「レ・ミゼラブル」を見て
ああ、無情。ようやく「レ・ミゼラブル」を最終回まで見終わったものの、ずっと重苦しい気分が続いていた。人間とは、とてもちっぽけな存在である。そして、とても不可思議だ。一般的にミニシリーズと呼ばれているBBC版だが、全部で約六時間という堂々たるヴォリュームがあり、それでいて全くダレるところがない丁寧な作りで相当に密度が濃い。逆に、これだけのスケールで様々な人々が入り乱れる物語を、よくぞこれまで一本の映画やミュージカルにすっきりとまとめていたものだとちょっと感心してしまうぐらいである。子供の頃、最初に児童書で読んだ際には、あれこれいろいろ起きすぎてパンを盗んだ場面と下水道で赦しを乞う場面ぐらいしか記憶に残らなかった。それを考えれば、どんな端折りかたもありといえばありというような気もするけれど。いろいろと考えさせられる物語ではあるが、どうやらファンテーヌとコゼットが一瞬にして恋に落ちるあたりが全ての出来事の起点であり尽きせぬ悲喜こもごもの動力源となっているようにも思われる。恋する乙女は誰にも止められないし、そこにこそ人類の歴史の核心があるともいえようか。ファンテーヌの恋は無残にも失敗に終わり、そこから全ての救い難い悲劇の連鎖が始まる。コゼットの恋は様々な奇跡と因縁と運命が重なり合って成就し、遂には真の幸福を手にすることが可能となる。ただし、そこに至るまでの奇跡のいくつかの種は、母のファンテーヌがまるで一瞬にして恋に落ちるような直感的決断を行ったことによって生前に準備しておいたものでもあった。そのうちの一つが旅の途中で立ち寄ったティナルディエの宿屋に幼いコゼットを預けたことである。当時、父親が誰かわからない幼子をもつ母子家庭では、素性を怪しまれて、まともな仕事に就くこともままならず、生活が困窮することは目に見えていた。だからこそファンテーヌは断腸の思いでコゼットと別れた。ティナルディエの宿屋では下人のような扱いでただ働きをさせられ地獄のような日々を送っていたコゼットであったが、その最後のつっかえ棒となる場所にしがみついて留まっていたからこそ、その小さな命はつなぎ止められ後の奇跡の数々の始点となったのだともいえる。また、これを別の視点から考えると、この悲惨な物語中においては際立って天使的な側面をもつティナルディエ一家の長女エポニーヌが、瞬間的直感で母のファンテーヌと一緒にいると先行きが慮られるコゼットをその不幸な運命から救い出していたのだともいえるだろうか(この救いはワーテルローの戦場から瀕死のポンメルシー大佐を救い出したティナルディエのほら話と対をなす/さらには絶体絶命のマリウス・ポンメルシーをまさに身を挺して救ったのもエポニーヌであった)。また、マドレーヌ市長ことジャン・バルジャンとファンテーヌの偶然であり必然な運命の出会いも大きい。ここでは、最初に目見えたときにすでにジャン・バルジャンがファンテーヌに対して一瞬にして恋に落ちるかのような直感的な何かを感じ取っていた節がある。行き場を失い他者の慈悲にすがるしかない人間が端々にあらわにする緊迫したままの感情のテンションに、自らの経験から何か勘づいたのであろうか。しかし、このときはファンテーヌに対して何ひとつとして彼女が望んでいたものを与えることができない。市長であり工場長であったたジャン・バルジャンには、まだ無私の人となってなりふり構わず最大限の愛を与える準備ができていなかったのである。その後、徒刑場生まれのジャベール捜査官に捕らえられ終身刑の囚人としてあのトゥーロンの徒刑場へと送り返される。全ては振り出しに戻ってしまったかのように見えた。だがしかし、幼きコゼットの運命はファンテーヌの遺志に後押しされているかのようにこの母娘と関わった全ての人々を巻き込みながらぐいぐいと前進を続けるのである。追いつ追われつ探して逃げて、バラバラの道を歩んでいるように見えても知らぬ間に一箇所に集まってきてしまう、ジャン・バルジャンとジャベールとティナルディエ。この三者は実はどこかよく似た三人でもある。もしかしたら、ジャン・バルジャンがワーテルローで瀕死のポンメルシー大佐を担いで弾丸や砲弾の雨を避けながら走り回っていたかもしれないし、ティナルディエは徒刑場の看守として囚人たちの脱獄に目を光らせパリ市警の警部にまで出世していたかもしれないし、ジャベールは本能的に犯罪の匂いを嗅ぎつけて法に背を向け常習犯の大悪党として生きていたかもしれない。実際にそうならなかったのは、ちょっとした運命のいたずらでしかなかったのだろう。ただし、シャンブルリー通りのバリケードで重傷を負ったマリウス・ポンメルシーを背中に担いで下水道を使って命からがらに救い出さなくてはならなかったのはほかならぬジャン・バルジャンであった。この救出の際には、あのティナルディエが最後の最後で非常に重要な手助けをすることになる。つまり、本当の意味でポンメルシーを担いで運んだのはティナルディエではなくジャン・バルジャンであり、様々な意味においてマリウスとコゼットの運命を奇跡的に救ったのはティナルディエとジャン・バルジャンの両者であった(ゴルボー屋敷でのコゼットの「お節介ババア(Nosy old bitch!)」発言が示唆しているように、ある面においては明らかにティナルディエもまたコゼットの育ての親の一人なのである)。そして、そこで再び念願かなって執拗に追い続けた脱獄囚ジャン・バルジャンをその手で捕らえるものの、ジャベール警部は一存でジャン・バルジャンの罪を全て赦す直感的決断をする。運命によって引き寄せられあっていた三者がそれぞれに善なる行いをして絡むことで、ここに全ての奇跡の積み重ねのストーリーは完結することになる。だが、コゼットがマリウスとの新しい生活のために家を出て、たったひとりで取り残されてしまった途端、ジャン・バルジャンはまるで風船から空気が抜けて萎むかのようにみるみるうちに弱っていってしまう。あのティナルディエの安宿でこき使われていたファンテーヌが遺した幼い娘を引き取った日から全身全霊をかけて無償の愛を傾けて養育してきた存在、そしてその常に弱々しく挫けそうになってしまう心の大きな支えであった愛娘を手放したことで、初めて孤独というものと一対一で向き合わなくてはならなくなる。自問自答の日々。ミリエル司教であれば何と答えるか。その深い孤独とは、法の下僕となり罪の摘発に明け暮れ、誰も愛することなく誰からも愛されることなくずっと薄暗い闇の中で過ごしたジャベール警部の境遇そのものであった。はたして、ジャン・バルジャンの後半生は幸福なものであったのか。それとも、罪人とは幸福な生など望んではならないものなのか。夫婦となったマリウスとコゼットに見守られながら、善悪の光と闇が重く垂れこめる小さなベッドの上でジャン・バルジャンは安らかな眠りにつく。
もしもコゼットがエポニーヌのようなタイプの女性だったら。子供の頃から修道院で育ったことでサンプリス女史などから多大な影響を受けて、「パパ、わたし修道女になる!」という一言で、その後の全ては交わることなく実に平静なままあっさりと片付いてしまったような気もする。ティナルディエ一家はゴルボー屋敷でくすぶり続け、ジャベールはジャン・バルジャンの行方を追えずに失意のままに入水し、マリウスはバリケードで非業の最期を遂げ、ジャン・バルジャンとコゼットは修道院で神に仕える人生を全うする。しかしまあ、これでは全てが中途半端だろうか。やはりコゼットはひばりのように自由に青い空を飛び回れないとコゼットではないのだ。ジャン・バルジャンもいつまでも若い娘を狭い場所に閉じ込めておけないことは十分に承知していたはずだ。窮屈な鳥籠の中から飛び立って自由に舞い飛び歌っていてこそコゼットはコゼットらしくいられる。そして、それを可能にする人物とは、皮肉にもティナルディエを介して幼い頃からコゼットとは浅からぬ因縁があったマリウス・ポンメルシー男爵であった。ジャン・バルジャンは、普通の自由な市民生活というものからはあまりにも遠く隔たってしまっていた。後のことは、自分以外の信頼のおける誰かに託すしかなかったというのが実際のところだったのだろう。おそらく、コゼットが大きくなった頃には、自分はもうそれほど長くはないと死期が近いことを薄々悟っていたのではなかろうか。
ただ、あのプチジェルべだけは、ジャン・バルジャンとは関わりがあったもののそれ以外の因縁が薄かったためか、ストーリーのどの部分にも関係してくることができなかったのが残念である。あの田舎道でジャン・バルジャンが中途半端な追いかけ方しかしていなかったので、何だかずっともやもやしてしまっていたのだ。どこかで偶然に再会して、鞄の中の四十スーをお返しする場面があったらすごくよかったのに。かわいそうなずっと損したままのプチジェルべ。ああ、無情。
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