残念な投資家列伝~私はこれで大損しました ⑥ 義侠の相場師 岩本栄之助
このエッセイは投資に失敗して、大損してしまった人々の記録です。
彼らは何を間違え、どんな末路を辿ったのか・・・。
彼らの「失敗の本質」から、成功への道筋を探ります。
大建築の生みの親
大阪の中心部、中之島に建つ「大阪市中央公会堂」。堂々としたレンガ造りの建物は1918年(大正7年)年11月の完成。国の重要文化財にも指定され、大阪のランドマークの一つとなっている。
威厳を放つこの建物は、ある投資家の寄付によって建てられた。その名前は岩本栄之助。株式市場で名を馳せた大投資家で、父親から受け継いだ遺産と合わせて100万円、現代の貨幣価値で数十億円を、大阪市に寄付したのだった。
株式投資家として大成功を収めていた栄之助。しかし、ある取引で躓き、損失が雪だるま式に増え始める。冷静さを失った栄之助は、大逆転を狙ったものの状況は悪化するばかり。これまでに蓄えた莫大な資産を吐き出し、追い詰められてしまったのだ。
義侠の相場師の誕生
岩本栄之助は1877(明治10)年の生まれ。株式投資で成功を収めていた父親の後を追うように、栄之助も株式投資家となり、「岩本商店」の店主として活躍していた。
当時、世間を騒がせていた「株屋」や「成金」といったイメージとは異なり、礼儀正しく温厚、学究肌だった栄之助は、やがて「義侠の相場師」と称えられることになる。
1906(明治39)年、「大阪証券取引所」の株式を巡って、東西の投資家の壮絶な戦いが勃発した。買い方は東の兜町の投資家たち、売り方は西の北浜の投資家たち。優勢に立ったのは買い方で、売り方は次第に追い詰められ、破産寸前に追い詰められてゆく。
その中の一人が野村信之助、後に野村財閥を築き上げる二代目野村徳七だ。野村は知り合いだった栄之助に助けを求めた。このとき栄之助は、売り方の北浜にあって、買い方に回っていて、大いに潤っていたのだ。
野村は栄之助に、売り方に回って、自分たちを救って欲しいと懇願する。ずいぶんと身勝手な求めだが、栄之助はじっと考え込む。そして長い沈黙の後で、「よろしゅうおす」と同意した。父親の時代から、株仲間であった北浜の投資家たち。「皆さんへの恩返しだと思って協力しましょう」と。
栄之助は売りに転じ、保有株を全て売り払い、空売りまで行って、兜町と戦った。危険な賭だったが、これによって買い方は総崩れとなり、野村をはじめとした北浜の投資家たちは、九死に一生を得たのであった。
「義侠の相場師」とたたえられた栄之助は、北浜を代表する投資家となる。1909(明治42)年、栄之助は渋沢栄一を団長とする渡米実業団に、32歳の若さで選出された。
渡米中、栄之助はアメリカの大実業家アンドリュー・カーネギーが、私財を投じた音楽堂「カーネギー・ホール」を訪問した。社会貢献に積極的なアメリカの実業家の姿に感銘を受けた栄之助は、帰国後にある決断を下す。
「何しろ儲かるとばかりきまっていない商売だ。盛んな時に何か公共事業の為に、相当なことをしたい」と考えた栄之助は、父親の遺産と合わせて100万円、現在の貨幣価値で数十億円に相当するお金を大阪市に寄付する。これを元に、大阪市中央公会堂の建設が決まったのであった。
「百万円の寄付 大阪岩本氏の美挙」と、賞賛された栄之助。1915(大正4)年、渋沢栄一らも列席する中で、公会堂の起工式が華々しく挙行された。
「義侠の相場師」としての名声をさらに高めた栄之助。しかしこのとき、破滅へのカウントダウンが始まっていたのである。
相場を読み違えて・・・
1914(大正3)年の第一次世界大戦の勃発に伴い、軍需景気への期待から、株式市場は活況を呈していった。ここで栄之助は「やがて戦争は終わり、今度はその反動で株価は暴落する」と呼んで、敢然と売り向かった。ところが、株価の上昇は勢いを増し、やがて暴騰してゆく。
それでも栄之助は、売りを続けた。損失は雪だるま式に膨れ上がり、これまでに蓄えてきた資産も全て吐き出し、さらには追い証の支払いにも窮するようになる。遂には、顧客から預かった資金も使い果たしてしまうのだ。
見かねた周囲が、「寄付した100万円の一部でも、返してもらってはどうか?」と助言したが、「一度寄付したものを返せというのは大阪商人の恥だ」と、頑なに拒んだという。そして、「暴落」が必ず起こるはずだと信じて、売り続けてしまったのだ。
1916年(大正5)年10月22日。その日の大阪はすがすがしい秋晴れとなった。栄之助は岩本商店の従業員たちを連れて、京都・宇治に松茸狩りに行く予定だった。
しかし当日の朝、気分がすぐれないと店に残り、書類を整理したり、庭で燃やしたりした栄之助。午後になると理髪店で髪を整え、三越呉服店で肖像写真を撮ってもらった。
その帰り道、栄之助は大阪市中央公会堂の建設現場に立ち寄った。
その日の夜、夕食を済ませた栄之助は、ひとり、邸内の茶室に入る。「『ズドン!』と大きな音がして・・・」と妻が駆けつけると、栄之助は首から血を流して倒れていた。ピストル自殺を図ったのだ。
傍らには遺書が置かれていた。
「全財産を債権者に提供。妻子のためには一文たりとも使ってはならぬ」
「株式投資は自分一代に限り、子孫は決してすべからず」
巨額の寄付をしてから5年あまり。全財産を失い、借金まで抱え込んでしまった岩本栄之助は、自らの手でその人生にピリオドを打った。三越呉服店で撮影した肖像写真が、その遺影となったのである。
できなかった「損切り」
岩本栄之助の過ちは、「損切り」ができなかったことにつきる。どんなに偉大な投資家でも、思惑が外れることはある。重要なのは、その時に損切りができるかどうかだ。
機械的に取引を手じまい、損失を確定させる。これによって冷静を取り戻し、相場の動きを中立的な立場で見ることもできる。その上で新たな取引を始めれば、挽回のチャンスも生まれてくるのだ。
相場の世界には「見切り千両、損切り万両」という格言がある。含み損を抱えた株式があった場合、将来の値上がりをいたずらに期待するのではなく、損失が小さいうちに手仕舞うことが、結果的に「千両」、「万両」の価値があるというのである。
実際、栄之助の思惑は正しかった。栄之助が死を選んで程なくして、その思惑通り株価は暴落した。もし、いったん損切りをして、改めて売りを仕掛けていれば、栄之助は生きながらえることができたはずであった。
もちろん、栄之助も損切りの重要性を認識していた。そして、投資家仲間が、損切りできずに破滅してゆくのを何人も見ていた。
「儲かるばかりと決まっていない商売だ」と、語っていた栄之助だったが、結局は冷静さを失い、損切りができずに、破綻への道を突き進んでしまったのだ。
義侠の相場師が残した大阪市中央公会堂は、太平洋戦争の度重なる空襲を逃れ、老朽化による取り壊しの危機も、市民たちの保存運度で乗り切ることができた。
岩本栄之助の最期は悲しいものとなった。もし、人生を全うしていれば、証券界、そして経済界により大きな足跡を残したと思うと、残念でならない。
栄之助の遺書の傍らには、辞世の句が残されていた。
その秋をまたでちりゆく紅葉哉
39歳で夭逝した岩本栄之助。その成功と失敗は、全ての投資家が心にとめておくべき貴重なメッセージなのである。
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