生きるとか死ぬとか眠狂四郎とか
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眠狂四郎と田村正和
四月に亡くなった田村正和(享年77)の追悼番組として「眠狂四郎 The Final」の再放送があった(2021年5月29日、17時〜19時20分)。あまり観る気はなかったのだけど、円月殺法がとても好きなので、ついつい時間になったらそそくさとチャンネルを選択してちらちらと観てしまった(しかし、最初の方と最後だけを観たために話の途中のあれこれについてはあまりよくわかっていない)。
われわれの世代で眠狂四郎というと、やはり片岡孝夫(現在の片岡仁左衛門。先日亡くなった片岡秀太郎の弟)である。だが、あの青白く寡黙でクールなキャラクターが歴代の市川雷蔵や田村正和が演じた形(カタ)を忠実に継承したものであることを考えれば、その系統すべてがあの異形なる眠狂四郎の様式美で貫かれていることに思いを致さずにはいられない。
特に市川雷蔵は、すでに「大菩薩峠」の机竜之介を快演(怪演)していたこともあり怪物剣士(妖物剣士)ぶりが板についているだけでなく骨身にまで染み入っているようで、そのエッセンスが眠狂四郎という稀代の冷血漢キャラクターの形成にも大いに活かされている。そう、完全に浮世離れしていて人間の生き血を啜って生きる吸血鬼じみた妖怪感が漂う佇まいこそが眠狂四郎なのだ。
そういう意味では、この引退作で田村正和が演じてみせた眠狂四郎は、どこか(これは故人に対して誠に失礼な言い方かもしれないが)常にあの世とこの世の中間にいるような雰囲気が終始面に見えていて非常によかった。しかしながら、ほとんどの台詞がよく聞き取れず、何をいっているのかまったくわからなかったのは気になった。
主役の俳優の声が全然出ていないというのは非常に痛い。脇を固める役者たちが好演していればいるほどに。どうにも締まらないし、主役が画面の中で一向に引き立たっていないのである。基本的に眠狂四郎は無口なので、あまりぺらぺら喋らなくてもよいのだが、何を喋っているのかがよくわからないことによって余計に存在感が薄まっている。
眠狂四郎という人間に焦点を当てたドラマであるのに肝心の主役が本当にそこにいるのかいないのかよくわからないというか、まるで影法師のように画面の中にうっすらとでも映り込んでいれば、それはそれでいいのではないかとさえ思えてしまうくらいであったのには驚いた。あそこまで浮世離れした佇まいの眠狂四郎というのは、やはりあの時期の田村正和にしか演じられなかったものなのではないか。それがどこまで練り込まれた演技や演出であったのかという部分については、非常に些細なことであるのでこの際どうでもよい。
この世のものとは思われぬ眠狂四郎の姿が、このひと区切りとなる作品でしっかりと映像化されたというだけでも非常に意義深いものがあったのではないか。眠狂四郎が何を喋っているのかよく聞き取れなくても、とりあえずは物語としては成立してしまえる。眠狂四郎が眠狂四郎らしい眠狂四郎として造形され演じられていれば、まあそれで万事よしとなるのだ。
そして、それ以外の部分で一番の見所をあげるとするならば、やはり、眠狂四郎の娘だと言い張る若い娘、操を演じる吉岡里帆のかわいらしいおでこであろうか。操は劇中で最も溌剌とした若さにあふれている人物であり物語のキーパーソンでもある。ということは、実質的には操が本作の主人公もしくは中心人物であるといってもよいのかもしれない。どうしても画面の中に吉岡里帆がいれば、かわいらしいおでこを丸出しにした操の姦しい一挙手一投足に目がいってしまうというものである。逆に、眠狂四郎は驚くほどに動きに乏しい。常に画面の中で背筋をぴんと伸ばして固まっている。
剣術時代劇では一番の見せ場である殺陣の場面でも眠狂四郎は、ほとんど動かない。直立した姿勢でふわりふわりと腕を上下左右にはためかせるだけで敵方の剣士はばたばたと倒れてゆく。稀代の天才剣術家は一切の無駄な動きをしないものである。その卓抜した剣捌きは現在の機械技術の産物であるカメラなどではっきりととらえられるような代物ではないのだ。
そもそもが円月殺法というものが完全に理屈の域を超越している。剣の道は深い。田村正和の最後の眠狂四郎は、そうした摩訶不思議な剣術の極意を時代劇の殺陣で表現することに挑んだひとつの極限として作品化されているものだともいえるだろう。本来は見せ場なはずなのに、そこに派手さと結びつくものは一切ない。だが、そこには理屈や安易な理解をこえた凄みがある。
なぜ、あれほどまでに眠狂四郎の剣が強いのかは見た目にはまったくわからない。だからこそ、そんな微動だにしない主役キャラクターの代わりに、おでこ丸出しで吉岡里帆がかわいらしくその周囲を動き回る。
田村正和が突然現れた身に覚えのない娘に付き纏われ追い回される姿は、往年の人気ドラマ「パパはニュースキャスター」を思い起こさせた。おそらくはそこを狙った演出であったのだろうが、少しあからさますぎて蛇足感すら漂ってはいた。しかし、この作品が実質的な引退作となり今や遺作ともなってしまったことを考えると、こうしたいろいろと盛り込みすぎている感じも実はありだったのかなと思える部分は確かにある。
そして、「パパはニュースキャスター」での田村正和の役名が鏡竜太郎であったのも、どこか机竜之介や眠狂四郎の流れを汲んでいるようでなんとも興味深く思えてくる。当時は俵孝太郎のパロディというぐらいの認識でしかなかったが。その流れでいえば、実の娘だと称して眠狂四郎の居所に押しかけてくる操が、いきなり愛と書いてめぐみだと名乗らなかった時点で、これは本当の娘ではなく騙りだということがすぐにわかる仕掛けとなっていたのではなかろうか。
それで、操の本当の父親は誰かというと、怪しい幕臣(?)の加賀美耀蔵なる人物(加賀美と鏡、この謎めいた姓の一致も制作側の狙いであろうか)。そして、この加賀美耀蔵の父親というのが、国内で禁止されている布教活動を行なっていたために幕府によって捕らえられ度重なる厳しい拷問によって棄教させられた元宣教師のフェルナンドなのだ。
そんな加賀美耀蔵の正体は、幕臣として幕府の政治中枢に潜り込みつつ、異国の地で無念の死を遂げた父の仇を討ちその恨みを晴らすために御公儀転覆を企てる妖術使い。眠狂四郎の父親も、実は元宣教師のフェルナンドであり、加賀美耀蔵は異母弟にあたる。
吉岡里帆が演じる加賀美操は、眠狂四郎からすれば姪っ子である。娘だと騙っていたが、完全に赤の他人ではなく、微妙に親類ではあったのだ。加賀美耀蔵は娘の操を使って兄の眠狂四郎に近づき、父親の汚名をそそぐための企てへの加担を兄に請うのだが、浮世のあれやこれやにはちっとも関心をもたない兄様は幕府なんてどうでもよいので一向に関わりをもとうとはしない。結局、ふたりは最初からそうなる運命であったかのように相対峙することになる。兄はずっと父を憎み続け、弟は純粋に父を父として愛していた。ふたりの円月殺法の使い手は、月の表と裏のように決して交わらぬ定めであり、相まみえたときには刃を交えなくてはならなかったということなのであろう。
眠狂四郎の母は、松平主水正の娘。徳川宗家に代々仕える三河の松平家の姫君なので、相当な家柄の武家の娘ということになる。これを演じていたのが松本若菜。とても美しい女性で、眠狂四郎の母にふさわしい浮世離れしたような美が宿っている姿形は誠に申し分ないのだが、姿勢や動きがややゆるく相当な家柄の武家の娘にはあまり見えなかったところがちょっと残念であった。素晴らしく美しい人なので、細かいところはどうでもいいといえばどうでもいいのだけれど。
そんな松平家の美しい姫君を、無理強いに棄教を迫った幕府への復讐のためだけにフェルナンドが強姦し、その事件の際に図らずも授かってしまった子供が後の眠狂四郎である(と伝えられている)。優しく美しかった母は眠狂四郎がまだ幼かったころに、古寺に幽閉された日々を送らなくてはならない母子の定めを儚み自死の道を選ぶ。不憫な母を思いやり、誇り高き武家の娘を辱めた実父を憎み、自らの血を呪い、社会と世界に対する怨恨を募らせながら成長したのが、生粋のニヒリスト眠狂四郎であった。「悪霊」のニコライ・スタヴローギンと同様に、眠狂四郎は自分が何も信じていないことさえ信じていない。
しかし、眠狂四郎が着流す漆黒の着物に白く染め抜かれている紋が、父フェルナンドの信仰と関わりのある十字架を組み合わせたデザイン(角花久留子紋)であるのは、やはり気にかかる。これは父の信仰を受け継ごうとするものというよりも、実父の犯した罪の計り知れぬほどの大きさとそれに対する憎しみの情を片時たりとも忘れぬようにするためにそれを身に纏い十字架のように背負い続けているのだと考えた方がよいのかもしれない。
そうした決して許すことのできぬ父に対する憎しみの感情を抱き続けることで、眠狂四郎の中で幼い頃に生き別れた母に対する思慕の情はいやがおうにも肥大してゆくことになる。このニヒルなマザコンは、ことあるごとに母のしめやかな墓所に行っては手を合わせ、まぶたの裏に残る美しい母の面影を夢に現に追いかけ続ける。だがしかし、思いもかけぬ異母弟との出会いは、そんな浮世離れしているものにも思わぬ影響を及ぼすことになったようだ。
弟の加賀美耀蔵を通じて、実父フェルナンドという人間の魂に間接的にだが触れたことで、一方的に募らせていた元宣教師への恨みの念に少しずつ疑念のようなものがちらつくようになる。そして、遂には眠狂四郎の心中に父を許す糸口のようなものさえが芽生えはじめる。
幕府の役人によって捕らえられた宣教師たちは、あらゆる手を使って日本国内では禁止されていたキリスト教の信仰を捨てるように仕向けられた。厳しい拷問によって心身ともに極限まで追い詰めて棄教させる手もあれば、若い魅力的な女性と狭い部屋で生活をともにさせて肉の誘惑に直面させ姦淫に溺れさせることで信仰を転ばせ躓かせる方法などもあったという。
宣教師フェルナンドの場合も過酷な拷問とともにある種の誘惑の手が使われたのではなかろうか。松平家の屋敷で、いつでも松平主水正の娘と接触できる境遇に置かれていた元宣教師が、誘惑に負けて棄教する以前に美しい武家の娘と心を通わせ恋に落ち、いつしか惹かれ合うような間柄になってしまう。そして、ふたりは自然の成り行きで結ばれ、その愛の結晶ともいえる新しい命を授かる。そこで世に生を受けた子供こそが、後の眠狂四郎なのである。
これまで実父に対しては憎悪以外の感情をもつことに頑なまでに目を瞑ってきた眠狂四郎であったが、異母兄を慕い頼りにする弟の加賀美耀蔵の中にある実直で純粋な部分に思いもかけずに触れて、自分の中ではそうした感情はすべて非業の死を遂げた母に向けるようにとつとめて仕向けていたわけであるが、実はそのような優しくあたたかな思いに溢れる大元の性質こそが父のフェルナンドから受け継いでいだものなのではないかということにようやく思い当たる。そして、自らを形作っているものが実は憎しみや恨みの感情だけではなく、深く清廉な愛情に満ちたあたたかな血が自分の体の中にも流れているということに初めて気づくのである。
ようやく長きにわたり心の中でわだかまりとなっていたものを乗り越えることができそうな人間的転回のとば口に立つことができた眠狂四郎であったが、そこに至るためには異母弟を自らの秘剣にて斬り捨てねばらないない運命にあったというのは実に皮肉である。眠狂四郎が背負い込んだ業は、さらに血にまみれたことで、この青白い陽炎のような剣術使いを浮世から遠く遠く遊離させてしまうことになるのであろう。
また、田村正和の場合には、眠狂四郎のもつ実父へのわだかまりの感情にどこか近いものを、実際の父である銀幕の大スター、阪東妻三郎に対して抱いていたようなところもあるのではないか。
阪東妻三郎は大正の終わりから昭和二十八年にかけて多くの主演映画をヒットさせ人気を博した当代きっての二枚目時代劇俳優。田村正和は阪東妻三郎の三男として、昭和十八年に父親の俳優活動の拠点である時代劇の撮影所がある京都の太秦で生まれている。ただし、幼い頃に父阪妻は脳内出血で急死している。だが、やはり銀幕の大スターの遺伝子を継いでいるせいなのか、幼い頃より演ずることには興味があったようで、高校生になるころには俳優としてデビューをしている。
その後、大河ドラマやテレビ時代劇に出演し注目を集める。ただし、田村正和が時代劇に出演して注目を集めるのは、やはり阪妻の息子であるという部分からきているものが大きかったのではないか。その若手時代劇俳優の姿に、多くの人々は若き日の阪妻が甦ったかのような錯覚を覚えたであろう。それほどまでに田村正和は、往年の二枚目時代劇俳優の遺伝子を色濃く受け継いでいた。
若手俳優、田村正和の演技というよりも、そこに透けて見える在りし日の阪妻の幻影を、往時を知る人々は懐かしい気分で見ていたのである。時代劇に出演する田村正和が、画面の向こう側からもこちら側からも期待されていたことは、いかに阪妻が甦ったかのように見えるかであったといってよい。
エンターテインメントの世界に生きる俳優として、田村正和も自分に求められ期待されているものに対して極力応えようとしたはずだ。観客が喜ぶならば、それをやるしかない。それが役者の宿命でもある。時代劇に出演する田村正和は、自らの容姿に亡き父の面影を重ねて追い続ける人々に向けた芝居を続けてゆくことになる。眠狂四郎を演じることは、その最たるもののひとつであった。
これは阪妻の死後に連載が開始された「眠狂四郎無頼控」を映像化した作品であり、阪妻と同じく歌舞伎界出身の時代劇スターである市川雷蔵の当たり役でもあった。そんな眠狂四郎を、もしも阪妻だったらどのように演じるのかを実際にやって見せてくれているのが田村正和が演じる眠狂四郎であったのだ。そういう意味で、眠狂四郎を演ずることにさえも実父阪東妻三郎の影は常にまとわりついたのである。
二枚目時代劇俳優としての遺伝子を阪妻から色濃く受け継いでしまっていた田村正和にとって、これは決して逃れることのできない宿業であったといってもよい。着物姿で髷をつけ時代劇調のメイキャップを施すと、この親子は驚くほどに似ていたのだから。いつまでも父阪妻の影から抜け切ることができないことに対して、田村正和も少なからずわだかまる部分はあったであろう。自分にはどうすることもできないことだとわかっていたとしても。
「眠狂四郎 The Final」のラストでは、あの眠狂四郎の内面に姪っ子の加賀美操に対して父親の情愛らしきものが芽生えているようなシーンがある(実際には、ふたりはすでに別々の旅路を歩み始めている。だが、別々の道ということは、いつかは偶然に出会う可能性があるということだろうか)。円月殺法で操の父、加賀美耀蔵を斬って捨てておきながら、叔父さんが父親がわりになろうとするというのも変な話だが、眠狂四郎にとっては父フェルナンドと同じ血を引く肉親である操に対して、これまでには感じたことがないような他者に対するあたたかい感情をもつようになったことだけは確かなようだ。(眠狂四郎と加賀美操は「大菩薩峠」の与八と郁太郎のような擬似親子関係を築くことのできる可能性をもつが、今はまだそのそれぞれの流浪の道は交錯してはいない。)
あのエンディングは、最後の最後に深い憎しみを乗り越えて初めて純粋な愛情というものを直接に触れることで知った眠狂四郎を通じて、田村正和も時代劇俳優の鏡である実父に対する愛憎渦巻くわだかまりをちょっとずつだが溶解させてゆくことができたことをも表していたのではないだろうか。フェルナンドが眠狂四郎に対しても父親としての愛情を抱いたであろうように、阪東妻三郎も俳優になり時代劇の主役を堂々と演じる息子を愛に満ちたあたたかな瞳で見守っていたことであろう。幻の操の姿に対して眠狂四郎が思わず手を伸ばしたように、田村正和がどんなに手を伸ばしても阪東妻三郎の幻影には届かないのかもしれないけれど。それでも、父にありがとう。すべての子どもたちにおめでとう。
(2021年6月)
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