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リジョイス(ゴスペル・ハウスを聞く)

1992年9月13日と14日の両日、パラダイス・ガラージのDJであったラリー・レヴァンが、70年代後半から80年代前半にかけてプレリュード・レコードにおいて数々のダンス・クラシック~ガラージ・クラシック作品のミックスやリミックスを担当したフランソワ・ケヴォーキアンとともに、日本全国を回ったハーモニー・ツアーの東京でのパーティが、芝浦のナイトクラブ、ゴールドにおいて開催された。
このゴールドでのハーモニー・ツアーには、おそらく第一日目の方に行ったのではなかっただろうか。そのように記憶している。あの時点での気持ちとしては、一刻も早くラリー・レヴァンのDJをもう一度聴きたいという思いがとても強かったのである。この日から遡ること約二ヶ月前にもラリー・レヴァンはゴールドでDJを行っていた。その7月のパーティ(これはラリー・レヴァンの誕生日を祝うパーティであった)では、かなり身体の調子がよくなかったとみえ、二日間ともに全体的に少々精彩を欠いたプレイばかりが目立ってしまっていたのである。だから、今度こそは前回の分を取り返すかのような、何かすごいものが聴けるのではないかという期待感が強くあったのだ。生きる伝説であるラリー・レヴァンのDJプレイから、ほんの少しでもパラダイス・ガラージの雰囲気の片鱗のようなものを聴いてみたいという気持ちが猛烈にあったことも確かである。だから、前回の二の舞のようなことにはならぬようにと強く願ってもいたのである。よって、とにかくゴールドでのハーモニー・ツアーの初日に行って、自分の耳と目でそこで何が起きるのかを確認したかったのである。ラリー・レヴァンがDJとして見事に復活しているのか、いまだに調子を落としたままであるのかを。
この日のゴールドには、確かひとりで行ったはずである。いや、この日もとするのが正しいかもしれない。7月のラリー・レヴァンのパーティにも、二日間ともにひとりで行ったと記憶している。この頃には、周囲にハウス・ミュージックやガラージ・サウンドというものに興味をもつものは、段々と少なくなってきてしまっていた。かつて都内のあちらこちらでひっそりと開催されていたアンダーグラウンドのパーティにともに足を運んでいた友人たちは、もはやゴールドでのラリー・レヴァンだといっても色よい反応を示すことはなかったのである(ちょうど世代的に就職して社会に出る時期でもあった)。
80年代後半から一部で局所的に盛り上がりをみせていたハウス・ミュージックをはじめとするダンス・ミュージックのブームは、この時期に少し曲がり角に差し掛かっていたのかもしれない。アメリカの音楽業界では、もはやハウス・ミュージックはアンダーグラウンド・クラブだけで聴けるサウンドではなくなっており、多くのラジオ局でプレイされるメジャーでポップな音楽ジャンルのひとつにもなりつつあったのである。有名DJによるハウス・リミックス・ヴァージョンは、どのヒット曲のシングルにも収録されていた。イタロ・ハウスやUKハウスも盛り上がりを見せていて、もはやハウスはシカゴやニューヨークだけで生み出されている地域的特性のあるダンス・サウンドではなくなっていた。そこにフロリダ州のマイアミから登場したのが、オスカー・ゲータンとラルフ・ファルコンからなるプロダクション・ティーム、マークであった。彼らのプロデュースする独特の湿り気のある重く太い四つ打ちビートには、強い拒否反応を示す古くからのハウス・ファンもいた。ダークで思いきり重心が低い、それまではなかったようなべったりと黒いサウンドが、そこでは展開されていたのである。ソウルフルでファンキーな人間臭いガラージ系の音を好む友人が、淡々と反復するマークの楽曲を聴いてもどこがいいのか分からないとしきりに首を傾げていたのを思い出す。
また、あの90年代の初頭に実際にニューヨークに行って、ティミー・レジスフォードがDJをするシェルターのすさまじく猛烈なサウンドシステムの音圧と音響で、伝統的なガラージ・クラシックの数々を浴びるように聴いてしまったら、日本にいる時はすごいと思ってたゴールドのサウンドですら、それほど大したことなかったのだと思い当たってしまうのも致し方ないことであった。シェルターでティミーの激烈なるDJプレイを体験した友人は、それ以上を望むべくもない境地にまで到達してしまったかのような満足感に満たされていた。そして、「シェルターでガラージを極めた」という謎めいた言葉を残して、段々と日本のクラブには足を運ばなくなってしまったのである。ある意味において、92年というのは、かなり大きく時代が動き、いろいろと移り変わってゆく時期であった。そうした時代の動きの中で、ラリーとフランソワのハーモニー・ツアーが開催されたのである。
あまりに意気込みすぎていたために、やはりゴールドには早く着きすぎた。入場するとすでにメインのフロアでも音楽はプレイされていたが、あたりに人は疎らで、トレーニング・ウェア姿のレスリング選手のような風体のフランソワ・ケヴォーキアンが、レコードがぎっしり入った箱を抱えてセッセとDJブースに運んでいるくらいの時間帯であった。しばらくぼんやりしながら待っていると、ようやく人々がダンスフロアに集まり始め、ブースの中にお目当ての二人のDJの姿が見えてハーモニー・ツアーの本編の幕が上がった。序盤は、ラリーとフランソワが、時間を区切って交互にプレイしているような構成となっていた。この時点では、やはりまだラリーの調子はいまいち安定感に欠け、少しばかりムラがあるプレイが続いていた。なぜか、せっかくのいい感じの流れが出来上がってきても、それが持続することはなく、いつの間にかだらだらとなし崩し的に停滞してしまうのだ。すると、見かねたようにフランソワが近寄ってきてDJを交代し、しっかりとしたプレイでダンスフロアが求めているものに的確に応え、いい感じに場の空気を盛り上げてゆく。だがしかし、それを受け継いでブースに立ったラリーが、徐々にその流れをみるみるうちに窄めていってしまうという展開が、幾度か続いていた。ゴールドのダンスフロアは、時間帯によって、熱くなったり、冷え冷えとしてきたりを繰り返していた。
この日もまたラリーは、前回の7月の時と同じように、なかなか全体の流れを掴めずにいて、いまいち調子よくその場の空気感に同調できていなかった。ゴールドのフロアの独特な性質、サウンドシステムの癖、空間やクラウドの捉え方が、いまいちズレてしまっていたようである。だからだろうか、どうしてもラリーがプレイをしていると、次第にフロアが寒々としてきてしまっていたのである。几帳面にかっちりと流れや構成を組み立ててゆくフランソワのプレイ・スタイルとも、極めて感覚的でその瞬間の思いつきを重視するラリーのプレイは、それほどうまく噛み合ってはいないようにも感じられた。
だが、フランソワの執拗なまでに気迫をみなぎらせた熱いDJプレイが徐々にラリーにも伝染してきたのか、遅い時間になってくるほどに、いまいち噛み合っていなかった感覚が、まるでピタリと照準を合わせるかのように変化をみせてきたのである。まさに二人のDJのプレイがハーモニーをなす瞬間が、朝方に近い時間帯にようやく訪れたのだ。もはや、DJブースでプレイをしているのがフランソワなのかラリーなのかは、判別がつかなかった。そんなことは、全く気にならないほどにダンスフロアには、ニューヨークのダンス・ミュージックの真髄を伝える素晴らしい音楽が、怒濤の如く押し寄せていたのである。サウンドシステムから鳴り響くサウンドから深い愛のメッセージが弾けて、メイン・フロアの隅々にまで一気に拡散し、いつまでもダンスフロアに降り注ぎ、ゆっくりとそれを聴いているものの深いところに浸透してゆく。懐の深いグルーヴをもった音楽の激流のただ中に抱かれて、ただただ恍惚と陶酔が入り混じったダンスに浸り切っているダンスフロアだけが醸し出すことのできる、やわらかであたたかな歓喜の空気感だけがそこにはあった。
延々とクライマックスが続く高原状態に突入していた朝方のゴールドのダンスフロアに、ようやく再び静寂の時が訪れた。サウンドシステムから鳴り響く音楽が止み、ラリーとフランソワによるハーモニーでスレイヴ・トゥ・ザ・リズム状態を生み出した猛烈なる音楽の嵐から、ダンサーたちは歓喜の余韻に浸りつつも解放されたのである。だが、その静寂に包まれていたのも、ほんの一瞬のことであった。サウンドシステムからダンスフロアに荘厳で美しいピアノの調べが、ゆったりと流れ出してきたのである。ラリーの少年時代からの友人であったフランキー・ナックルズがリミックスを手がけた、サウンズ・オブ・ブラックネスのヒット曲“The Pressure Pt.1”であった。これは、壮麗なピアノによるイントロに続いて、力強く打ち鳴らされるパーカッシヴなビートがリード・シンガーのアン・ネスビーの強力な歌声とともに勢いよく弾け、どこまでもエネルギッシュに高まってゆく非常にアップリフティングなゴスペル・ハウスの名曲である。
四方がコンクリート剥き出しになっている早朝のゴールドに、力強いゴスペルのコーラスが唸るようにこだまする。ようやくラリーの肩がほぐれてきて本調子が出てきたと思ったら、嫌というほど存分に盛り上がらざるを得ない猛烈なDJプレイを繰り出してきて、その後にもさらに輪をかけて盛り上がる楽曲を平然と畳み掛けてくるのだからたまらない。後に、ヒサ・イシオカにラリー・レヴァンとは実際のところどんな人物であったのかを訊ねてみたことがあった。そのとき、非常に素っ気なくごく当たり前のことのように「ジェットコースターみたい(な性格)だった」と即答された。まさに、この日のDJプレイなどは、その通りのものであった。山があり谷があり、その先にさらに高い山がある。そして、その高みには限界などなく、どこまでも登り詰めてゆき、全く思ってもみなかったところまで攫われるように連れてゆかれてしまうのだ。このときに聴いた“The Pressure Pt.1”は、ニューヨークのダンス音楽とそれを生み出した文化の奥深さを、あらためて思い知らされるようなダンスフロアでのリスニング体験となった。
この日のラリーとフランソワのプレイには十二分に満足させられるところがあったので、敢えて二日目は行かなかった。あの調子であれば、ラリーはまた近いうちに単独で来日して、素晴らしいDJを聴かせてくれるのではないかと思えたからだ。ゴールドのダンスフロアをパラダイス・ガラージに変えてしまうようなDJを、そこで必ず聴くことができるであろうと確信させるに足るだけのものが、あのハーモニー・ツアーの第一日目にはあったのである。しかしながら、それが実現することはついぞなかった。この9月の来日の約二ヶ月後となる11月8日に、ラリー・レヴァンは心不全で急に他界してしまったのである。まさに、ひとつの時代を締めくくる伝説の舞台として設えられていたのがハーモニー・ツアーであったのである。これにより、ガラージは本当に過去のものとなり、名実ともにひとつの文化の一部、そして歴史の一部となってしまったのである。

サウンズ・オブ・ブラックネスは、40人のコーラス隊と10人のバンドからなる大所帯のゴスペル・ヴォーカル・インストゥルメンタル・グループである。その歴史は長く、すでに60年代の末頃から、地元のミネソタ州セントポールにおいてグループとしての活動を行っていたという。そして、80年代末にミネアポリスを拠点としてミネアポリス・サウンドなる独特のハイパー・ファンク・サウンドを作り上げたジミー・ジャムとテリー・ルイスからなるプロデューサー・ティーム、ジャム&ルイスにそのヴァーサタイルな音楽グループとしての実力を見出され、本格的に世俗の世界でのレコード・デビューを果たすことになる。“The Pressure Pt.1”は、A&M傘下にジャム&ルイスが立ち上げたレーベル、パースペクティヴより91年に発表されたアルバム『The Evolution Of Gospel』に収録されていた楽曲である。また、フランキー・ナックルズによるリミックス・ヴァージョンをメイン・トラックに据えたシングルもリリースされて、ハウス系のクラブ・シーンのみならず広くクロスオーヴァー・ヒットとなった一曲である。
ここで歌われているプレッシャーとは、人間が(より善く)生きるということに対して突き付けられることになるプレッシャーのことである。キリスト教の信仰者としてより善く生き、信仰心をもって敬虔に生きることに対するプレッシャーについての本質や根幹部分に迫る事柄が、シンプルかつストレートに歌われている。そして、それは一般的な意味での生きるということへのプレッシャーに対しても焦点をあててシンプルに多いなスケールで歌われているものであるがゆえに、そこに込められた宗教的かつ道徳的な正しさを伝えるメッセージは、極めて力強い説得力をもつものとなって響く。誰にでも簡単に口ずさめるコール・アンド・レスポンス(掛け合い)のフレーズが繰り返されるのは、主に黒人教会での礼拝の際に歌われるゴスペル音楽に絶対になくてはならない必須要素のひとつでもある。“The Pressure Pt.1”では、「The pressure」「Pressure of the world」「I believe」といったフレーズがそれにあたる。
この世の中を生きてゆくということは、人間の弱さにつけ込むような数々の狡っ辛い誘惑との闘いの連続である。それに打ち勝つために、私は祈る。神に祈ることで、わたしは信仰に生きるわたしの生をあらためて見つめ直すことができる。敬虔に清く正しく生きることは、辛く険しい苦闘の道をわざわざ選んで歩んでゆくようなものだといえるだろう。しかし、そんな苦しみの中にある時にこそ、救いの神は救済の手を差し伸べてくれるのである。だからこそ、わたしは祈る。そして、その祈りを神に聞き届けてもらうために、わたしは強く神を信じるのである。この世界において、わたしに襲いかかってくる様々なプレッシャーとは、そこでわたしと神との結びつきの橋渡しが堅固になされていることを証してくれるものでもあるのである。ゆえに、わたしは(このプレッシャーだらけの世界で)心から信じて祈るのである。
この信じることと祈ることを善きこととする歌が、フランキー・ナックルズによってリミックスされたサウンドともに高らかにサウンドシステムから鳴り響き、90年代初頭のゴールドを始めとする世界中のダンスフロアが熱く盛り上がっていたのである。東西の冷戦が終結し、湾岸戦争が起こり、文明と文明が(それぞれの精神性の拠り所とする宗教の教義と倫理的道徳心ををかざして)ぶつかり合う時代が、まさに幕を開けようとしていた時代のとば口にあって、わたしたちは両手を挙げて(実際には信仰していない神への)祈りと信心のフレーズを復唱しながら、我を忘れて繰り返される四つ打ちのビートのグルーヴに身を委ね、夜が明けて街の景色が白み始めているのも気づかずにスモークが立ちこめ照明が瞬く薄暗い空間でダンスに没頭していたのである。


ゴスペルは、聖書に書かれた教えそのものの内容に強く依拠し、それを伝導・伝達しようとする性格をもつものである。それゆえに、そうした教えを説いて聞かせるための歌であるゴスペル・ハウスの楽曲は、キリスト教以外の宗教を(できる限り遠ざけて)排除しようとする(傾向を少なからずもっている)ものなのではなかろうか。多くのダンサーたちに支持され大きな成功を収めたナイトクラブは、しばしば教会のような空間であるとも形容される。また、歓喜の感情が充満するダンスフロアで踊るエモーショナルなクラブ体験は、教会でのミサの一体感にも喩えられることがある。パラダイス・ガラージ、ウェアハウス、ギャラリー、ベターデイズなど、初期のクラブ文化の礎を築いた重要なナイトクラブが振り返られるとき、そこには必ず「まるで教会ような場所であった」という述懐の言葉が付いて回るのもそのためだ。サンクチュアリーやライムライトなどの元は教会であった建物をほぼそのまま再利用したクラブというものもニューヨークという街にはいくつか存在していたことも忘れてはならない。そこでは、DJとダンスフロアのダンサーとの関係性は、司祭と信徒・信者のような形式に非常に近いものになるのも当然といえば当然のことなのだろう。隔絶されたひとつの(それっぽい雰囲気のある)場所で真正面から向かい合うふたつの立場は、導くものとそれに付き従うものという二者の関係性に簡単に落とし込められてしまうものなのかもしれない。そこが、キリスト教の教会の雰囲気やムードを再現させたかのような下地をもつ、特定の宗教の雰囲気や空気感が充満した場所であったとしても、それでもそこがダンスフロアとしても成立してしまうというのは、それが(人種の坩堝であり他者に対する寛容性をもつ)ニューヨークのようなアメリカの都市の中であるからこそなのか。そう考えると、キリスト教国以外では、そこに教会のような場が出現するということは(厳密には/空気的にも/生活慣習的にも)おそらく不可能なのではなかろうか。大半のものがキリスト教の教会経験をしていない人々によって構成されているダンスフロアであったとしても、それでも“The Pressure Pt.1”がDJによってプレイされれば、そこに教会のような雰囲気が自然と立ち現れてくるものなのであろうか。
音楽とは、人種や言語の壁を越えて(特定の)宗教の枠なども越えて響いてゆくものである。それが、極めて宗教的な色合いを色濃くもつ音楽(宗教音楽)でない限りは。ただし、ゴスペルという音楽は、そうした宗教音楽的な色合いを少なからずもたされて成り立つ音楽である。それは、非常にモダンなスタイルへと進化を遂げてきた伝統的な宗教音楽の一種だともいえるだろう。ニグロ・スピリチュアルから派生したモダンな宗教音楽としてのゴスペルとモダンなダンス音楽とディスコ音楽のエッセンスを凝縮したハウスが出会うとき、そこにゴスペル・ハウスが生ずることになる。そうしたゴスペル・ハウスは、どれほどに宗教音楽としての色合いを(いまだに)もち得ているのであろうか。しばしば教会になぞらえられることもあるナイトクラブは、どれほどまでに教会としての聖性を保持しているのであろうか。宗教音楽としてのゴスペルが、モダンなダンス音楽であるハウスへとリアレンジされたとき、そのゴスペルとしての宗教音楽的な色合いはさらに(それを薄める方向へと)変化してゆくことになっているのであろうか。だがしかし、キリスト教を信仰していなくても、ゴスペル・ハウスで踊ることはできる。ダンスフロアでの経験から個人的にそう確信する。教会を経験していなくてもゴスペル(ゴスペル・ハウス)の高揚感を感じることはできるのだ。音楽がもつ熱量を感じることで、そこから何かが確実に伝わってくる。繰り返されるフレーズから、何らかの思いは伝わってくる。インクレディブリー・プリーチーと形容されるゴスペル・ハウスのページ(http://whatculture.com/music/10-awesome-classic-house-music-tracks-that-are-incredibly-preachy.php「10 Awesome Classic House Music Tracks That Are Incredibly Preachy」)で紹介されている楽曲を聴けば分かるだろうが、出来のよいゴスペル・ハウスには、敬虔な宗教信者でなくてもその世界に引きずり込まされてしまうものが確実にあるのだ。音楽や言葉を通じて宗教的な教えが頭の内部に理解という形で伝わるというよりも、その教えの根底にある先人を敬い他者を愛する気持ちが伝わってくるからなのであろう。そこで歌われているフレーズは、宗教的な教えである前に、人間にとっての善い行いや善い考え方を分かりやすく示したものでもある。そうした人間にとっての善さの徹底を戒律化し律法化していったものが、人間をより善いものとして生かしてゆく導きの道としての宗教なのである。人間のもつダンスする本能に訴えかける反復のビートにのせて、人間の根幹にある人間として在るべきものであると信じられている善さへの道を伝える言葉が繰り返される。それがゴスペル・ハウスというものである。そこでは、言葉にならない高揚感がダンサーを包み、無条件の共感を催させる歓喜の感情がダンスフロアに湧き上がる。その高揚と温かみこそが、ゴスペル・ハウスでのダンスへと人間を繰り返し向かわせ没入させることになるものなのである。
そして、それは日本のような無宗教の国においても起こりうるものなのだ。もしかすると、そこが宗教的にユルい場所であるからこそ可能になるということもあるのかもしれないが。宗教心や信心に対しての厳格さがまるでないからこそ、ゴスペル・ハウスのアップリフティングな高揚感とともに踊れて、その言葉やフレーズに諸手を挙げてしまうことができるのかもしれない。
しかし、キリスト教ではない宗教が多くの人々に信仰されている場所では、なかなかそうはならないのであろう。イスラム原理主義者の集団は、キリスト教の神を讃える“The Pressure Pt.1”で、えも言われぬ高揚感とともに踊れるであろうか。そこで歌われている全知全能の存在を自分たちの絶対なる神に置き換えることで、気持ちよく踊ることができてしまうのであろうか。とても寛容な人であれば、それは可能であるのかもしれない。だが、信仰に対して頑なになればなるほどに、それは難しくなるのだろう。しかしながら、それは、日本やアメリカでも同じことなのではないか。頑な人ほど、寛容さとはほど遠くなる。キリスト教徒でも敬虔な人であれは、神をたたえる歌が響くダンスフロアでゲイ・ボーイズが互いに体を密着させて、下半身を擦りつけ合って踊っているのを確認するやいなや、眉をひそめて決してそこに足を踏み入れることはなくなるであろう。瞬間的に目を背けて全て終わりだ。きっと、日本の真面目な(真っ直ぐなことが大好きな)人々もまた、それと同じような反応を示すに違いない。いや、理不尽にもその場で怒り始めるだろうか。
ゴスペル・ハウスが鳴り響くダンスフロアとは、そうした敬虔にして厳格なるものたちを前にしたときに、とても閉鎖的で、相容れないものを排除して、寛容には程遠いものとなってしまうのであろうか。いや、それは実際には不寛容の真逆のものであるはずのものなのである。では、どうして(宗教の厳しく頑な面を前面に押し出して)不寛容さに満たされた場に、そこはならないのだろうか。その理由は、(モダンな)人間は宗教の教えの解釈に(すでに)排除と不寛容を見ている(はずだ)からである。イスラム教徒は(イスラム共同体の外側の)イエスの教えに不寛容を見るだろう。ダンスフロアは同性愛者を受け入れない社会の狭隘なる倫理に不寛容を見ている。そこには、越えられない壁があるのであろうか。越えられない壁(外部)を作っている(作ってきた)のは人間の心や理性の方なのである。音楽も歌も宗教の教えも、本質や根幹においては、それを乗り越えることを説き、より善く生きるための方向性や方策を指し示している。しかし、それを真に理解し、実践して、行動できないのが、人間なのである。ならば、旧来の曇った人間の目を、クリアに見通せるものにしてゆくしかないのだろう。そこまで、人間はまだ、ちゃんと人間として進化できていないのだから。
なぜ人間は自分の前に壁を作りその先に自分とは違う誰かを見ようとするのか。基本的に、人間とは、誰も彼も同じようなものなのではないのか。ほとんど同じ作りであるからこそ、同じ酸素濃度の地球上で同じように生きてゆけるのである。人間が集団となって社会を形成しえるのもそのためだ。ハウスのビートとは、誰にでもリズムをとり、ステップを踏み、体を揺らすことのできるものであり、壁も違いもなく、全てを取り払ってノレるものである。これを何の隔たりもなく、(外側も内側もない社会に生きる人間として)誰もが楽しむことが出来るような世界にならないと、人間は本来の人間らしい人間にはなれない、のではなかろうか。そうでなくては、いつまでも、曇ったままの、片手落ちな人間のままでいなくてはならない。サウンズ・オブ・ブラックネスの“The Pressure Pt.1”を、その耳は地球上の誰にでも共通する自然状態での生の自由へとつながる、人間が(より善く)生きることについての歌(でもある)と聴き取ることができるであろうか。曇った目だけでなく、ねじ曲がった耳をもつものには、ゴスペル・ハウスの歌の本当の深さや広さを(いつまでも)決して聴き取ることはできないであろう。

条理空間(区分された空間)は平滑空間(滑らかな空間)にもなることがある。ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリは、権力による抑圧を行なう国家装置と自由で開放的な遊牧民の空間は、互いに混淆することでしか存在を露にしないという。つまり、ダンスフロアという平滑空間もまた、時として閉鎖的で抑圧的な条理空間に限りなく近づくということも大いにありうるということだ。ダンスフロアのダンサーは、思い思いの方向を向いて、思い思いのステップを踏んでいる。しかし、その空間の中の各構成要素が過剰なまでに同期し同調し一体化しすぎると、ダンスフロアのダンサーが一様にDJの方向を向いて、単調に刻まれる音楽のビートに合わせて、完全に統制された画一的なステップを踏むような状況が生み出されてしまうこともあるということなのである。
人間と人間の関係性やコミュニケーションというものは、(いずれかが完全なる悪や絶対的な善ではない場合)すべからく均衡状態に落ち着いてゆくものである。そうした場面で指導的/先導的な役割を担うもの(混濁しているものを高いところに押し上げるもの)のひとつが、絶対者たる神(イエス)である。その聖なる存在が身代わりとなって究極の善と悪の形を(永遠の相のもとに)示すことで、そこには愛と平和に満ちた空間へと向かってゆく(究極という極端には走らない中庸たる)道が見出されてゆくことになる。また、そこに見いだされたものが、思い込みの激しい全体主義的な煽動家によって示された道であったとしたら、その神の身代わりのような言葉に大衆/集団はいとも簡単に付き従ってゆき、愛と平和とはほど遠い場所へと導かれていってしまうのであろう。ただし、イエスがファシストや差別主義者のような表情を見せることもよくあることだし(非信仰者への強権的なる態度)、ファシストがイエスのような説教めいた言葉を語ることもしばしばある(盲信者へ向けられる屈託のない優しさと愛情)。そのこともまた、決して忘れてはならないであろう。
ヒップホップの世界においては、ステージでラップを歌うラッパーは「イエス・イエス・ヤオール(yes yes y'all)」という煽りの語気を多分に含んだ呼びかけのフレーズを常套句のように用いて、その場をホットに盛り上げてゆく。これは、非常にオールドスクールなフレーズであるので、最近のラッパーはこんな野暮な言葉を多用してステージを盛り上げたりはしないのかもしれない。もし使っているラッパーがいたとしても、それは意図的にオールドスクール趣味を前面に押し出した色物ラッパーである可能性は非常に高い。だがしかし、それが色物扱いされるパフォーマーであったとしても、このフレーズがヒップホップの世界での伝統的な常套句やイディオムとして認識されているものであることには変わりはない。ここでいう全ての人(オール)とは、基本的にはその会場にいる全ての人を限定しているオール(みんな)である。そこにいる人ではないそれ以外の人々は、そのパーティに参加している仲間ではないから、ここで呼びかけられているみんなではない(みんなには含まれていない)のである。その、ここにいない人たちは、ここにおらずオールの呼びかけにも含まれていないことを理由に、今ここにいる自分たち(パーティ仲間)とは相容れない人々として認識されることにもなる。だから、ここにいるわたしたちだけで、今ここで盛り上がろうとラッパーはマイクを握りしめてステージから力強く呼びかけるのである。
この「イエス・イエス・オール」には、その後に続く、ひとつのセットになっているフレーズがある。それが、「スロウ・ユア・ハンズ・イン・ジ・エアー/アンド・ウェイヴエム・ライク・ユー・ジャスト・ドント・ケア(Throw your hands in the air / And wave 'em like you just don't care)」というものである。 みんな周りのことなど気にしないでとにかく騒げと、ステージの上から投げかけられるさらなる煽りの言葉である。周りのことを気にしなくてよいのは、そこにいる全員が「イエス・イエス・ヤオール」と気安く語りかけることのできるパーティの仲間だからである。よって、何も気にせずに腕がちぎれるくらいに大きく振って騒いでもよいのである。この場で自分と同類のパーティ仲間と楽しく過ごせるのだから、大きく振った腕が千切れたって気にするなということでもある。きっと、その腕は誰かが拾って元の持ち主のところに届けに来てくれるだろう。また、気にしないという「ドント・ケア」という言葉の裏には、ここ以外のよそのことは気にしないという意味も含まれているはずである。ステージ上から放たれる言葉/フレーズには、こことよそを明確に区切り、瞬間的にそのふたつをわけ隔てて、我々と彼らを差別化してしまえる説得力をもった響きがある。そこでは、話すものと聞くものが言葉をのせた音楽によって強く結びつけられている光景を目にすることができるだろう。そこには、教義のグルーヴにのって噛み砕いた教説を説き聞かせ、信者ひとりひとりと説法と信仰心で結びつく、教会のプリーチャーマン(説教師)の姿を思わせるものがある。
過激な思想をもつテロリスト集団、イスラム国の周辺にはラッパー(元ラッパー)という肩書きをもつものがちらほらと登場する。パリのシャルリー・エブド襲撃事件に関わっていたテロリストが元ラッパーであったという事実は、少なからず象徴的なものであったようにも思われる。これは、ラッパーがすべからくテロリストの資質をもつものであるとか、主としてラッパーであったものがテロリストになりやすいといったことでは決してない。元はラッパーとして思索/詩作し語っていたものが、さらにその先の新たな自己というものの表現の方法の拠り所として、(日常のレヴェルと突き抜けるほどに)過激な思想に接近しやすくなっているという点が、非常に興味深いのである。過激な思想に接近することぐらい誰にだってできることである。ただ、その中で元ラッパーが目立つ存在となっているのはなぜなのであろう。そこには何らかの理由があるのではなかろうか。話す行為に用いられることで、言葉は容易に排除や攻撃の道具となる。とてもとても簡単に。そうした火花が散るような言葉でのバトルに、最も日常的に慣れ親しんでいるのがマイクを握って徹底的にやり合うラッパーであるのかもしれない。言葉で自らの意図するところを正しく伝えるためには、適切な言葉を選んで自らの思考を事細かに具に的確に表明(ステイトメント)しなくてはならない。それゆえにか、(それが一歩も退くことのできない熱い語りであればあるほどに)向かう方向が少しずつズレてきてしまっていても、そのまま微調整しながら突き進んでしまうことがある(方向よりも前に進行してステイトメントすることが優先されるために)。そうしたズレたり微調整したりを繰り返しているうちに、言葉がもつ曖昧さは極力消し去られて、自らの言葉の意図するところとは相容れない外部もまたそこから極力消し去られて、武器としての言葉から殺傷能力の低いものは排除されてゆくようになる。そして、大抵の場合は、それらの言説は全て極めて自分にとって都合がよいように結論づけられてしまうようになるのである。その自分にとって都合のよい消去や排除を経て根を失った言葉は、ただそこに漂流し、自分にとって居心地のよい場所へと流れ着いてゆくことにもなる。そんな風にして正当化されているのが、イスラム原理主義やイスラム国のテロリストの思想であり、それとは真逆の集団(テロに屈しない、テロと戦う集団)の考え方であったりもする。ただし、過激な言葉を捲し立てていたラッパーが、生まれ変わったように敬虔なる宗教者になる可能性もないわけではない。信仰にまつわる躓きは、いたるところにある。しかし、強い意志の言葉を発するものは、極端に厳格で頑な方向性に向かいがちだという傾向は、(いずれにしても)あるのではなかろうか(その人物が、どんなに冷静で聡明であったとしても、強い言葉の力に自らの方向性が引っ張られていってしまうような事態は、決してないとはいえない)。
言葉というものは愛の表現にも憎悪の表現にも用いることが可能なものである。そのどちらにも振れてしまう針を正しい方向に導き、あちらかこちらかといった次元を乗り越えさせることこそが、そこに付帯する音楽の役割というものであるのかも知れない。音楽には、そこにある感情や意思の言語的な表現/表出をよりポジティヴ(善/良)な方向へと導いてゆく力がある。“The Pressure Pt.1”のイントロの美しいピアノの響きには、キリスト教徒でなくても心を震わせられるものがあるだろう。ラッパーが煽りの言葉をのせている小気味よくシンコペートするブレイクビートやベースラインは、その場で思いきり手を振るBボーイでなくても心地よく体を揺らし頭を振ることのできるものであるだろう。“The Pressure Pt.1”のリミックスを手がけたフランキー・ナックルズの流麗なるサウンドは、それだけでリジョイスな空間的響きをもつものであるし、「イエス・イエス・ヤオール」という言葉がのる大らかで懐の深いビートは、それだけで全ての人をロックさせる説得力をもっている。
憎悪の気持ちをかき立て、排除の意思を煽り立てようとする音楽に、美しい響きや心地よいリズム感(グルーヴ)といったものが宿ることはあるであろうか。美しさや心地よさは、憎悪や排除の思惟を伴う音楽の中に共存することはない。もしも、憎悪の感情や排除の意思をかき立てるための音楽があって、そこに美しさや心地よさがともなっていたとしても、それはそこ込められている感情や意思をより憎悪や排除へと向かわせる方向へと(偽りながら負の方向へと)ポジティヴに導いてゆくものとしてあるのだろう。音楽のもつ美しい響きとは、決して美しさを憎悪する響きにはならないし、心地よいノリは、そこにある心地よさを排除するグルーヴを生むようなことは決してない。


81年、三人組のシンセポップ・バンド、ヘヴン17は、彼らにとってデビュー作となるシングル“(We Don't Need This) Fascist Groove Thang”を発表した。ヘヴン17は、英国のシェフィールドにて結成され70年代後半から活動を続けてきたヒューマン・リーグを脱退したマーティン・ウェアとイアン・クレイグ・マーシュによって(ヴォーカリストのグレン・グレゴリーを迎えて)結成された新バンドであり、(ウェアとマーシュの脱退を受けて新体制で再出発した)ヒューマン・リーグやデペッシュ・モードなどとともに80年代初頭のテクノ・ポップやシンセポップの世界的なムーヴメントを牽引したグループでもある。“Fascist Groove Thang”は、強靭なる国家づくりを目指して右傾化する超大国と西欧諸国を中心に動いているいびつな国際情勢に対して真っ向から反抗の意思を表明し、共和党選出の米国大統領ロナルド・レーガンを名指しで独裁者アドルフ・ヒトラーと併置しファシストと糾弾している楽曲である。そうした(英国保守党党首マーガレット・サッチャーによる非情なる新自由主義的な政治に対する批判も色濃く含む)歌詞の内容が災いし、思想的に偏向していると見なされたために国営の放送局BBCからは放送禁止の処分を受けることにもなる。しかし、そのウェアとマーシュによってプロデュースされたソリッドでミニマルなエレクトロニック・ダンス・サウンドは、国家権力の息のかかったラジオ局のDJではなくナイトクラブのDJがレコードをチョイスしてプレイすることによってダンスフロアで好評を博し、英国だけでなく世界各国でダンス・ヒット/クラブ・ヒットを記録することになる。米国では、大メジャーなビルボードのダンス・チャートにおいて29位にランクされる、スマッシュ・ヒットを記録している。おそらく、この話題の楽曲はシカゴやニューヨークのアンダーグラウンド・クラブでもヘヴィ・プレイされていたはずである。地下の薄暗いダンスフロアにうごめくダンサーたちは、レーガン政権の強圧的な政治の影を跳ね返すように、ハイ・エナジーなミニマル・ビートに合わせて激しく身を躍らせていたに違いない。
ファシスト・グルーヴに対抗するための重要なアクションにして、それをストップさせることができるものとされるのが、ファンキー・チェイン・ダンスである。ファンキーで自由な律動をもつダンス音楽で終わることのないダンスをいつまでも(チェインして繋げて)続けるのだ。まさに「それが、ぼくらのレジスタンス」というわけである。切れ目なくどこまでも反復を繰り返すビートを特徴とする、ハウス・ミュージックは、そうしたレジスタンス(抵抗運動)の最右翼をゆくダンス音楽といえるであろう。DJがプレイするハウスは、上からのファシズムやレイシズムに抵抗し対抗するための、社会がその奥底に保有している最も有効な武器のひとつの表れとしてある。“Fascist Groove Thang”の曲中では、「ジッとしていないで、君のダンスを踊れ」とも歌われている。すでに敵は動き出している(ことをメディアを通じてニュースは伝えている)のだから、ボーッとしていると、そのままファシスト・グルーヴに押し流されてしまうことになる。歴史は何度でも繰り返される。リアルなファンキー・ミュージックとチェイン・ダンスで、あのファシスト・グルーヴの暴走を食い止めなくてはならない。
独裁者ヒトラーもまたファンキーなノリをもっていた。そして、そのグルーヴで、人々を魅了していった。ファンキーなグルーヴごときは、抵抗運動だけがもつ武器ではない。ファシストやレイシストは見境なく使えるものは何でも(便利で手頃な戦争機械として)利用するのである。ゆえに、その力によるファンキーを越える自由でエキセントリックなファンキーでないとカウンターフォースとしては機能しない。心地よいグルーヴに負けないように、さらなる心地よさをもつグルーヴを用意しなくてはいけない。あれこれと考えることを厭う本能から、何も考えずに身体を(画一的に)動かすことのできるグルーヴを人は求めるようになるものである(それが、ぼくらの自発的隷従)。その人間のピュアな欲望に合致する心地よさをもつのこそが、その時々のファシスト・グルーヴとなるのである。その強烈に享楽的なグルーヴは、多くの何も考えずに独裁者(ハメルーンの笛吹き)の後をただ追随する人々を生み出すようになる。ファンキー・チェイン・ダンスとは、そうした人々の目を覚ます(アンロックする)ダンス音楽やダンスのステップを現出させるものでなくてはならない。

20世紀フランスの思想家、ジョルジュ・バタイユが書いたように「至高であるかのごとき審級を頭部に戴く共同体」としてのファシズムは、いたるところで蘇る(歴史は繰り返される/心地よいグルーヴは心地よく反復する)ものなのである。共同体・コミュニティに、至高なものが生まれるとき、そこに同時にファシズムの芽もすでに生み出されている。人間が集団化するものとしてのコミュニティは、必ずそうした方向に向かうものであるといってよいだろう。優良なる共同体のあるところには必ずファシズムが潜んでいるのだともいえるのだ。教会に喩えられるナイトクラブにおいて、DJは神か司祭でるかのごときものとなる。そうしたダンスフロアという刹那のコミュニティであっても、それは全体主義的傾向の芽を(意外にも)孕んでしまうものなのである。DJブースのある方向ただ一点を見つめたダンスという形の現出というのは、ある種避けられないものであるのだろう(自発的に隷従する人間の本能として)。しかし、ダンスフロアとは、本来的には、薄暗く孤独に自由に踊れる場所ではなかっただろうか。宗教の起源には、否定の否定がある。人間が人間となるために人間を追い込むこととなった事物性の囲いが破壊される(限定された人間の本性の回復)ことで、ひとつの共同体という大きな全体の中から聖別された至高者の出現が促されることになる。事物化した人間の(個としての人間の)、(人間からの)解放がなされることで、そこに精神的なレヴェルで全体主義的にひとつにまとまった(至高であるかのごとき審級を頭部に戴く)(宗教的)集団が現れるのである。
人間が生きることや愛することについてのシリアスな側面を音楽とともに聴いて感じようとするパーティがある。ロフトやパラダイス・ガラージからの伝統を受け継いでいるダンスフロアが、それである。そうしたパーティやナイトクラブは、現実の世界とは隔てられ、世界から隔離された場所として、そこにある。現実の社会や世界とはギャップがあり、普通の社会や世界の常識とはかけ離れた(オルタナティヴな)場所であるからこそ、そこから逆に現実の社会や世界を少し異なった視点から見渡すこともできるのではなかろうか。現代社会は、多くの問題を抱えている。しかし、同じ世界の中に没入している状態であると、なかなかそれを(客観性をもって)見通すことはできない。ダンスしてパーティする。そのことで世界の何を解決することができるだろう。実際のところ、ダンスしてパーティするだけでは、何も解決されることはないだろう。だが、そうした社会や世界から隔絶された外側の場所から眺めてみて考えることで、そこにある不正義や不条理やブラックやグレイなものを何とかしようという明確な問題意識が初めて芽生えてくるということもあるのではなかろうか。
アンダーグランドのパーティは、(内と外のグルーヴとダンスのギャップを顕在化させる機能を果たすことで)適度な刺激にはなるだろう。だが、それだけでは、俗なる世界のファンキーな有り様を、そのまま固定させることにも繋がってしまうのではなかろうか。瞬間の解放で、空疎に口を開けていた風穴を満たされて、再び日常に戻ってゆく。そんなパーティの繰り返しでは、少しずつ内と外のギャップは感覚の麻痺とともに埋められてゆくことになり、本能的な隷従に基づく自浄作用の働きをも許してしまうことになるのではなかろうか。そして、何も考えず何も疑いもせずに、ファシスト・グルーヴに合わせて何となく画一的に身を揺らしてしまうようになるのだ。
人と人との結びつきや心と心が共振する共感、そして深い愛というものが感じられるパーティで、精神的に満足し、それが意味のある(特別な)一夜であったことを理解する。しかし、それはまだ本当の解放ではない。真の解放とは、即座に人間が(人間として)その意味を理解できるような、そんな簡単なものでは決してないのである。意味を理解するようなレヴェルではどうにもならないのだといってもよいだろう。そんなそう容易くは理解できないものであるからこそ、それの追求はどこまでも終わらずに続くのである。一夜では終わらないグルーヴとパーティを目の当たりにして、そしてそれを理解しようと試みる。人間の理解が及ばぬところで自分を見失い、自然の否定が否定される(人間による人間の事物化の否定/繰り返し押し寄せるいくつもの同じ波頭のひとつとなる)。それは(最早)否定され得ない否定であり、(そのまま)どこまでも解放の向こうに突き抜けることはない。だからこそ、その瞬間を何度も何度も反復するのである。ギリギリのところまで登って、その瞬間に近づき滑り落ち、また登るの繰り返しだ。それを意味付け理解することで、それは日常のサイクルの中に回帰してしまうことになる。言語化し理解が可能な、偽の解放にして処理してしまうところで、そこにひとつの区切りがつくのだ。つまり、文節がついて、その中に捉えられる(読み取られる/誰にでも読み取れるものとなる)のである。そうした理解もまた、言葉にならないところにもう一度到達しようと最初から同じことを繰り返す起点となることもあるだろう。ただし、それが偽の反復で、お手軽であるがゆえに(お手軽に理解され言語化されてしまうものであるがゆえに)、その本来は言葉にならないものであるはずの高みは、より卑俗なものである宗教性とも結びついやすいのである。そして、その偽装された回路を通り続けることで、それはお手軽な救済や刹那の救済をも可能なものとしてしまうのである。
司祭を至高であるがごときものにし、おぞましい悪しきものとしてその聖性を分別し切り離したいと欲する、人間にとってのとても危険な部分は、どこに隠匿されているのであろうか。それは、ダンスフロアに瞬間的に現れる、陶酔と高揚感の中で、忘我の境地にある人間の中に熱病のごとく戻ってくるのだろうか。そこに触れることで、ダンサーは自然のままの存在であることを否定した自分を、その闇の中で(再び)見失うことになるのではなかろうか。その解放の瞬間がいつまでも続くことを願いながら。そして、同時に、そのままの高まった瞬間がいつまでも終わらずに高みから戻ってこられず(人間の世界での)迷い子となってしまうことに底知れぬ恐怖を感じながら。それこそが、終わることのないファンキー・チェイン・ダンスというものであるのかも知れない。それは、どこまでも純粋に歓喜と恍惚に満たされたものでもあるだろうから。

日本人には、(やや複雑な背景をもち、やや縁遠い文化に根差した)ハウスは難しすぎたのだろうか。歌詞、サンプリングされているフレーズ、曲中に繰り返し登場する言葉などが、ハウスにおいては重要なキーワードになっていたりする。よって、その言葉の意味が分からないと根本的に厳しいのではなかろうか(言葉の意味が摩滅するほどにズタズタに切り刻まれたサンプリングのフレーズも存在するが)。義務教育期間中にしっかりとした語学教育がなされているにも関わらず、英語の読み書きや聴き取りに自信がないという人は驚くほどに多い。英語が聴き取れないから、短絡的に日本人にハウスは難しいというのであれば、全ての洋楽は日本人には難しいということになってしまうことになる。しかしながら、ハウスの場合には、ハウス・イズ・フィーリングというフレーズがあったりして、ハウスとは感じるものであるという考え方が古くからある。それゆえに、そこで歌われている歌詞の内容が全て聴き取れなくても、ダンスフロアで音を浴びる肌を通じて肉体や皮膚感覚でそのメッセージ性を感じ取ることができるという迷信が、真しやかに存在してもいた。しかし、実際には、ハウスのメッセージ性ほど繊細でセンシティヴなものはないようにも思われる。それは非常にディープで奥深いものでもあり、極めて感覚的に表層的な部分を捉えてどうこうできるようなものではなかったりもするのである。
原本でメッセージが伝わらないのであれば、そうしたメッセージ性を輸入し翻訳した日本語のハウスが、できればよいのではなかろうか。だが、ハウスのような反復する四つ打ちビートのシンプルなサウンドに、独特の抑揚とやわらかな風合いのある日本語をそこにのせると、妙に音楽から浮いてしまってダサくなる傾向があるようだ(かといって、ぶっきらぼうなブツ切り言葉であっては繊細な表現からはほど遠くなる)。よって、基本的に(日本において)作られるのはインストゥルメンタルの楽曲が中心になってしまう。そこでは、メッセージを伝える役割を、ディスコやソウル/ファンクの定番曲からサンプリングしたサンプル・フレーズが肩代わりしてくれることも多い。日本人が日本語で歌うよりも、そのほうがハウスのシンプルなサウンドにはマッチするし、わざわざ人が歌うのを録音するよりもサンプリングのフレーズを加工してゆく方が使い勝手が格段によかったりもする。そうした作り手の側の手間の面からしても、日本人には(日本人による日本人のための日本語の)ハウスは難しいものなのではなかろうか。
ハウスには、小洒落た雰囲気を楽しむためだけのものであったり、パーティのためのダンス・ミュージックとしてだけ聴くという側面がある。しかし、それでは、その本質の部分がなかなか伝わらないだろう。これは、ハウスのとても小難しくて面倒臭い側面でもあるのだが、やはりハウスは小洒落たパーティ・ミュージックとしてだけで完結するものでは決してないし、ノリノリなパーティの表層の雰囲気だけを切り取って「ウェーイ」となれればそれでよしという類いの音楽では決してないのである。
ひと頃、まるで流行病のように流行した「音楽の力」という言葉がある。要するにパワー・オブ・ミュージックである。東日本大震災後、被災地の被災者を音楽で勇気づけ元気づけようとする大小様々の催しが企画実行され、そこでは必ず「音楽の力」という言葉が、キーワードのように何度も口にされた。音楽には力がある、とても大きな力が。人が言葉で伝えるよりも、遥かに大きなものが音楽を通じて伝わることがある。音楽には、そうした不思議な力が本来的に備わっている。それならば、ハウスも、そのグルーヴそれだけで、何か特別なものを伝えることができるのではなかろうか。ダンスフロアで、無心になり、音に没頭して、踊って、(まるで修行僧のように)それを感じれば、そこにある何かが分かるのではなかろうか。だが、音楽の力というものを信じる(過信している)がゆえに、実際にハウスをハウス・イズ・フィーリングの作法通りに聴けばきっと何かが伝わるだろうと考えてしまうことがあるのである。だが、実際には、どんなに長時間に渡ってハウスで踊り、巨大なサウンドシステムから放たれる爆音を浴びるように聴いたとしても、身体が疲労を覚えるだけで何も内面には伝わっていないこともあるのである。
ハウスとは、それほど万能なる音楽ではなかったのかもしれない。言葉の壁も人種の壁もあらゆるものを越えて、世界中のどんな人々にも響いてメッセージが届くと思い込んでいたのだが。もしかすると、そういう考えは、一度きっちりとあらためておかなくてはいけないのかもしれない。ハウスには、とても有意義で示唆に富んでいる部分がある。だがしかし、それは誰にでも感じられ、理解のできるものではなかったようだ。それを感じたり、理解したりするには、それなりの能力や知力や直感が必要とされるということのようである。
完膚なきまでに平等に個々人の有する能力や知性のレヴェルの差など何も問題にされずに、ただただ楽しくパーティして大勢で「ウェーイ」となれれば、それでよい。それが、(ごく一般的な意味での)現代的な感覚におけるダンス音楽が享受される形であり、一般的に(今の感覚で)ハウスと呼ばれている音楽の最大公約数的な楽しまれ方であるはずであるから。だが、それではもう(厳密には)ハウスとはいえないのかもしれない。ハウスとは、ただのパーティ音楽ではなかったはずだから。
ハウスは、もうその役割を全て終えてしまったのだろうか。両手を挙げて「ウェーイ」が主流な時代においては、ただの時代遅れの古いダンス音楽でしかないのかもしれない。
それを(正しく)楽しむために(ある程度の)能力や知性を必要とするハウスは、子供から大人まで無条件に楽しめるものであるはずの商業的娯楽音楽にあるまじき小難しさをもつ音楽であったのであろうか。実際、ある意味ではそれはとても難しいものでもあるのであろう。それは大自然の懐に抱かれて長閑なる自然状態の中で生み出された音楽ではないから。そして、それは全く自然な状態とはかけ離れた厳しい社会状況や差別や偏見などの社会問題を背景に生み出されたという大変に重要なバックグラウンドをもっているものなのである。だが、そうした部分であっても、少しでも(それが何であるのかを真剣に)感じようと努力し、少しでも知ろうと努力することで、全く難しいことではなくなってゆくはずなのである。ただし、感じること、認識すること、理解することというのは、少しでもその対象に対する関心や興味がなくては何も始まらないものではある。
そうした努力を怠るだけでなく、そうした努力を全く意味のない(パーティには)不必要なものと最初から決めつけて「ウェーイ」としているのでは、いかんともしがたい。それが時代の主流であるならば、そうした主流に音楽の未来はないのではなかろうか。もはや、音楽の未来なんてどうでもよいことなのだろうか(もう音楽に未来はないのだ)。対象に対して関心も興味も抱くことなく「ウェーイ」と楽しめればそれでよいのであれば、ハウスのような小難しい音楽は全く必要はなくなるのだろう。ただの機械的でシステマティックな重いビートの反復と珍奇なる刺激的な電子音の取り合わせを浴びたいだけ浴びて惚けたように踊り続ければよい。それなのに、まだハウス(っぽいダンス・ミュージック)でパーティしたいと欲することは、ただのハウスという音楽に対する冒涜にほかならないのではなかろうか。
総じてダンス音楽というものは、実はそれほどお手軽なものではない。一所にジッとしていることができず踊り出さずにはいられなくなった太古からの人間というものが背負い込んできた業というものが、そこにはじっとりずっしりと染み込んでいる。後期近代以降のパーティ音楽というものは、何も考えずに「ウェーイ」となれればそれでよいという側面を少なからずもっているものであるのかもしれない。だが、ハウスなどのダンス音楽を生み出した、地下のパーティの人目を忍んだ空間は解放と逃避の場でもあり、そうしたお手軽なパーティだけが行われていたダンスフロアでは決してなかったのである。パーティにも様々な種類があり、(ハウスなどを生み出してきた)パーティにも歴史がある。それを知っていてパーティをするのと、知らずしてパーティをするのでは、パーティの意味や意義の捉え方は大きく違ってくるであろう。
四六時中そうした部分を意識してパーティをしなくてはいけないのではない。今そこでパーティが行われていることと、過去にロフトやパラダイス・ガラージでパーティがあったことは、決して縁遠く遠くかけ離れたことではないということなのだ。過去の様々なパーティがあったからこそ、今現在のそのパーティがある。そして、そのパーティは、遠い未来のパーティにもつながっている。ずっとずっとパーティは、70年の2月14日にデイヴィッド・マンキューゾのロフトが最初のパーティを開いた夜から終わることなく続いているのだともいえる。そして、今ここでまたパーティが行われることで、どこまでも終わることなく(パーティの伝統は)引き継がれ継続されてもゆくのである。そうしたパーティに対する意識が、パーティそのものを大きく変えてゆくのではなかろうか。パーティとは、その場で「ウェーイ」となれればそれでよいというものでは、実は決してないのである。
小難しいものを敬遠してばかりいては、いくらお気楽なパーティといえども、それはどこまでも俗悪と醜悪に落ちてゆくだけである。実際のところ、「ウェーイ」となるためのパーティという場所は、ずっと以前からそのような状況に陥りやすい場所であったことだけは間違いない。マンチェスターのナイトクラブ、ハシエンダは、ただただ無条件に最先端の音楽とパーティを楽しめる場所を追求していった結果として、ドラッグの売買に関わる街のギャングの溜まり場となって、ナイトクラブとしての機能を保てなくなり閉店することになってしまった。そうした例は枚挙に暇がない。小さな仲間内での小さなコミュニティの楽しみとしてスタートしたパーティも、それが段々と大きな盛り上がりをみせてゆくに連れて、様々な人が足を踏み入れる場所となる。その中には、何もパーティの成り立ちについて考えない、ただ「ウェーイ」となれる楽しい場所を求めてやってくる人もいるだろう。そのような閉じた共同体が社会の片隅において開かれたものになってゆくときに、ダンスフロアを俗悪や醜悪に陥れないようにするためには、何が必要となってくるのであろうか。少なくとも、感じること、知ることは、不可欠である。パーティやダンス音楽の、小難しく面倒臭いことを、誰にでも、そこで(ただ何となくでも)感じ取ってもらえるようにしなくてはならない。そこが、ただ何も考えずに「ウェーイ」とパーティできればよいだけの場所ではないのだということを、薄々とでも感じ取ってもらわなくてはならないのであろう。
では、そのためには、どうすればよいのか。ナイトクラブは、学校のような教育の場としての機能をも兼ね備えていなくてはならないのだろうか。DJは教師なのか。音楽は、教材なのか。実際、太古の昔から音楽とはそういうものであり、元々はそういう側面をクラブも多分に擁していたはずであったのだ。ロフトのデイヴィッド・マンキューゾは、DJであり、パーティに集まるキッズたちにとっての若き教師であり人生の手本でもあった。音楽を通じて、愛を説き、人間が生きるということの歓びを語り、深い哲学を語ってきかせた。ロフトとは、会員制のゲイ・クラブであるとともに、社会の地下階層に設立された私塾のようなオルタナティヴな学校でもあったのである。だが、そうしたクラブの在り方というのは、急速に難しすぎる面倒臭いものとなりつつあるようである。今のEDMと呼ばれるダンス音楽を聴いて「ウェーイ」となっている若者たちが、もしもロフトのマンキューゾのプレイを聴いたとしても、はたしてそこに何を感じ取れるであろう。なだらかな起伏があり波のように寄せては返す読経のようなプレイは、全くスリルも刺激もない高揚感に欠ける退屈なショボい音にしか聴こえないのかもしれない。あの時代のロフトやガラージといったクラブに、それに合ったやり方や方法があったように、今のダンスフロアにも、それに合ったやり方や方法があるということなのかもしれない。
そうした今のダンスフロアにおいて、何らかの(意義のある)教えを説くことは可能なのであろうか。それは別にものすごくコンシャスに語られる必要は全くない。ダンス音楽の背景や根底にあるものを、薄々とであってもそこに感じ取れればそれでよいのである。そこでは、小難しく面倒臭いものであるハウスは、もはや(良き教材としては)機能しないのであろうか。素晴らしい(奥深い)メッセージを含んだ名曲が多く残されているというのに、それらはもはや無用の長物でしかないのであろうか。
だが、それもやはり歌詞の意味や、その楽曲のサウンドが生み出された背景というものを、少しでも「ウェーイ」と盛り上がりつつも掘り下げて知ろうとし感じ取ろうとしないと、そこにあるメッセージをしっかりと受け取ることはできないであろう。どんなに(分かりやすく明快な)名曲でも、ただの難しくて面倒臭い曲になってしまうことになる。
はっきりいって、ハウスとは、そんなに難しいものではないのだ。そのサウンドは、過去のダンス音楽やディスコ音楽から無駄なものや華美な装飾を削ぎ落とし、ドラムのビートとベースラインだけになるまで先鋭化させていったものという特徴をもつ。そして、それと同様に、そのサウンドにのる歌のメッセージ性も、とてもシンプルに研ぎすまされたものとなっている。その昔ある人が、ガラージの系譜に連なるダンスフロアに流れる歌は、突き詰めてゆくとほぼ愛と平和についての歌だけしかないのだと語っていた。ここでいう愛と平和の歌とは、そこらの安っぽいチャラチャラしたありきたりのラヴソングやほのぼの系の日常的な平和の有難味を歌ったもののことではない。それは、人間のとても奥深いところから歌われている愛と平和の歌である。ここでいう奥深さとは何のことだろうか。だが、それもまた、そう難しく考えるようなことではない。人間をこの世界を構築する道具とすることから解放し、より人間を人間らしさ取り戻した地点から覗き込んでみることで、そこには人間の奥深いところが難なく見えてくることであろう。そうした奥深いところからの愛と平和の歌を、そのダンスフロアでは聴くことができるということだ。基本的に、ダンスフロアとは、そういう奥深いものの解放の場なのである。「ウェーイ」となるだけのパーティもそうした解放の、最も奥深くはない形式における一亜種であるにすぎないのである。そこに、解放と奥深さの共有があるとき、そこはちゃんとした教育の場としても機能することになるダンスフロアが現出するのである。
解放することは、決して小難しいことではない。暑いときに上着を一枚脱ぐように、人間がより人間へと戻るために啓蒙のもとで一枚多く着込んでいたものを脱ぎ捨てるようなものである。人間として世界創造の道具となるとともに隠されてしまったものを、もう一度見えるようにするというだけのことである。陽気に「ウェーイ」と盛り上がるスタイルのパーティでも、真っ当なDJがブースにいれば、たとえ瞬間的にであったとしても、そうした解放されたダンスフロアをそこに現出させることは十二分に可能である。しかし、そこにある奥深さをダンスフロア全体で共有できるかは、そのパーティの環境や雰囲気に大きく左右されてしまうところではあるのだろう。
愛と平和の歌は、無条件に労働を讃える啓蒙の歌の真逆に位置する。つまり、ももいろクローバーZが歌ったような「労働讃歌」の真逆にあるものなのである。労働することとは、現存する世界を構築するものである道具化されたものを用いて、自らも世界を構築する道具となることである。ダンスフロアで労働するものはいない。ダンスフロアで、何か目的意識をもって労働し、そこで何らかの成果や結果を手にしたいと思っているものは、決してダンスしているとはいえない。近くで踊っている見栄えのいい子をナンパして、後でいい思いをすることを前もって計画してそこで行動を起こすことは、それは労働にほかならないし、愛と平和の歌からも遠く隔たっている。
ただし、労働するとか労働しないとかいうこと、それらを越えたところに、愛と平和の歌はある。世界を作り出す善意識としての愛と平和は、それはすでに(前世界内的)労働であり、そうした愛と平和を歌った歌は、純粋贈与たる労働を賛美する歌でしかない。よって、労働から解き放たれたものとしてあるダンスフロアにおいては、現世的な労働としての愛と平和を歌う歌は、全く薄っぺらで何の意味もなすことはないのである。
感じたり理解したりすること(自体)に、何か特別な能力や知性が必要なわけではない。ただ一枚か二枚を脱ぎ捨てて、解き放てばよいのである。何も難しいことはない。そこでは、愛と平和の歌というものが、何も変に小難しいことを歌ってはいないことが、すぐに分かるであろう。それは、とてもシンプルなメッセージである。それを感じ理解するためには、人間も無駄や装飾が削ぎ落とされた人間となり、(本来的な)人間にまで研ぎすまされていなくてはならない。何も難しいことはない。とても簡単なことである。

「拡散した神秘的直感が世界中に伝播させる生活の単純さが、実際、歓喜であろう。また、拡大された科学的経験のなかで彼岸のまぼろしのあとに自動的に続いて来る生活の単純さも歓喜であろう。これほど完全な道徳的改革がなければ、さまざまな応急策に頼り、ますます煩雑化する「統制」に服従し、我々の天性が我々の文明に対して設定する障害物をひとつびとつ回避してゆかねばならないだろう。」
アンリ・ベルクソンは、『道徳と宗教の二源泉』の結末の一文においてこう書いている。
歓喜とは、人間が生きるために必要不可欠なものである。生活の単純さは、歓喜としっかりと結びついている。ゴスペル・ハウスは歓喜を歌い上げ、歓喜と単純さの入り混じる中で、統制への服従からダンサーたちを解き放つ。解放は、そこにある愛と平和の歌への神秘的直感によってもたらされる。ゴスペル・ハウスの愛と平和の歌で、彼岸のまぼろしにも刹那の「ウェーイ」にも寄りかかって前のめりになりすぎることなく(善良なる)単純さとともに踊れるかが、ひとつの大きな分かれ道となる。うまくハウスで踊れないものは、科学的経験のみに執着し、合理性に則した画一的なステップに絡めとられて身動きがとれなくなるか、何も考えずに「ウェーイ」と奇声を発しながら見かけだけファンキーなファシスト・グルーヴにからめとられ飲み込まれてゆくだけだ。そして、多くの障害物を前にしてそれにひとつびとつ対応することだけに疲れ果て、生活の単純さとは全く縁遠いままとなってしまう。統制への服従を望むのであれば、それでも構わないが、そこには歓喜はない。歓喜にこそ、未来を生きることへの希望がある。完全なる生活の単純さへの道徳的改革を反復(永劫に回帰)する四つ打ちのシンプルなビートで表現した、ハウスの愛と平和の歌とは、そうした未来への希望を生の歓喜とともに歌っているものにほかならないのである。

「偉大な善き人々、もっと正確に言えば、創意ある単純な英雄的行為によって徳への新しい道を切り開いた人々は、形而上学的な心理の啓示者なのです。彼らは進化の頂点にいるばかりでなく、生命の起源のもっとも近くにいる人々であって、奥底からやってくる衝動を私たちに見せてくれるのです。彼らを注意深く眺めましょう。私たちが直感によって生命の原理そのものに入り込もうと欲するのならば、彼らの感じているものを共感によって感じるように努力しましょう。」
また、ベルクソンは、論文集『精神のエネルギー』(平凡社ライブラリー)に収められた『意識と生命』(42頁)において、このように書いている。これはハウス・ミュージックの鳴り響くダンスフロアで身体を躍動させているダンサーについて書いたもののように読むことができるのではなかろうか。ダンサーは、偉大なる善き人性をもち、創意ある単純な英雄的行為を行い、徳への新しい道を切り開き、そして進化の頂点に立ち、生命の起源のもっとも近くにいる。要するに、「偉大な善き人々」なのである。そのダンスは、奥底から湧き上がってくる(人間の本来的な)衝動を(不伏蔵化し)顕現させるための動きにほかならない。もしも、私たちが直感的に生命原理のコアの部分に触れようとするのであれば、ダンサーたちがダンスフロアで感じている歓喜や解放を共感できるように努力するしかない。それを注意深く眺めて共感する。ダンスフロアの歓喜と解放は、徳への新しい道を切り開き、私たちを偉大なる善き人々へと押し上げるであろう。ダンスフロアという場所は、ダンサーたちを人間の進化の頂点へと導き、生命の起源にもっとも近いところまで連れ戻す。ダンスフロアでのダンスとは、創意ある単純な英雄的行為である。歓喜と解放はダンス音楽の頂点と起源をミックスするハウスとともにあり、共感もまたハウスとともにある。ゴスペル・ハウスは、全てのダンスという創意ある単純な英雄的行為を行う人間(ダンサー)にとってのリジョイスである。ダンスフロアでの偉大な善き人々が感じているものへの共感は、ゴスペル・ハウスよりまろび出すリジョイスとともに直感されるであろう。それは、人間の奥底からやってくる衝動そのものの表れであり、人間の生命原理そのものに深く入り込んでいる歓喜にして解放なのである。

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