアもその波に乗ってり、莫大な資産を築き上げた。
しかし、リバモアが真価を発揮したのは、1929年の「暗黒の木曜日」始まる株価大暴落の時だった。
リバモアは暴落の前に全ての株式を処分した上で、空売りまで仕掛けて「その日」を待ち、その資産はさらに膨れ上がることになる。
しかし、落とし穴は、その後に待っていた。1940年、リバモアは『How to Trade in Stocks』(邦題「リバモア流投機術」)という著作を発表した。
「投機というゲームは世界中で最も人々を魅了するゲームである」と書き起こしたリバモアは、「しかしそれは愚か者や怠け者、感情のバランスを欠くもののためのゲームでも、一攫千金を狙う相場師のためのゲームでもない。そういった連中は貧困の果てに最後を迎えることになる」と続けている。
ところが、リバモア自身が、「そういう連中」となってしまった。著作を発表したその年、ピストルで自ら命を絶ったのである。
アメリカンドリームの具現者
ジェシー・リバモアは1877年7月26日、マサチューセッツ州シュルーズベリーに生まれた。父親は貧しい農夫で、石ころだらけの畑を耕しながら生活の糧を得ていたが、やがてそれも失い、一家は祖父の元に身を寄せた。
学校に通い始めたリバモアは、算数で抜群の力を見せたが、農作業に専念することを迫られて、退学させられてしまう。
自らの力で人生を切り開こうとしたリバモアは、5ドルをポケットに入れて家出する。14歳の決断だった。
たどり着いたボストンで、通りかかった証券会社ペイン・ウェバーで、「何か用かい?」と尋ねられ、「仕事があれば……」と答えた。そして「算数は得意か?」という質問に「はい」と答えると、即座に黒板係(チョーク・ボーイ)として採用されたのだった。
黒板係の仕事は、株価を時々刻々伝えてくるティッカー・テープを読み取り、巨大な黒板にチョークで書き付けるというもの。算数が飛び抜けて得意なリバモアは、この単調な作業を通して相場に規則性を見出す。
「株価は物理の法則にしたがって上下する」と感じ始めたリバモアは、やがて相場師としての歩みを始めたのであった。
試行錯誤の末に得た「実践的投資術」
リバモアの投資術は実践型だった。証券会社の黒板係からのたたき上げだったリバモアは、ティッカーから打ち出されてくる株価のリズムを体に刻み込み、次に訪れるリズムを予測する術を身に付けていった。
「株式市場に新しいことは何もなく、価格変動は単に過去の繰り返しであり、銘柄によって多少異なっても相対的な価格パターンは同じだ」というリバモア。頭の中でシミュレーションするのではなく、株式市場の中に飛び込んで、相場の流れを掴んでゆこうとするのが、リバモア流の投資術であった。
それを現実化したのが、「テスト」と「増し玉戦略」であった。「テスト」とは、株価の動きが転換点にあると見込んだら、試しに少額の取引を仕掛けてみるということ。
例えば、これから上がりそうと見込んだ数銘柄について、少し買いを入れてみる。市場の流れがこれに追従するようなら、次第に取引額を増やす「増し玉戦略」へ移行してゆく。逆に、値が上がらなければ、早々に損切りをして撤退するというものだった。
株価の上昇が続く1920年代の終わり、リバモアはお得意の「テスト」を実行する。株価の天井が近いと考えたのだ。しかし、確証が得られない。そこで、小口の空売りを仕掛け始めたのだった。
最初の空売りは失敗だった。株価は上がり続けたままで、定めていた「損切り点」にすぐさま到達して、25万ドルの損失を出してしまった。
しばらくして、リバモアは再び空売りを仕掛けた。しかし、このときも株価が上昇を続け、早々に撤退を強いられた。
しかし3度目に空売り仕掛けた時、はじめて成果が現れた。利益の額こそ小さかったが、株価の上昇力が弱まり、下落に転じる確かな証しだと感じられた。
「テスト」の結果から、株価が下落に転じたと判断したリバモアは、ゆっくりと、しかし着実に売り攻勢を強めてゆく。「増し玉戦略」を始めたわけである。
これを知った友人たちは首をかしげた。株価は上昇を続けている。「いったいこの時期になぜ『売り』なんだ?」と。
しかし、リバモアの決意は揺らぐことはなかった。小規模に攻撃を開始し、やがて戦力を一気に拡大させて、売り攻めに入った。そして株式市場が「暗黒の木曜日」を迎えたとき、リバモアは、4億5000万ドルという莫大な空売りポジションを作り上げていたのだった。
売りで莫大な利益を叩き出したリバモア、付いたあだ名が「ウォール街のビックベア(偉大なる売り手)」であった。
リバモアの生活は、豪勢なものだった。ニューヨーク・ロングアイランドに構えた邸宅は敷地面積13エーカー(1万6000坪)、29の部屋と12の浴室を備える豪邸だった。食堂には48人が囲むことができる大テーブルが置かれ、最新式のキッチンには4人の専属料理人が腕を振るった。地下にはバーや遊戯室などのほか、住み込みの理髪師がいる理髪室もあった。
ニューヨークのオフィスには、お抱え運転手付きのロールス・ロイスで通ったが、夏の季候の良いときには、保有しているヨットを使うこともあった。全長90メートル、14人のクルーが操船する巨大ヨットだった。
メンタルな弱さが致命傷となった
1929年の株価暴落で大儲けしたものの、その後はスランプに陥っていた。1932年、18年間連れ添った妻ドロシーは、リバモアの不倫に愛想を尽かせて出て行き、深く愛していた2人の息子とも会えなくなった。
翌年、リバモアはニューヨーク社交界の華だったハリエット・ノーブルと結婚するが、直後に長年愛人関係にあったハリウッド女優から、婚約不履行で訴えられた。精神的に行き詰まったリバモアは、相場に対する勝負勘を失ってしまう。
暗黒の木曜日に始まった株価大暴落は、1932年7月に底を打ち、40日ほどで90%という、これまた記録的な暴騰を演じることになる。
この局面でリバモアは、お得意の売りで立ち向かったことで、今度は大きな損失を計上する。しかし、この反発は一時的なもので、株価は再び下落を始めた。ところがリバモアは、この反発の最終局面で売りポジションを全て投げた挙げ句に、今度は買いポジションに転じてしまう。
「往復ビンタ」を食らったリバモアは、築き上げてきた全財産を吐き出し、さらには500万ドルもの負債を抱えて、1934年に破産宣言をしてしまう。
リバモアはくじけなかった。捲土重来、再び株式市場に舞い戻る。
「チャンスはまた巡ってくる。同じ過ちは二度と犯さない。私は自分を信じていた」
復活をかけたリバモアは、再び売りで勝負をかけた。しかし、株価は本格的な上昇局面にあり、同じ過ちを繰り返してしまった。リバモアは、かつての成功体験が忘れられず、自分自身を過信し続けていたのである。
「わたしは落伍者だ。本当に申し訳ない。しかしもうどうすることできない」。妻に宛てた遺書はここで終わっていた。
リバモアは若い頃から、精神的に不安定になることが少なくなかった。また、絶えず孤独であった。知人の言葉を信じて投資を行い、破産の憂き目にあったことから、他人とは極力接しないように心がけるようになったのだ。
朝早く起きて、1人でじっくり相場を分析し、市場が開いている間は、誰とも会話をせず、じっとティッカー・テープを読み続けていたという。
「孤高の相場師」ともいえるやり方を、自らに課し続けた貸したリバモア。しかし、そうした状況を維持するのは容易ではない。そして、ひとたびその緊張状況が崩れたとき、修復不能な状況に追い込まれてしまうのだ。同じ事はこのエッセイで取り上げた投資家、岩本栄之助にも共通している。
リバモアは3度の破産を経験しながらも、不死鳥のように市場に戻っていた。しかし4度目の破産の後、ついに自らの手で相場人生のみならず、人生そのものを自ら終える決断を下してしまうのである。
1940年11月28日、リバモアは滞在していたニューヨークのホテルで、たった1人でランチを食べた。そして、33口径のコルト・オートマティックの引き金を引いたのだった。
株価大暴落を予知し、空売りまで仕掛けて大儲けしたリバモア。しかしリバモアは、常に孤独であった。そして、よりどころとなる伴侶も得られなかったことが、致命傷となった。
相場の世界は苛酷だ。功成り名を遂げた者でも、少しでも隙があれば、悲惨な末路をたどる。「世紀の相場師」と呼ばれたリバモア。その勝利と敗北は、それを如実に物語っているのである。