「受けとる」ということ(前編)
前の記事で「もらってうれしかったこと」、
そして「もらう」ことで自分がなんとか生き延びていけることを書いたし、
「もらう」ラッキーはそんなにたくさんはないから、
自分で自分を立たせる力、がいるなということも書いた。
そして書いてしばらくして、
どちらも「受けとる」ことが必要なんじゃないかって思った。
昔は家にテレビも1つだったし、インターネットなんてないから新聞や雑誌やテレビやラジオや、限られた媒体からほしい情報を血眼になって探していた。
高校のときは、この町には入ってこない雑誌を取り寄せてもらって、毎月わくわくしながらそれを見て夢を育んでいたなあ。
昔というのは、ほしい情報を手に入れるのには苦労する一方で、
特に欲していない自然に目や耳から入ってくる情報は、情報の媒体がみんなと一緒に使っているものだから、知らず知らずの内に入ってきて、身についていたのだなあと思う。
受けとろうとしなくても入ってきていたもの。
良くも悪くも、それも自分を形成していくひとつになっていった。
今はどうだろう。
ほしくない情報は、目に耳に入ってこないようにすることができる。
ほしい情報は、受けとる努力をしなくても向こうが勝手に選んで目の前に並べてくれる。
こんなに情報が泡のようにあふれている世界で、
なにを自分の中に入れるか、自分で決めていかなきゃいけない。
選択肢は山ほどあって選択できる自由がある。
だけど。
その選択が自分にとっていいのか悪いのか、誰もおしえてくれない。
その選択肢の先は何につながってる?
昔より簡単なようで実はとても大変な時代。
これは「昔がよかった」って言ってるのではなくて。
そして昔の人も今の人も、今のしくみの中で生きていたら、おんなじようになってしまうのだから、
「昔の人ならできる」と言いたいのでもなくて。
ただ、「受けとる」という力が削がれているのは事実だと思う。
自分自身も含めて。
戦争の話を直接してくれる人が目の前にいるのに
「経験していないからわからない」と言えてしまう世の中に、
わたしは生きている。
なぜそれを言えるのか、考えもしないで発言できるほどの世の中に。
とても怖いなと思っている。
受けとる力、感受性が敏感であればあるほど、
この世は生きづらい。
そうだろうと思う。
鈍感力という本も流行した。
ときに鈍感であることで、強く生きていけるとわたしも思う。
だけどそれでも。
それでも感受性を手放したくない。
受けとる力を鍛えていきたい。
どうすれば鍛えられるんだろう?
そのひとつに、映画とか音楽とか本とか絵画とか、
芸術や文化がそばにいてくれるというのがある、とわたしは思う。
生きていてうれしいのは、そういう作品に出合えること。
前から好きだったイ・ランなんだけど、ほんとに心の底から共感する。
わたしは音楽がとても好きだから、音楽で表現してくれるものに出合えるラッキーの中にいる。
あふれる表現の中にある、真を受けとりたい。
わたしにとってそれは、うれしいや楽しい、だけじゃなくて、
自分が傷ついたりショックを受けたり、考えさせられることも同時に起きることのような気がしてる。
先日、人権学習でかかわってきた高校生の研究授業に参加してきた。
わたしが話をして、高校生が受けとるという関係性の中の出来事。
そのことを次回書きたいと思う。