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フリータウン再訪

ヨ・サンキ(Sangki Yeo)という人物について、何かを知っている方はおられるだろうか。何か少しでも知っていることがあったら教えてほしい。わたしには、この人物についてまだまだ知らないことが沢山ある。そして、この人が何ものであったかが今でもとても気になるし今もまだとても知りたいと思っている。実になんともミステリアスな存在で、いくつかの異なる名前でも知られる人物であった。ヨ・サンキ、またの名をサンキ・ユー(Sangki Yuh)ともいった。よく英語圏の音楽雑誌などで紹介されるときには、こちらの名前の表記で掲載されることが多かった。

ヨ・サンキは、90年代にイギリスのロンドンにおいてフリータウンというインディ・レーベルを主宰していた人物である(サブ・レーベルである、サブウーファーからのリリースも行っていた)。その名前からも分かる通り韓国・朝鮮にルーツをもつ男性であり、いわゆる日本で生まれ育った在日の朝鮮人である。だが、その姓となる名字がヨーなのかユーなのかは、最後まであまりはっきりと判明しなかった。まあ、本人としても、そんなことはどちらでもよいと思っているようなところがあったのだろう。ほとんどの人は、彼のことをただたんにサンキという名前で呼んでいた。そして、それで特に問題となることもなかった。しかし、(ほんの数回だけ耳にしたことがある)本人による名前の発音を思い出してみると、どちらかというとユーに近かったような気もする。本来のアルファベットの綴りに則したヨという名前の発音を、かなり低めのトーンで少し語尾を下げながらダルく間延びしたような感じ(東北訛り)で発声すると、本人が発音していたユゥに近い語感となる。ただし、フリータウンの名刺には、しっかりヨと記載されてはいたのだが。それでも実際に本人と話してみると、どうもユゥと聞き取れる響きで発音している。そのため、業界の内部ではそちらの名前(Yuh)の方が読みに関しても記述に関してもいつしか定着してしまっていたのであろう。

キング・ストリート・サウンズのヒサ・イシオカ社長が、90年代初頭にエグゼクティヴ・プロデューサーや制作コーディネーターとして手がけた二枚のハウス・ミュージックのコンピレーション・アルバム(92年の『The House Music Of N.Y. Club Trax Vol. 1』、93年の『A Basement Compilation Vol. I』)がある。これらの作品には、いずれもユー(Yuh)という名字による記述で、ヨ・サンキの名前が謝辞の欄にクレジットされている。これはきっとヒサ・イシオカもずっとユーという表記が正式な名前なのだと思い込んでいたということなのだろう。

何度かヨ・サンキの名前の漢字での表記も見たことがあった。それは、呂相基であったと記憶している。本人は、三国志の呂将軍の末裔だと言っていたが、どれほどの確かな繋がりがあったのかはあまり定かではない。日本での通名の名字は、たぶん松山だったと思う。下の名前も何度か聞いたことがあったのだが、今ではもうちょっと思い出せない。一度か二度ほど連れてゆかれた六本木の裏通りの渋い料理店や寿司屋などで、お店の女将さんや板前からは松山さんという名で呼ばれていたような気がする。東京で店の予約をするときなど、日本で彼のことを古くから知っている人たちとの関わり合いの中では、かつて日本に住んでいたころの通名をそのまま使用していたのだろう。しかし、わたしの前では、そういう部分はあまり見せることはなかった。

ヨ・サンキの前半生は、とても謎に満ちている(いや、実際には何から何まで全てにおいて謎だらけの人ではあったのだけど)。渡英してからのサンキを知るものの間では、それ以前に彼が何をしていたかを詳細に知っているものはほとんどいなかったのではなかろうか。その逆に、渡英する以前の若き日のサンキ(松山)を知るものの中には、その後に彼がロンドンで何をしていたかを知っていたものはほとんどいなかったのではなかろうか。あまりあれこれと詳しく大真面目に話をする人ではなかったけれど、殊更に自らの生い立ちや人生の歩みを隠そうとしている人でもなかった。よって、様々なざっくばらんな普通の会話の端々でそれまでの人生の中で経験してきたあれやこれやを(あまり大っぴらにはできなさそうなことも含めて)ちらほらと聞くことはできた。そんな本人から聞いた断片的な話(エピソード)を、ここに出来る限りまとめてみることにする。もうすでに記憶が曖昧なところもあるし、全てが事実に即した話であるのかを確かめてみる術もないので、これらのことが全て本当のことなのかは実際のところ皆目わからない。また、わたしのようなへらへらした変な若造にサンキが全て洗いざらい本当のところを話していたかも定かではない。ほとんどは、都内の喫茶店や移動のタクシーの車中などでのちょっとした雑談の端々で語られたことでしかない。

サンキは幼い頃からとても頭がよかったらしく、周囲からは神童と呼ばれていたという。元々の生まれは東京であったのだと思う(サンキのお兄さんは渋谷で歯科医をしているという話をチラッとだが聞いたことがある)。その後、小学生か中学生の頃からは東北地方(青森だっただろうか)の名門進学校に通うようになる。本人は、「頭があまりにも良すぎて、周りとレヴェルが違いすぎた」ので転校したのだと語っていた。学校は全寮制だったそうで、そこで数年を過ごしたことですっかり東北訛りが喋りに染みついてしまったという。しかし、このときに身についた東北地方の独特のイントネーションが、後に絶妙なジャマイカ訛り風の英語の発話に活かされることとなるのである。レーベルの社長であったサンキと電話でビジネスの話をしただけであった人物が、その喋り方の特徴から大柄でルーディなジャマイカ系やアフリカ系の黒人男性だと勝手にイメージをしていて、後に直接会ったときに痩せた細面のアジア人男性がそこに現れるととても驚かれるというエピソードは、実際に非常によくあったことのようである。

そして、東北地方の中学校を卒業すると最難関といわれる入試試験を難なくパスして兵庫県神戸市の灘高校に入学した。しかし、その「校風が自分に合わなかった」ことを理由に入学直後にあっさりと退学してしまったらしい。なぜに、かつて神童とも呼ばれた天才少年が、超難関校としても名高い名門高校から入学早々にドロップ・アウトしてしまったのか、詳しいことは何も分からない。何らかの行き違いがあり学校側と揉めたというような話は本人から聞いたことがある。バンと机を両手で叩いて学校から飛び出してきて、それきりであったという。だが、やはりそれだけの行動をするわけであるから、サンキ少年の中にもそれだけの理由があってのことだったのであろう。それは、もしかすると在日朝鮮人であることによって、本当に年端もゆかぬ幼い頃から嫌でも味わわされてきた摩擦や軋轢や差別の意識といったものと、少なからず関わりがあったことであったのかもしれない。

高校を辞めてからのサンキは、在日朝鮮人の若者たちを集って暴走族や愚連隊まがいの自警組織を作り、言われえぬ差別を受けて虐げられている多くの仲間たちのために日夜奔走していたという。要するに、何度払いのけても降り掛かってくる民族的な差別に対する実力行使での報復行動に明け暮れていたということのようなのである。おそらくこれは70年代後半のことだったのではなかろうか。まだ、日本という国が(戦後生まれの)学生や若者で溢れかえっていた時代のことである。若い日本人と在日朝鮮人の間だけでなく、いたるところで若者による(若者同士の)いざこざや諍いや暴力行為が発生していたのだ。

つまらない社会への(やり場のない)不満を集団でのオートバイや改造車による危険走行によって表現していた暴走族も、暴走という行動を欲する10代の若者が後を絶たなかったこともあって、組織は乱立し、つまらない縄張り争いなどの抗争に明け暮れていた。その頃、日本で最も有名な暴走族であったブラックエンペラーを率いていたのが、現在は俳優の宇梶剛士である。そして、ドラマ「3年B組金八先生」で描かれたような校内暴力などによって学校自体が荒れて社会問題化していたのも、この時期のことである。

その後、昭和の終わり頃にはサンキは総会屋として活動をするようになる。暴走族や愚連隊などの反社会的集団から、法の網の目をかいくぐって企業への暴力的な圧力を行使して金銭をむしり取るインテリジェントなヤクザな稼業への転身である。総会屋の仕事をしていた時期はとても短かったそうだが、それでもがっぽりと株で儲けて五億もの大金を手に入れたと本人は語っていた。その莫大な資金を携えてサンキは渡英することになる。ロンドンに着いてからは、まずは学校に入りなおし大学に通ったという。元々、頭はとてもよい人であるから、本人に学ぼうという気があればどこででも学べたということなのであろう。

ロンドンの街は、サンキの気質にもよく合ったようだ。また、サンキが好んだドラッグやマリファナの類いもロンドンのような大都会の地下では豊富に流通していたのである。そうした違法薬物や麻薬のあるところに自然に惹き付けられてゆくかのように、サンキはロンドンのアンダーグラウンド・シーンに脚を踏み入れ、ナイトクラブ界隈の人脈とも親しく交わるようになってゆく。そして、いつしか自らもそうした音楽業界の人間になっていたのである。

その界隈で知り合った多くの友人の中にマーク・アディスという男がいた。マーク・アディスは、もともとはマリファナやドラッグを広く取り扱う名うてのディーラーであり、その莫大な儲けを元手にして西ロンドンにレゲエ~ダブ系のレコーディング・スタジオ(アディスアベバ・スタジオ)を建て、インディ・レーベル(ウォリアーズ・ダンス等)を設立した人物である。総会屋稼業で荒稼ぎしたサンキとドラッグ絡みの闇商売から身を立てたアディスには、何か人間的にも相通ずるものがあったのかもしれない。アディスのスタジオやレーベルの周辺には、カリブ系移民のコミュニティで育ったソウル・II・ソウルのジャジー・B、ロンドンのウェアハウス・パーティの草分けとなったヘドニズムでメインDJを務めたキッド・バチェラーなどがいた。サンキとこのスタジオ周辺の人々は、音楽や麻薬関係の趣味も合い、レゲエ・ダブをベースにしたルーディなジャマイカ系のノリやヴァイブスもバッチリと共有することができ、ことのほか波長が合っていたようである。サンキは、まるで口癖のように「ラヴ・ピース&ハーモニー」と事あるごとに言っては、ぴしぴしと指を鳴らしていた。もはや、生まれも育ちも西ロンドンといったような雰囲気で。

1989年、ノー・スモークのトニー・ソープが中心となってレーベル運営を行っていたウォリアーズ・ダンスの流れを汲んだ、よりガラージ系のハウス・ミュージック色を強く押し出した新レーベルが設立され、サンキはマネージャーとしてこのレーベルのリリースに深く関わってゆくことになる。これが、フリータウンの始まりである。また、1992年頃からは(シカゴからニューヨークを経て)ロンドンに活動の拠点を移していたロバート・オーウェンスをA&Rに起用したことで、フリータウンはより大きな注目を集めてゆくようになる。こうした、オーウェンスのプロデュース曲やシカゴやニューヨークのハウス人脈のタレントをプロデューサーやリミキサーに起用した作品を精力的にリリースする、攻めの姿勢の人材獲得やリリース計画、メディア向けの話題作りといったレーベル運営の舵取りを、全て裏方として取り仕切っていたのが、実はヨ・サンキであったのである。

ただ、なぜサンキがハウス・ミュージックのレーベルを手がけることになったのか、そのあたりの経緯もあまりよくは分かっていない。これもまた、なかなかに謎めいた事柄のひとつである。本人がプライヴェートで主に聴いていたのはジャズやファンクであったと思う。そして、そこからの流れでソウルやリズム&ブルースなどもとても好きであった。根っからの黒人音楽愛好家であった。中でもお気に入りだったのが、ルーファス&シャカである。声の立ち上がり方からして人間離れした鮮やかさをもっていて、目くるめくような勢いのあるフレージングを連発するシャカ・カーンのヴォーカルは、サンキにとってまさに至上のものであり、そのジャズ的なリズム感と自在に声色を変化させる表現力の深さと豊かさはヴォーカリストとしての理想型であったようだ(そして、黄金期のシャカ・カーンのプロデュースを手がけていたクインシー・ジョーンズと一緒に食事をしたことがあると、よく自慢げに話をしていた)。おそらく、サンキはハウスという音楽を、そうしたジャズやリズム&ブルースの延長線上にある黒人音楽の一種として(のみ)捉えていたのであろう。だがしかし、その口から積極的にハウスという音楽を褒めそやすような言葉は、全くもってただの一度も聞いたことはなかった。ただし、自分のレーベルのリリース作品についてだけは、いつもとても得意気にその作品のよい部分などを延々と話してくれたことを記憶している。また、フリータウンのレコードは抜群に音がいいこともサンキが常に自慢することであった。西ロンドンのサウンドシステム育ちの耳なので、レコードの音質などには非常に気を使っていた。

ロンドンのハウス・ミュージック・シーンの黎明期を代表するウェアハウス・パーティのひとつであったヘドニズムは、88年頃からジャジー・Bが率いるソウル・II・ソウルの所有する超強力なサウンドシステムを使用して(ソウル・II・ソウルのパーティと同じ)アフリカ・センターにおいて開催されていた。そこでメインのDJを務めていたのが、ソウル・II・ソウル直系のレア・グルーヴ中心のセットにシカゴ・ハウスやブレイクビーツなどのアシッディなサウンドをミックスさせて異彩を放っていたキッド・バチェラーであった(サンキは当時のキッドのDJプレイを非常に高く評価していた。その全盛期にはパラダイス・ガラージのラリー・レヴァンを凌ぐほどの素晴らしさであったと語るほどであった。ロリータ・ハロウェイのアカペラをターンテーブルを指で回しながら不気味な音にしてインスト曲にミックスしてみたり、ターンテーブル三台を駆使して分厚いロング・ミックスを延々と続ける混沌とした展開から急にアフロディジアックの「Song Of The Siren」の深淵なサウンドのトラックへと全ての音をカットして落とし込んだりする、キッドらしい即興性と独創性に富んだDJのテクニックについて、サンキはいつだって実に嬉しそうに述懐していた)。

ロンドンでは、ヘドニズムにおいてソウル・II・ソウルのサウンドシステムで鳴らされる太くまろやかで重厚感のあるハウス・ミュージック(ハウス・ビート)を耳にして、初めてハウスという音楽の魅力に目覚めたものも多かったという。当時、ウォリアーズ・ダンスからはロンドンで大流行していたアシッド・ハウスのムーヴメントに西ロンドンのレゲエ・ダブ系のサイドから呼応するような形でバン・ザ・パーティやノー・スモーク、マーク・ロジャース(元ハリウッド・ビヨンド)などによる作品が相次いでリリースされていた。世界的に大ヒットした「Koro Koro」を生んだノー・スモークのアルバム『International Smoke Signal』(90年)には、制作陣にキッド・バチェラーやジャジー・Bも名を連ねている。また、同アルバムには「Ai Shi Temasu (Japanese Love)」という日本人女性によるセクシーな語りがのせられたトラックが収録されている。おそらく、この楽曲の制作にはその周辺では唯一の日本語を話す人間であったであろうサンキが深く関わっていたのではなかろうか。ジャケットには特にサンキの名前はクレジットされていないけれども、そのように推察することは実にたやすい。

ウォリアーズ・ダンスからのハウス系のリリース作品は、巷にあふれる多くの濫造気味であった軽薄な英国産のアシッド・ハウスとは異なり、米国のアンダーグラウンドなハウス・シーンにおいても高く評価され多くのDJたちにも受け入れられるほどのクオリティのものであった。ニューヨークでは、ラリー・レヴァンも好んでプレイしていた。また、バン・ザ・パーティのシングルは、デトロイトのデリック・メイが主宰するレーベル、トランスマットにライセンスされ米国盤がリリースされている。そして、そうしたウォリアーズ・ダンスから派生したレーベルであるフリータウンは、一過性の熱病のようなものであったアシッド・ハウス・ブーム以降の新しいハウスの流れをロンドンにおいて(ニューヨークやシカゴの同時代的な動きと同調しながら)積極的に作り出そうと早くから奮闘していたようなところがある。

フリータウンが主に力を入れて行っていたのが、良質な英国産ハウスのリリースとニューヨークやシカゴで生み出されるガラージ・ハウスやディープ・ハウスをいち早く英国へ紹介するという二つの路線であった。その頃、まだまだ英国はハウスという音楽においては後進国であり、ニューヨークやシカゴの後を追っている段階にあったといえる(キャバレー・ヴォルテールがテン・シティとコラボレートしたシングル「Hypnotised」がリリースされたのは89年のことであり、それはその翌年のシカゴ録音の楽曲を含むマーシャル・ジェファーソンなども参加したアルバム『Groovy, Laidback And Nasty』へと発展してゆく)。フリータウンのサンキは、ジャズの時代から黒人音楽をマニアックに愛好してきたロンドンという街でのニューヨーク系ディープ・ハウスの需要の広がりを早くから確実なものだと見込んでいたのであろう(ロンドンの街にニューヨーク・スタイルの巨大ナイトクラブ、ミニストリー・オブ・サウンドがオープンするのは92年のことである)。

そして、そこにロバート・オーウェンスなどの優れた人材が自然に集まってきて、ロンドンという街において場所とタイミングがばっちりと噛み合い、フリータウンの設立とともに着々とリリースのプロジェクトが進められていった。この時に、サンキがレーベル運営を行う上での軍資金としていたのが、日本で総会屋としてボロ儲けした五億円であったようだ。真偽のほどはさだかではないが、サンキはよく「(自分の)レーベルを始めるのに五億を全て注ぎ込んだ」と語っていた。そして、音楽レーベルというものが簡単にポッと始められるような稼業ではないということも何度となく述べていた。よい音楽を世に送り出すレーベルというものを生業とするならば、それなりの覚悟と信念と資金力が必要だと言いたかったのだろう。そして、サンキは実際の音楽業界というものが、そういったダーティな仕事で儲けた金であったり闇の稼業で作り出した金で動いているということも、ずっと間近で具に見てきてもいたのである。

しかしながら、大金をはたいた話はともかくとして、サンキの音楽的な良し悪しを聴き分ける耳は非常に感度のよいものであった。生来的に良い音や良い音楽というものを感覚的に聴き分ける能力に非常に長けていた人物であったのだろう。ある意味では、レーベルのマネージャーというのは彼にとって天職と呼べるような仕事であったのかもしれない。瞬時の判断で、常にハウスのトラックの良し悪しを選別していた姿が強く印象に残っている。ハウスはダイレクトに身体や感性に訴えかけるダンス・ミュージックであり、ある意味ではその感覚的な部分で全て決まってしまう音楽でもある。サンキのような天賦の耳をもつ人物こそが、もっともよくハウスの本質の部分を聴き取ることができる。ある種の研ぎ澄まされた動物的な勘と嗅覚のようなもので、サンキはハウスの良し悪しを選別的できていたのである。

フリータウンとは、アフリカのシエラレオネの首都の名前である。そのフリータウンという都市の名を冠したレーベル名に象徴的に表現されているように、サンキは誰よりも強くフリーになれる場所を希求していた人だったようにも思える。何かをがむしゃらにするような姿を人に見せるような人ではなかったが、内に秘めたものには何か物凄いものがあったのではなかろうか。もしかすると、狭い日本で暮らすことに見切りを付けて英国に渡ったというのも、そうした自由になれる空気を求めてであったのかもしれない。日本国内にいては、どうしても自らの出自や経歴から自由にはなれず、息苦しさが常に付きまとってしまうことに疑問を抱いていたのであろう。在日の朝鮮人であることで、不当にも血や肉の部分で日本人とは異質なものであると日常的に区別されてしまう。目に見えないが確実に存在するその区別の心性が、差別や偏見といったものを日本人の内面に生み出すのだ。そうしたものから遠離ろうとする意識が、後のフリータウンというレーベルにまで途切れることなく流れ込んでいたとしても何ら不思議ではない。

英国の社会にも排外主義的な人種や肌の色やセクシャリティに対する差別や偏見は存在するだろう。そして、それはおそらく日本の社会におけるそれよりも、より目に見える形で根深くそこにあるものであるに違いない。だがしかし、それは日本での在日の朝鮮人に対する、(なるべく)目に見えないようにしながらも暗黙のうちに言動の裏側にべっとりと張り付けられているような、陰湿な秘匿された差別や偏見の意識というものとは全く異質なものであったのではなかろうか。そして、その明らかな違いを目の当たりにして、一方的に押し付けられる差別や偏見に対して折り合いをつけて生きる糸口のようなものを、初めてそこで見出すことができるようになったのかもしれない。

かつてのサンキは、差別や偏見に対して純粋な暴力的報復を試みたり反社会的勢力の一部となって強請や恐喝を行うといった形での反抗や抵抗の行動しかできていなかったのだろう。そのため、ロンドンに渡ってからは、街の中での弱者や虐げられた階級による抑圧排除の動きや、階層と階層の境界線上で人々せめぎ合うのうねりの渦中に、日本でのネガティヴな差別の経験や非差別的な意識を抱え込んだまま敢えて飛び込んでゆくことになったのではなかろうか。ウォリアーズ・ダンスは、ロンドン市内のカリブ系やアフリカ系の移民のコミュニティと密接に結びついた、そうした地域の人々(戦士の血を受け継ぐものたち)の声をリプレゼントしているレーベルでもあった。彼らが、ロンドンという都市の片隅で、その存在を(オルタナティヴな音楽やレコードという目に見える形で)主張すること自体が、ひとつの社会的な闘争や異議申し立ての様式やステイトメントにもなっていたようなところがある。

そして、いつしかサンキ本人も、そのウォリアーズ・ダンスの周辺の誇り高きコミュニティの一部に溶け込んでいったのである。元々が移民たちによって形作られた共同体であるから、アジアの東のはずれからやってきた一風変わった日本生まれの朝鮮人であっても全く問題なく、あたたかく迎え入れられたのであろう。そこにある人間臭い温もりや下町の人情に触れて、サウンドシステムやダンスフロアが彼らにとっての(目に見える)未来や希望であることを肌で感じ取っていったに違いない。弱きものたちや虐げられたものたちが一時的自律ゾーンにおいて解放され、音楽によって救済され、どんな足かせからもフリーになれるオルタナティヴな生の次元というものを、ウェアハウス・パーティでプレイされるハウスのビートやグルーヴの中に聴き取ることができたのではなかろうか。

前述した通りフリータウンとは、西アフリカのシエラレオネの首都の名称である。また、その名の通りフリータウンとは欧米の帝国主義・植民地主義や奴隷制度と深い関わりをもつ。それは解放奴隷のアフリカへの再流入によって新たに作られた新しい街であり、暗い奴隷制度の歴史なくしては人類史上に出現しなかった街でもある。フリータウンでは、18世紀頃から西アフリカ各地から集められてアメリカやイギリス、ジャマイカなどに強制連行され解放奴隷として帰還したものたちの入植によって、新たな混淆的な文化と街の歴史が生み出されていった。その象徴的な正と負の両面を併せ持つ文化都市の名前が、サンキの中の民族と自由のイメージとつなぎ合わされ、ハウス・ミュージックという音楽による自由と解放の理想の世界像をも、そこに投影し生み出してゆくきっかけとなっていったのだろう。

東京もロンドンもニューヨークも高度に発展し繁栄を謳歌する大都市ではあるが、決してフリータウンではない。だからこそ、そうした都市の地下のダンスフロアではハウス・ミュージックがプレイされ、その音楽はそこに集う人々(現代の都市の解放奴隷たち)によって切実に必要とされるビートとなっているのではなかろうか。それゆえに、フリータウンはハウス専門レーベルとして始動したのであろう。

サンキは、レーベルの初期のリリース作品を収めていた共通のジャケット・スリーヴのデザインをとても気に入っていた。人間の左右の手の中にすっぽりと収められたレコード盤化した丸い地球が、高々と持ち上げられ天に向かって誇らしげに差し上げられている。差別や暴力のない世界平和の象徴というようなヴィジョンが、そこにははっきりと表現されているようであった。誰かひとりでもフリータウンの12インチ・シングルを購入した人がいれば、その人が小脇に抱えた半透明のレコード店のヴィニール袋の中から、あのジャケットのデザインがうっすらと透けて見えていることもあるだろう。それが地下鉄の駅のプラットフォームや公園のベンチなど街中の様々な場所で誰かの目に見られることで、それだけでも街に暮らすごく普通の(ハウス・ミュージックを聴かないような)人々に対しても何らかの平和的なメッセージを投げかけることになるのだと、あるときサンキはとても熱心に語っていた。

レーベルの中期には、ほぼゴジラのように見える巨大な怪獣が街中に出現して大暴れしている様子を描いた非常にアグレッシヴなデザインの共通ジャケットが採用されていた。あれはもしかすると、サンキなりのユーモアを交えた在日朝鮮人を差別する母国日本の社会(摩天楼がそびえ立つ東京の街)に対するリヴェンジというものをデザイン化したものだったのではなかろうか。ロンドンから輸入されて遥々アジアの端まで運ばれてきた、怪獣が大都会のコンクリート・ジャングルに襲いかかるデザインのフリータウンのレコードが、渋谷のレコード店の壁に何枚も並んでいる様子を見て、ちょっと愉快に思っているようなサンキが、もしかするといたのかもしれない。

だが、実際に東京に帰ってきているときのサンキは、レコード店めぐりは宇田川町のシスコやDMRをチラッと覗く程度で簡単に切り上げて、どちらかというと道玄坂あたりのポーカーゲーム屋に入り浸っていたという印象の方が強い(小売店への配給はディストリビュータに任せてあるものなので、わざわざレーベルの人間が店頭で確認するものでもないのだろう)。ちょっとでも暇があればポーカーをやりにいっていた人であった。おそらく、ロンドンの街ではそうしたゲーム・センター的な遊びはやりたくてもできないから、たまに東京に戻ってきたときに思いきり楽しんでいるのだろうと思うようにはしていたが、まあ無類のポーカー好きではあった。そのポーカーゲーム機の台の叩き方は、まさにプロっぽい手つきであり、いかにも賭博慣れしているという風の博徒の手捌きであった。指先でリズミカルにボタンを叩いてカードを選んでゆく。かなりのスピードでゲームは進行していっていたのだと思うが、ゲーム自体に詳しくない自分には何が何だかさっぱり分からなかった。サンキはいつもどこか人を喰ったような泰然自若としている人であったので、店を出るときにゲームに勝ったのか負けたのかもさっぱり分からなかった。ただ、あれだけ様々な場所の店に足を運んでゲームをしていたところを見ると、いつもそこそこは勝っていて、ちょっとした小遣い稼ぎにはなっていたのであろう。しかし、ポーカーゲーム屋というのは、まさにお客からごっそり金を巻き上げようという気配がぷんぷんと漂っていて、なんともいえない緊張感が常に空気の中に張り詰めているような場所であった。

また、ポーカーや賭け事だけではなく、電話をかけるのも非常に好きな人であった。東京でもホテルの部屋に戻ると電話器を自分の近くにもってきて、そこから国際電話であちこちにかけまくっていた(ケリ・チャンドラーとデニス・フェラーによるスアレのアルバム『First Steps』(99年)には、サンキが残したルーディな留守電のメッセージがそのまま「Sangki's Afternoon」というタイトルで収録されている。CD版では冒頭のイントロ部分に、そのサンキからのメッセージが使われている)。シスター・スレッジのキャシー・スレッジ、元イマジネーションのリー・ジョン、フォンダ・レイなどのフリータウンから作品をリリースしているアーティストやプロデューサーに、特に何か用事があるわけでもなく次から次へと電話をかけまくるのが恒例となっていた。何も用事はなくても、彼らが今何をしているのかということに興味があったのだろう。まだフェイスブックもツイッターもなかった時代であるから、電話をして確かめてみるしか手はなかったのである。

東京が夜の時間帯であると米国は必然的にまだ早朝の時間帯であるために、なかなか電話はつながらなかった。だが、サンキは全くめげずに電話をかけまくっていた。キャシー・スレッジは、地元のフィラデルフィアでフィットネス・スタジオをやっているらしく、そこに電話をかけるのだが、電話をしてもまだ営業時間にはなっていないために延々と留守番電話の営業時間内にまたかけ直してほしいというメッセージがリピート状態で流れているだけであった。しかし、サンキは、そのキャシーが吹き込んだ留守電の応答メッセージを聞いて「しかし、いつ聞いてもいい声してるよ」と何とも嬉しそうな表情でしみじみと感想を漏らしていた。そして、「ほら、ちょっと聞いてみな」と受話器をわたしに渡して、その留守電のメッセージを聞かせてくれた。遠く早朝の米国から聞こえてきているテープに吹き込まれた応答メッセージは、あの往年のディスコ・ヒット曲「We Are Family」でお馴染みのキャシー・スレッジの絶妙に掠れた特徴的な声そのままであった。

そうやって、いつも暇さえあれば頻繁に電話をかけまくっているからなのか、レーベルのリリースに関係しているアーティストやプロデューサーの電話番号は全て暗記しているようであった。それはそれで、いかにもインディ・レーベルのボスらしい姿でもあった。ひとりで全事業の一番上に立って、ゆるくつながっている組織をまとめあげる人というのは、何かというと組織に関わる人間とこまめに連絡をとったりして、皆から少しうざいと思われるくらいで、ちょうどよい信頼関係が保てるようになるものなのではないかということを、サンキのそのちょっと行き過ぎているレヴェルの電話癖から学んだようなところは確実にある。どんな形であれ、最後はコミュニケーションがものをいうのである(例の「Sangki's Afternoon」で聞くことのできる留守電のメッセージは、唐突にサンキがかけてくるどうしようもない内容の電話の好例である。冗談なのか本気なのかよく分からないが、全てがとてもサンキらしい貴重な留守電の記録だといえる)。

そして、誠に恥ずかしいことではあるが、わたしはサンキにとてもよく怒られた。それも、本当にこっ酷く。大抵は、周りに誰か知っている人がいるときに限って怒られた(ほかに人がいない時には滅多に怒るような人ではなかった)。だが、それもこれもこちら側の何かを認めてくれているからこそ口やかましく叱咤してくれているのだと思い、そこから今の自分に足りていない何かを学び取らねばならないという気持ちが芽生えもして、厳しいけん責さえもが有り難い教えのように感じられたりもしたものである。どこかでわたしのことを身内の人間のように感じてくれているからこそ、強く叱りつけることができるのだろうとも思ってはいた。だが、その思い込みが正しいものであったのかは、今となってはもう確かめる術は何もない。実は、ただの怒りっぽい怖い人であったというだけのことであったのかもしれない。ただし、サンキのような大人物に、何らかのものであると少なからず認められているのだと感じられるということは、こちらとしてもあまり悪い気分がすることではなかったのである。それが、思わず背筋が震え上がるような言葉で思いきり叱られてばかりであったとしてもだ。あの当時、足に錘を括りつけて東京湾に沈めるというようなことは何度となく言われた。実際、サンキには何人かもう沈めていそうな雰囲気が漂っていたから余計に恐ろしかったことを今も覚えている。

お世辞にも柄がよいとはいえないタイプの人であったサンキのことを、ヤクザやコリアン・マフィアといった人間類型になぞらえることは比較的容易いことである。実際、ある日いきなり何の予告もなくスタジオを訪れて、某プロデューサーが大事に秘蔵していたデモ・テープを半ば強奪するように持ち帰り、折角だから自分のレーベルからリリースしてあげたというような話を、ごく普通のビジネス事例のように喋るような人ではあった。サンキは、相手ができれば見つからないように隠し通そうとしているものを、鋭い嗅覚で探り出して、巧みな話術で誘導するようにさらけ出させ、狙っていたもの以上のものをまんまと取り上げてしまうようなことが、とても上手な人であった。そうしたあたりは、さすがに一時期は総会屋としてもならしたサンキのもつ野生のハイエナのような一面であったのかもしれない。相手の隙を絶対に見逃さない鋭さが、どんな時にもあった。

しかしながら、とてもヤクザっぽい雰囲気をもつ人ではあったが、実際には本物のヤクザとは正反対の人ではあった。誰かと徒党を組むということは決してなく、常に一匹狼であった。それだけ芯の部分がとても強い人であったのだろう。そして、それだけの頭のよさも十二分にあった。また、その近くに誰も寄せ付けないような独特の雰囲気は、その内面にあった深い孤独の裏返しでもあったのかもしれない。ヤクザという肩書きですら窮屈に感じられてしまうであろうほどに、人間的にとても大きな人物であったようにも思える。個人的には、ヤクザより怖い人だと思ったことは何度も何度もあったけれど。

たぶんサンキは、わたしがこれまでに会った人たちの中でも、かなり飛び抜けて何かよくわからないものすごさをもった人物であったように思われる。キング・ストリート・サウンズのヒサ・イシオカは、サンキとラリー・レヴァンにはとても似たようなところがあると語っていた。強烈に傍若無人だが憎めない性格も、人間的なスケールの大きさも、薬物などを好む趣味も、激しく乱高下するような感情の起伏も。だからこそ、ふたりはとてもウマがよく合ったようなのだ。あまりサンキはナイトクラブに行っても一つの場所に長居したがらないタイプであったが、仲のよいラリー・レヴァンがDJを行なっているときにはDJブースを訪問してクラブの音楽と雰囲気を楽しんでいたという。残念ながら、わたしは芝浦のゴールドなどでラリー・レヴァンのすぐ近くにまでは行けたものの直接会話したりすることはかなわなかった。だがしかし、ヨ・サンキのようなラリー・レヴァン級の大人物と知り合うことができ、近くでさまざまな話を聞くことができたことは、個人的に非常に誇りに思ってはいる。

初めて東京で直接面会した日に、サンキは自宅から乗ってきたのか親類の車だったのか、白い国産のスポーツカー・タイプの車で渋谷にやってきた。そのままサンキの運転で都内をあちこち回りながら、車内でフリータウンのコンピレーション・アルバムを日本発売する企画の話を中心に、ハウスについてやクラブについてやDJというものについてなど多岐に渡ってあれこれ話をした。このとき、サンキはイタリアでのキッド・バチェラーのDJプレイをブースで録音したテープをわざわざロンドンからもってきてくれていて、車内のステレオでそれを聴かせてくれた。サンキが日本に戻ってくる前に、電話で日本でのキッド・バチェラーのDJがなかなかに素晴らしかったという話をわたしがしていたのを、どうやら気にかけてくれていたようなのである。そして、そのテープが終わると、デッキから取り出してひょいとわたしに手渡してくれた。今から思うと、ロンドンからもってきたそのテープをいち早く聴かせるために、サンキはわざわざ車でやってきて仕事や仕事以外の話をしながら都内をぐるぐると走り回っていたのかもしれない。サンキという人は、そういう常に何か人のために気遣いをしたり何かをしてくれるような人でもあった。

その日、サンキの運転する車に乗っているときに、今でも忘れられないようなある瞬間があった。ほんの些細なことではあったのだけど。だがしかし、そのときからちょっとばかし意識に残っていて、その後に絶対に忘れられないようなサンキの言葉となった。都内の夜の道を車で走行し、そこそこ大きな交差点で信号待ちをしていた。こちらの車は信号待ちの列の先頭に位置していた。そして、信号が変わりサンキがアクセルを踏みぐっと直進をし始めたところで、左側から猛スピードで交差点に進入してきた赤信号に変わるギリギリのところを通過してゆこうとする車があった(実際は、たぶんもう完全に赤信号だったはずである)。その車が目の前を横切ってゆくのを見て、サンキは「あんな運転してたら、あいつ絶対に早死にする」と、とても冷静にひとこと言い放ったのである。

だが、その約三年後にサンキは自動車事故で若くして他界することになる。いまだにサンキが死んだというのは何かの間違いなのではないかと思うことがある。事故死だと公表はされてはいるけれど、本当はどこかで今も生きているんじゃないのかと、少し疑ってみたくもなってしまうのだ(何か非常にまずいことが起きて、交通事故死に見せかけて姿を消すというようなフィクションの世界で起きるようなことを実際にしなくもなさそうなのが、サンキという人なのだ。まさに、そういうことに関する機転は、おそろしくはたらきそうな人物ではあった)。サンキが落命したのは、英国の山間の地方で起きた事故であったという。その事故車をサンキが運転していたのか他の誰かが運転していたのか、あまり詳しいことは分かっていない。サンキが事故死したという知らせを聞いたのは、事故が起きてから少し経ってからのことだった。ニューヨークのFM局WBLSなどで活躍していたDJ兼プロデューサーのジョン・ロビンソンが交通事故で亡くなったというニュースがあり、どうやらフリータウンの社長もその車に同乗していたらしいという、まだ真偽がさだかではない情報が一緒に伝わってきたのである。ちょうど、しばらくサンキから電話がかかってきていないなと思っていたところであった。

こうして、何もかもがうやむやになった感じのままサンキはわれわれの前からぷっつりと姿を消してしまった。いつどこでサンキの葬儀があったのかもしらないし、どこに墓所があるのかもしらない。その死や死後のことなど、全て何もかもが謎のままなのである。呂将軍の血を引く生来のウォリアー(戦士)は、どんなことがあろうとも真のフリータウンに到達するまで勇ましく戦い続けるのではなかったのか。すべては、とても呆気なく、まるで全てが夢か何かであったかのように終わってしまった。

もしも、サンキが自動車事故に巻き込まれることなく、あのまま何も途切れることなく時間が流れていたとしたら、もしかするとわたしはロンドンに渡っていたのかもしれない。フリータウンのスタッフの一員として働くために。あの当時、サンキはシャカ・カーンの弟のマーク・スティーヴンス等とともにR&Bやソウルのレコーディング・プロジェクトを水面下で進めていた。シャカ・カーンの人脈の広さも手伝ってスティーヴンスの周辺には多くのミュージシャンやヴォーカリストがひしめいていたようだ。サンキは、そこに目を付けて何か新しい事業を仕掛けようとしていたようである。かつてフリータウンのA&Rにロバート・オウエンスを起用したように、スティーヴンスとその幅広い音楽人脈を新たな軸に据えて、多種多様なR&Bやソウルやジャズ・ファンクなどのレコーディング・プロジェクトや音楽制作プロダクションの事業を進めようとしていたのではなかろうか。

あの当時、シャカ・カーンとサンキがとても親しい間柄にあったことは、一部の人間の間ではよく知られていたことであった。サンキからの話を聞く限りでは、シャカ・カーンの側が一方的にサンキに対して熱を上げているというような口ぶりではあった。だが、実際のところはサンキの方とて満更でもなかったのではなかろうか。サンキにとってシャカ・カーンは長年その歌声を聴き込み、憧れ続けた歌姫であったのだから。個人的には、そんなふたりの関係性はさらに進んでゆくのではないかとも思っていた。だからこそ、弟のスティーヴンスとのプロジェクトも着々と進行していたのではないかと。

そんなことをあれこれと国際電話で聞かされていたら、ロンドンはとても楽しそうだと思うようにもなるというものである。もしかすると、フリータウン関連の仕事で名だたるミュージシャンたちがスタジオで演奏しているところを間近に見られるようなこともあるかもしれないのだから。シャカ・カーンやキム・マゼルやタカ・ブーンが歌う姿をすぐそばで見ることもできるだろうし、音楽業界の深いとこるまでを実際に見て知ることができただろう。しかし、そうした新しいプロジェクトが動きだしはじめ、これからとてもおもしろいことになってゆきそうだと思われたその矢先に、肝心のサンキがいなくなってしまったのである。そして、そのままシャカ・カーンとのこともマーク・スティーヴンスたちとのこともあっさりと立ち消えになり、後には何も残らなかった。

1998年、すでに主を失い消滅状態にあったフリータウンから、ずっとアンリリースドのままになっていた既発曲の別ヴァーションやもしかするとレーベルからリリースされる予定であったのかもしれない未発表曲を、極めて無造作にまとめただけの、DJ向けの半ばホワイト・レーベル的なオムニバス・シングルが四枚ほどぽろぽろと立て続けにリリースされた。そして、これらの在庫一掃処分のようなリリースをもって、約10年に及んだフリータウンの歴史はひっそりと完全に幕を降ろしたのである。

おそらく、それらはサンキが何らかの理由でお蔵入りにしていたり生前に温存していたマスターテープ群を、ひとまとめにして放出したものであったのだろう。この最後のリリースからの収益によって、サンキが残したままとなっていた各方面への支払い等を清算して、きれいにレーベルを終わらせようという目的もあったのかもしれない。そのために、特にジャケットやアートワークには全くコストをかけずにリリースされたのだと思われる。そういう意味では、まさに潰れた店の投げ売りセールのようなリリースでもあった。

こんな妙な終わり方をしたハウス専門レーベルの存在を、わたしはほかにはしらない。大抵は、立ち行かなくなったレーベルというものは、いきなりすっと何の前触れもなく表舞台から消えてゆくものであり、その幕引きというのはなかなか目にはつかないものである。そういう意味でも、フリータウンは非常に特別なレーベルであったといえるのかもしれない。あのサンキがやっていたレーベルであるのだから、絶対によくある普通のレーベルのままでいられることなんてことは、まず全く有り得ない話ではあるのだけれど。

もしも、あの頃にロンドンに行ったとして、フリータウンの仕事などに携わっていたら、今ごろわたしはどうなっていたのだろうか。まだサンキが生きていたならば、全く違う人生になっていたのかもしれない。だが、そうなると、もしかしするとサンキとともに自動車事故に遭うのは、ジョン・ロビンソンではなくてわたしになっていたということだって有り得ないことではない。生きると死ぬは紙一重である。運命なんて、どこでどうなるのかわからない。何もかも全く想像も予想もつかないことばかりである。


(後記)
「フリータウン再訪」は、もともとは二〇一〇年代のなかばごろに書いた一文である。そのまま十年ぐらいほったらかしにしてしまい、二〇二四年十一月に少し手直しをした。新たに書き足した部分は特になく、ちょっとわかりにくい部分に説明を加えたり表記などに少し手を入れた程度である。この表題は、スコット・フィッツジェラルドの「バビロン再訪」にちなんでいる。最初に書いた時からこのタイトルだった。何かもっと違うタイトルにしようかとも思ったのだが、なにもよいものが思い浮かばなかったので、そのままにした。これは、やはりわたしにとってのバビロン再訪であり、決して避けては通れぬフリータウン・リヴィジテッドなのである。

House Music Royalty: The Story of King Street Sounds
ちらっと映っているケリ・チャンドラーのパーティのフライヤー(もしくはレコード店用のアルバム販促チラシか?)に載っている文章。あれはたぶん、当時わたしが書いたものであるような気がします。名文か?迷文か?今からもう二十一年も前のことなのだなあ。なんだか少し感慨深い。
このドキュメンタリーのよかったところは、グレッグ・デイという人物の存在にちゃんと触れていたこと。やはり、なんだかんだいってもグレッグ・デイが関わっていたワイルド・ピッチ・パーティがあったからこそ、その発展形としてキング・ストリート・サウンズというレーベルが誕生したのであろうから。
石岡社長が自室でレーベルをはじめた初期のころに、滞っていた請求書や書類の処理の仕方を教えたり、自分が代わりにあちこちに電話をかけて仕事を進めてあげたりしたと、ロンドンのサンキさんが事あるごとに話していたことを思い出す。どこまで本当なのかはわからないが、あの人ならばそういうことを(悪態をつきながらも)してくれそうな感じはする。なんだかんだいって、あの二人は助け合っているようなところが(当初は)あったのではなかろうか。同時期にニューヨークとロンドンでハウスのレーベルをはじめた二人の日本出身者なのだから、やはり因縁がないわけがない。そうなると、やはりヨ・サンキに関するドキュメンタリーなども見てみたくなってくる。どこまで、その人物の実像に迫れるかはわからないけれど。あの謎の人物について、やっぱりもっといろいろなことを知りたいと思ってしまうのだ。

Facebook

十一月十五日、フェイスブックにキング・ストリート・サウンズのドキュメンタリーに関する投稿をした。そして、その際に、かつてヨ・サンキついて書いたものがあったことを思い出した。それを発掘したものが、この「フリータウン再訪」となる。おそらく、ヨ・サンキとフリータウンについてのドキュメンタリーなどは誰も作らないと思われるので、こんなわたしによる実に稚拙なる全く足りていない一文ではあるけれど、これにて在りし日のサンキさんのことを思い出したり、こんな人がいたのだということを知ってもらえたら、わたしとしては非常にうれしい。

Kerri Chandler and Dennis Ferrer - First Steps
このアルバムの冒頭部分で貴重なヨ・サンキの肉声を聞くことができる。かなり酒か薬物で酩酊しているような雰囲気の口調であるのだが、こういう感じの喋り方こそがサンキの特徴的な口調であった。東北弁とジャマイカ英語が混ざったような独特のイントネーション。そして、実にアジア人的な下ネタ。この短い留守電メッセージを聞くだけでも、とても懐かしくなる。

Fonda Rae - Living In Ecstasy (Groove Mix Edit)
フォンダ・レイのこの楽曲は、元々フリータウンからリリースされていたものであり、それに対してフランソワ・ケヴォーキアンから自分のウェイヴ・ミュージックからもリリースしたいというオファーがあったようだ。そして、ヨ・サンキはそこにフランソワ本人によるリミックスかエディット・ヴァージョンを入れるならば、ウェイヴ・ミュージックからも出してよいという条件付きの許可を出したという曰く付きの一作。当時、サンキは、あのフランソワ・ケヴォーキアンからも遂に直々のライセンスのオファーがあったことを、ことのほか喜んでいた。だから、そのUS盤のリリースにもフランソワ本人に何らかの形で直接関わってもらいたかったのであろう。そして、そのフランソワの方でもサンキからの注文に応えるように渾身のエディット・ヴァージョンを仕上げている。

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安藤優 Masaru Ando
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