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受けとるということ(後編)

めちゃくちゃ更新滞ってました、ごめんなさい。
11月後半、予定を詰め込みすぎて自分を過信してました。
今はなにもしたくないくらい腰が痛い・・・
バランスとるの上手にならないとですね・・・
みんなはどうしてるのかな・・・どうしてるかみんなと話したい~!

こんど話す会しよかな!来てくれる人いれば、だけどw

さて前回からずいぶんあいてしまったけれど、
続きを書かせてください。ちょっと長くなりました。


わたしは被差別という立場を経験したことがあって、
それでときどき学校の人権学習にかかわらせてもらえることがある。
わたしのポリシーの中で
「人権」はものすごく大きなウエイトを占めるので、
依頼があることそのものがとてもうれしくてありがたい。

今回は、夏に自治体の人権学習会の仕切りをさせてもらった関係で
高校の人権担当の先生が呼んでくださった。

自分の話をするのは勇気がいる。
それは自分が思い出すとつらいからとかどう思われるか不安だとかそんなことじゃなくて、
ただただ、勇気がいる。
ときには、ただの「教材」みたいに自分の話が取り扱われてる気分になることもある。
それにぶち当たるとやっぱり悲しくなるし、むなしくなる。
それでも依頼があれば引き受けたいきもちは変わらない。
自分の話がただの「教材」になってしまわないために、
打ち合わせやふり返りの時間をとってもらうことを提案させてもらい、
応えてもらえることが多くなってきた。
そのこともほんとうにありがたい。


今回、高校の先生と人権委員会の生徒との懇談からはじまり、
その後クラスでの対話、
そして研究授業の参観、という流れでかかわらせてもらった。

最初の懇談のとき、一部の生徒に話してそれを間接的にほかの生徒がきく、という構図に実は不安を覚えた。
まさに彼らが「どう受けとったか」確認することもできないままに、
それが伝聞され、またそれをほかの生徒が「どう受けとるのか」という課題があると思った。

でも不思議だったのが、終わったあとのわたしの中に
「やってよかったなー」って思いが100だったこと。

今までは「伝わっただろうか」と考え、
相手に伝わる言葉を選べたか、人権学習が嫌になってないだろうか、と悩むことが多かったけれど、
「あ~やってよかった!」が残った。

これもまさに「受け手」である先生や生徒がめちゃくちゃまっすぐわたしにかかわってくれたからだと思う。
それがわたしに伝わってきて、わたしが変わった。

生徒による伝聞の授業のあとで、
先生から「どのように進めたらいいかちょっと相談したい」と連絡があり、
再度お会いして、一度クラスにお邪魔させていただくことになった。
一部の生徒じゃなく、全員に会えて、顔を見ることができた。意見交換もできた。
「みんなの研究授業、見に来るね~!」と言って別れた。

そのときは、実は「伝わったかな~」と不安な気持ちは残った。
1時間しかない中で、全員の声をきくことはできなかったし、
リアクションもそんなにあるわけじゃなかった。
でも、わたしとしては「こういうのがあるべき姿」とか思ってるわけじゃないので、それはそれでかまわなかった。
こういうときはもっと自分の言葉の力を鍛えたいなあと思うばかりだ。


研究授業の日、偉い人たちが後ろにゾロゾロいて、先生も生徒も緊張する中で、生徒たちはグループに分かれて一生懸命話し合っていた。

人権学習って数学みたいに答えがあるものだ。
「差別はいけない」「差別をしない」「差別をなくす」と言っていればいい。
だからテキトーにテンプレの言葉を並べておけばいい。
わたしが学生のときは、自分はそんな態度だった。

最後に「差別をなくすためにどう行動するか」というテーマをグループで話し合って出されたものに、後ろの席でわたしは泣きそうになっていた。

そこにはわたしが学生時代にテキトーに応えていた、
「差別はいけない」「差別をしない」「差別をなくす」のテンションとはちがう言葉が並んでいた。

最後のグループがこう発表した。
「なぜ差別するのか、なぜ差別にこだわるのか、話し合いたい。」

わたしは心が震えていた。

わたしの話は、被差別の立場を経験して、どんな差別もどんな人権侵害も「ゆるさない」という反差別の立場なんだけれど、
自分の人生ではじめて出会った差別する人が実のばあちゃんだったという生い立ちのため、差別する人に「怒り」という感情が持てず、その立場やその経緯を想像してしまうところがあって、そうなると反差別の思いが伝わりにくくなることがある。
差別を克服する、差別をなくしていくにはどうすればいいか、という問いにも、自分自身まだたどり着けていない気がする。
やればやるほど迷い、悩み、そのとき一緒にいてくれる人たちで考えている、それがわたしの現実だ。

揺れるわたしのきもちをきいたはずの生徒たちの答えには、
反差別のメッセージがどのグループにも入っていた。
そして最後のグループには「話し合う」という、今、差別する側にいる人たちも巻き込んだ行動を提示していた。

この場に立ち会えてしあわせだなあと感じた。

帰ってから、それでもこの世界から差別がなくならないのはどうしてなんだろう、と考えた。
今日のみんながそのまま大人になったら差別なんてなくなるはずなのになあ、と思ったから。
そしてそれを手紙に書いた。もちろん、すごくうれしかったことも含めて。

そしたら後日、先生に呼び出されて、、、
宝ものをもらってしまった!!!

かわいいイラスト付き!目ちゃんと光が入ってる〜❤️

こんなのもらって、
わたしの人生、もう今日で終わっちゃうんじゃないだろうな?と思うくらいうれしかった。
一人一人、それぞれに感じたこと、考えたこと、思っていることを書いてくれていて、また感激した。
これからひとつずつ、お返事を書くところです。

生徒たちが、揺れるわたしの話をきいても反差別の強いきもちを持てたのは、先生の力が大きいとわたしは思っている。
授業のあとの分科会でも「被差別の人から差別された話を直接きかないと差別を理解できないのか」という問いについて話し合われた。
わたしはそれはちがうと思っていて、だけどそれには、先生の力量や熱意も求められるし、生徒の受けとる力も問われるだろうと思う。
受けとることが刺激されるのが、体験談や出会いであることはその通りだろうけど、そうじゃなきゃ理解できない、というのはちがうんじゃないかな、と思っている。
そういう意味で、今回の授業は、先生の思いやメッセージの影響がとても大きかったと思う。
よく言われる言葉で「じぶんごと」というのがあるけど、
先生が今回「じぶんごと」になったんだと思った。

月末、全国人権同和教育研究大会にも参加させてもらって、
そこでも、不条理な差別に「気づく力」、わからないことを「受けとる力」が必要なのだという学びをもらって帰ってきた。
わかった気になっていないか自分に問う力、
ほんとうにこれでいいのか社会を問う力、
その問う力が差別をなくすとしたら、やはり気づくこと、受けとることが大事なのだとわたしは考えている。

すばらしい分科会でした。今年も行けてよかった。

発信することが良いとさけばれる世の中だけど、
気づく人や受けとる人がひとりもいなければ、その発信だってなんにもなんない。
わたしのこの発信だってそうだよね。一方的な思いを読んでくれる人がいるってすごいありがたいことだなあ。

どうやったら「気づく力」「受けとる力」を育てられるのか。
あなたはどうやってそれをはぐくんでいますか?
ききたいなあ。








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