真野恵里菜: BEST FRIENDS
真野恵里菜: BEST FRIENDS
Best Friends
2013年2月23日、中野サンプラザにおいて開催されたソロ・コンサート「真野恵里菜メモリアルコンサート2013 OTOME LEGEND~For the Best Friends」をもって、約六年半に渡って在籍したハロー!プロジェクトを卒業した真野恵里菜。06年に現在はハロー!プロジェクトの研修生となっているハロプロエッグに15歳で加入し、約二年間の研修期間を経て大抜擢されインディーズからソロ・デビュー、09年3月には遂に念願のメジャー・デビューを果たして、約四年間に渡り繰り広げられた真野恵里菜のアイドル活動の第一章が、ここに幕を降ろした。
この作品は、そんな真野恵里菜のハロー!プロジェクトでのアイドル活動の総決算ともいえる初のベスト・アルバムである。ここには、記念すべきメジャー・デビュー曲の“乙女の祈り”からハロー!プロジェクトでのラスト・シングルとなった“NEXT MY SELF”までの全シングル曲である14曲と、卒業に合わせて制作された3曲の新曲の全17曲が収録されている。まさに、この四年間に真野恵里菜がソロ・シンガーとして歩んできたアイドル道の軌跡を、まるごと凝縮したような作品となっているのである。そんな卒業作品でありヴェリー・ベスト盤である本作が、感慨深いものとならないはずがない。僅か四年ほどの歩みではあったが、この全17曲には真野恵里菜というアイドル・シンガーが作り上げてきた(真野恵里菜というアイドル・シンガーを作り上げてゆくために積み重ねられてきた)とてもとても大きなものが詰め込まれている。
まずは、このハロプロからの卒業作品となるベスト・アルバムのために制作された3曲の新曲に注目したい。この新曲のうちの2曲は、真野恵里菜の作品においてはおなじみの三浦徳子が作詞を手がけた楽曲となっている。三浦徳子は、80年代から松田聖子や堀ちえみなど多くのトップ・アイドルのヒット曲の歌詞を書いてきたアイドル・ポップスの大家的な大御所であり、まだ真野恵里菜がインディーズ・アイドルであった時代から専属作詞家としてその楽曲の制作に参加し、まさに真野恵里菜という希代のアイドル歌手の歩みにぴったりと寄り添うかのように世代を越えた名タッグを組み約四年の活動をともにしてきた影の重要人物でもある。この専属作詞家としての三浦徳子の起用は、真野恵里菜のプロデューサーであるたいせいの慧眼が最も発揮された選択であったといえる。作詞家、三浦徳子の存在なくして、真野恵里菜は真野恵里菜たりえなかったかも知れないと思われるほどなのだから。
このベスト・アルバムに収録された2曲の新曲において三浦徳子は、まさにハロプロ卒業に際しての真野恵里菜の胸の内を代弁し、そこに去来している気持ちをストレートに歌に託して歌えるような見事な歌詞を書き下ろしている。これはやはり、ソロ・デビュー初期から、ずっと歌手/アイドルとしての真野恵里菜の歩み/成長を間近で見てきた人物だからこそ書ける歌詞でもあるのだろう。また、この2曲は、作詞家の三浦徳子にとっても、楽曲の制作面でほとんどアイドル真野恵里菜と一心同体となって作業を行ってきた約四年にひと区切りをつける作品ともなる。それだけに、ここに込められているものには、真野の中で/三浦の中であれこれと錯綜している様々な思いも引っ括めて、とても大きなものであるはずなのである。
すでに日本の歌謡界の第一線で活躍する作詞家として三十年以上のキャリアを誇る三浦徳子であるから、あどけない少女から大人の女性へひとつずつ階段を上ってゆく過程にあるアイドル歌手の作品を、これまでにも数多く手がけてきたに違いない。しかし、専属作詞家として、そのほぼ全ての歌手活動に深く関わってきた真野恵里菜の新たな門出には、やはりいろいろと思うところがあるのではなかろうか。そうしたあたりが、ここに収められた真野恵里菜のハロプロ・アイドルとしての最後の新曲には、歌詞の面だけではなく、そのタイトルにまでストレートに表されているようにも思われるのである。変な換喩を用いたり妙に回りくどい表現を一切しないところが、実に、三浦らしくもあり真野らしくもある。
「明日のこの私を/優しい眼で見守ってて欲しいの」と歌いかける“ゼンブダイスキ”は、これからも真野恵里菜の旅路は終わることなく続くことを強く印象づける一曲である。ハロー!プロジェクトからの卒業は、ひとつの通過点でしかない。ここからまた新たな冒険が始まるのだ。“ゼンブダイスキ”は、真野恵里菜の前向きな歌声が映える、軽快なウォーキング・テンポの清々しいポップス曲である。また、「私ができること/それは何だろうか?/自問自答するたび少し変ってきた」と歌われる、“みんな、ありがとう。”は、アイドル歌手からひとりの表現者へとこの四年間に大きく成長を遂げてきた真野恵里菜による、あらためての巣立ち宣言となる一曲である。三浦徳子が、真野恵里菜と真野恵里菜のファンと自らのために丹精込めて書き下ろした、実にストレートな感謝の気持ちと今後のさらなる活躍への固い決意を表した歌詞から溢れ出てくる情感には、思いきり圧倒される。卒業する真野恵里菜が「何故ここにいるのかが/少し解って来た」と歌うとき、そこには真野恵里菜と三浦徳子の過去と現在と未来が、一斉に押し寄せてくるのである。そして、そんな楽曲の結びは、「ありがと、わたしをいつも見つめてくれて/いつかは私が/君を支えてあげたい」という一節で締めくくられる。
そして、ベスト・アルバムに収録された3曲の新曲のうちの残りの1曲は、真野恵里菜がサトリ役で出演したドラマ版と映画版の『SPEC』の監督を務めている堤幸彦が作詞を手がけた“練馬Calling!”という楽曲となっている。作曲を手がけているのは、元チェッカーズの武内享。どこか長閑な雰囲気の軽いカントリー・ロック調のアレンジがなされたラップ入りのポップ・ロック曲であり、アルバムの最後にベスト・アルバムの本編の内容とは一応切り離されたボーナス・トラック扱いの一曲として収録されている。真野恵里菜の女優活動に関わってきた監督の堤幸彦が、真野恵里菜の新たな門出に際して餞として贈った一曲といえる楽曲のなのであろう。だが、やはりそれまでの16曲によって形作られてきた流れやハロプロ・アイドルとしての真野恵里菜が醸し出していた空気感と比較すると、明らかなまでにそこには毛色が違うものがある。間違いなく、堤幸彦や武内享はハロプロを卒業する真野恵里菜の新たな門出を祝福するためにハロプロ・アイドル以降の真野恵里菜に向けて楽曲を提供しているのだから、ベスト・アルバムの本編とボーナス・トラックでは全く異なるテイストがあったとしても、それは当然といえば当然のことなのである。
しかし、それだからこそ、この“練馬Calling!”という全く異なる意趣と意匠をもつ楽曲が、アルバム全体の中で放っている何ともいえない違和感は、アイドル・ポップスの世界では大家である三浦徳子という専属作詞家を迎え、たいせいのプロデュースの下で、しっかりした統一感をもってプロデューサー主導型のハロプロのマナーに則って丁寧に作り上げられてきた真野恵里菜という特異なアイドル歌手の色やテイストを、まさに浮き彫りにしているようでもある。このベスト・アルバムは、ただ単にメジャー・デビュー後の全シングル曲とハロプロ・アイドルとしての最後の新曲をまとめただけの内容であるのだが、それゆえにかシングル曲という全体の流れの中での大きな点となる楽曲を中心に約四年間の真野恵里菜のアイドル歌手としての活動を一望の下に俯瞰することのできる好作品となっているともいえる。09年から13年までの真野恵里菜を、この全17曲で一気に聴くことができるのである。
問題作である“練馬Calling!”というボーナス・トラックの楽曲の、どこに違和感があるのかを探ってゆくと、そこに確かに見えてくるものがあるような気がする。そこには、三浦徳子の書く歌詞の物語的な世界や綿密に設計されたたいせいのプロデュースという、ある種のぎちぎちなアイドルとしての縛りからやっと解放されて、ずっと一段高いところに上っていた状態からやっと降りてこられて地に足をつけホッとしている真野恵里菜がいるのである。それだけ真野恵里菜というアイドルには、どこかしっかりと作り込まれた独特の完全無欠のアイドル像というものを思いきり背負い込んでいる(背負い込まされている)ような、今どき珍しいくらいの正統派な重厚感めいた雰囲気すら感じさせる部分があったのだ。まさに80年代のアイドル黄金時代のスタイルを復古させたリヴァイヴァル系アイドルの真骨頂であり、ソロ歌手として勝負するハロプロ・アイドルの真骨頂が、真野恵里菜であった。それは、たったひとりで立ち向かってゆかなければならない、どこにも手本のない過酷な戦いであり、縁の下の有能な参謀たちに支えられて成り立たされる孤立無援の孤独な戦いの約四年間だったともいえるであろう。
清純にして正統派な今どきちょっと有り得ないくらいに王道のど真ん中をゆくアイドル像を体現し、アイドルの中のアイドルにして古臭いまでにアイドルらしいアイドルであったのが、まるで象牙の塔の如き特異性をもつ真野恵里菜であった。この作品のラストを飾る楽曲“練馬Calling!”を聴き終わったとき、誰もが(本編となる収録曲の16曲目までに充満している)そのアイドルとしての存在の希有な輝き=眩しいまでのアイドル真野恵里菜のオーラを目の当たりにすることになるであろう。その輝きは、もうすでに過ぎ去ってしまったものであるがゆえに、より眩く見えてきたりするのかも知れない。これから、さらに時間が経てば経つほどに、その清廉にして真っ直ぐなオーラの輝きは強く突き刺さってくるものとなるだろう。そして、21世紀初頭の貴重なアイドル遺産が詰まった真野恵里菜のベスト・アルバムは、ハロプロ・アイドル時代の真野恵里菜を全く知らぬ世代にも何度となく再発見され再評価されてゆくに違いない。真野恵里菜の“BEST FRIENDS”は、日本の歌謡界における伝統的なアイドル歌手とは如何なるものであるかという様式における王道中の王道を指し示す、(おそらく歴史上最後の)この上ない指針となるような作品であるといえる。
乙女の祈り
09年3月18日、真野恵里菜はシングル“乙女の祈り”でメジャー・デビューを果たした。それまでの約九ヶ月間をインディーズ・アイドルとして活動し、この時点ですでに真野恵里菜はインディーズで3枚のシングルをリリースしていた。そして、その間の地道なプロモーション活動の実績とタレントとしての成長が認められ、遂に念願のハロプロ・アイドルとしてのデビューの栄誉をその手に掴むことが叶ったのである。このデビュー・シングルでは、タイトル曲の“乙女の祈り”とカップリング曲の“水色想い”は、いずれも三浦徳子が作詞を担当し、作曲は“愛は勝つ”の大ヒットで知られるシンガー・ソングライターのKANが手がけている。ちなみに、三浦徳子が初めて真野恵里菜の楽曲に歌詞を書いたのは、08年10月にリリースされた二枚目のインディーズ・シングル“ラッキーオーラ”であった。これ以降、真野恵里菜の専属作詞家としてシングル曲・アルバム曲の大半の歌詞を書き下ろしてゆくことになる。
“乙女の祈り”は、桜の花の散る季節に思いを寄せる人を思う状況を、まるで源氏物語に出てくる登場人物みたいだと千年の時を越えてピュアな共感を寄せる少女の胸の内を歌った楽曲である。しかし、春はまた儚く舞い散る花びらの如く別れの季節でもある。憧れのあの人は、この街を離れて遠くへ旅立ってしまうのだ。そこで「明日あなたに良い兆しが/あの雲がたなびくその先に/乙女の祈りは強い力/遠くから見守っているのです」と歌われる少女の心情が、もはや完全に源氏物語の登場人物のひとりになりきってしまっているのが、極めてピュアで非常に印象深い。このあたりの心象の描写や、いきなり「十二単」という単語を持ち出してきたり、好きな人の夢を見て「今朝めざめた時/泣いていたの」というエピソードをさらりと差し挟むところなどに、実に三浦徳子らしい見事な歌詞が綴られている。そしてまた、人を恋する気持ちに突き動かされて源氏物語の登場人物になりきってしまう少女と真野恵里菜のもつ雰囲気やキャラクターが、絶妙にマッチしているところも白眉である。まさに、これは真野恵里菜にしか歌えないような楽曲ともなっているのである。専属作詞家の三浦徳子が時代を超越したアイドル真野恵里菜のために丹精込めて書き下ろした一曲といえるであろうか。最後の一節は、「君との思い出は大切にするよと/くせのある/あなたの澄み切った/声を聞いた」となっている。その光源氏のように澄んだ声を聞いたのが、少女の夢の中なのか現実の世界でなのかは分からない。しかし、少女の淡い初恋は、夢か幻のように春霞の向こうへとたなびき霞んでいってしまうのである。
作曲をKANが手がけ、たいせいがアレンジを担当している楽曲は、ピアノの伴奏を軸に構成された、落ち着いた雰囲気のミッド・テンポのアイドル・ポップスとなっている。MVでは、放課後に制服姿で自室のピアノを弾く女子高生を真野恵里菜が等身大の姿で演じている。この当時、真野恵里菜は17歳の高校二年生であったが、実際にはもう少し幼く見える。淡い初恋の歌を歌うのが、ちょうどぴったりはまるような、まさに純真な少女そのもののルックスなのである。そして、真野恵里菜のとても真っ直ぐな歌唱は、曲調や曲の内容とも絶妙にマッチするものであった。まるで学校の音楽室で歌うことが大好きな女の子がひとり歌の練習を行っているかのような生真面目で真剣で透明感のある歌声なのである。これは彼女にとって念願のメジャー・デビュー曲であり、とにかくレコーディング・スタジオでも、自分の中にあるものを全て出し切るだけで精一杯な状態だったのではなかろうか。三浦徳子が書いた歌詞を一語一語丁寧に丁寧に歌い込んでゆく真野恵里菜の非常に几帳面さがよく表された歌唱を、ここでは聴くことができる。この“乙女の祈り”は、古めかしい言葉でいえば深窓の令嬢タイプの、今どきあまりいないようなタイプの清純可憐な女の子の胸の内が歌われる楽曲である。だが、そんな楽曲が、真野恵里菜というアイドル歌手のイメージと完全に合致して聴こえるのである。そして、そうしたスタイルの楽曲が、わざわざ真野恵里菜のキャラクターに合わせて書き下ろされているということに、あらためて驚かされもするのである。“乙女の祈り”は、25年前の84年にヒットしたアイドル・ポップスのカヴァー曲だといっても、多くの人が信じ込んでしまいそうな楽曲となっているのだから。
戦国時代のアイドル
ハロプロ・アイドルの真野恵里菜は、背後をがっちりと固めたプロダクション・ティームの手によって丁寧に作り上げられたハイ・レヴェルなアイドル像の表れであり、それでいてその像の根幹をなしている素の真野恵里菜のキャラクターもまた重要なエッセンスとして前面に押し出されていたという点において、まさに真野恵里菜にしかもちえない独特なアイドルとしての魅力を身につけていたといえるだろう。とてもアイドルらしいアイドルでありながらも、今どきのアイドルらしくない部分も併せもっている。それが真野恵里菜というアイドルの大きな特徴であり、大きな武器であり、そして結果的には決定的なジレンマでもあった。
元々の昔懐かしい往年のアイドルを思わせる特異な個性を基調としながら、こつこつと綿密な計画の下に作り上げられていったアイドル真野恵里菜のアイドル像。プロデューサーのたいせいや専属作詞家の三浦徳子も、そうした真野恵里菜のもつ先天的なアイドル真野恵里菜らしい個性という部分は、大きな路線の設定と決定に際して、とても重要視していたように思われる。それだからこそ、おそらく真野恵里菜にしか表現することのできない究極的に清純でアイドルの王道中の王道をゆく冗談とも本気ともつかぬ(メタな)アイドル路線が生み出されたともいえるのではなかろうか。そうした、真野恵里菜ならではのアイドル路線の特異性やエクストリーム性やおもしろさは、ベスト・アルバム“BEST FRIENDS”をリリースしてハロー!プロジェクトを卒業し、もはやここにはいない存在となってしまってから、あらためてより鮮明に浮き彫りになってきているようにも思われる。
少女のようにちょっとしたハプニングに初々しく一喜一憂する、どこまでも可愛らしい王道の恋愛ソングや片思いソングを歌う真野恵里菜。ちょっと現実離れしているほどに大きな愛が込められた底抜けに明るい人生の応援歌を歌う真野恵里菜。奥ゆかしいバラード曲を、まるで胸の内の秘密をそっと打ち明けるかのように歌う真野恵里菜。そんな真野恵里菜が、挑戦し勝負していた次元とは、現在のアイドル戦国時代ともいわれるアイドル・シーンにあるしのぎの削り合いとは、ちょっとばかし異なる様相を呈すものであったことは間違いないところであろう。おそらくは、そうした全体の大きな流れの中で、少しでもソロ・アイドル歌手としての個性を目立たせることができるように、安易に主流に迎合しない路線としての真野恵里菜という特異なアイドル像が構築されていった節もあったのではなかろうか。
00年代後半に本格的に勃興することになったアイドル戦国時代と呼ばれる一連の動きの中で、今どきのアイドル像というものは、現代的な感覚にリンクするもの/今どきの時流と並走するものへと目まぐるしく変化してきた。それは、基本的にプロデューサー主導型のコンセプトを重視するスタイルのものでもある。そして、そこでは軽度なものから激烈なものまで様々なレヴェルでの虚実入り混じるセンセーショナルさや過激さの包含が要求されてもいるのだ。また、次々とコンセプトを更新することで、飽きっぽい消費者の関心を少しでも繋ぎ止めておくように、過去に作り出された新しい面の上にさらに新たな面が作り出されてゆく。そうした、あくまでもどこまでもフレッシュな魅力を追求する姿勢に、外部からの要請を受けて拍車がかかり続けているというところに、今どきのアイドル像というものの一度でも走り出したら決して止まることのない主たる特徴を見出すことができるだろう。数週間前の過去の自分も含めた、過去のアイドル像というものは、呆気なく振り切られる宿命にある。とになく良くも悪くも過去のアイドル像を振り切り、吹っ切れれば吹っ切れるほどに今どきのアイドルらしい、刺激的でフレッシュな魅力を振りまけるのである。そうした現代的な感覚に照らし合わせれば、旧来のアイドルらしさを振り切れていないアイドルらしいアイドルほど、古めかしく野暮ったいものはないのではなかろうか。
そして、このアイドル戦国時代の動きの大きな特徴のひとつに、この動きに参戦しているアイドルのほとんどが、グループで活動しているという点が挙げられる。多くのガールズ・グループが戦国時代の動きの中にひしめき合い、しのぎを削り合っている。そして、それぞれのグループのメンバーは、互いに切磋琢磨しながら歌やダンスのスキルを向上させ、グループ内で一致団結して過酷な戦国時代を生き抜くためにシビアな戦いに挑み、その活動を繰り広げてゆく。
アイドル・グループ全盛時代の真っただ中にあって、ソロのアイドル歌手として、戦国時代とも称される群雄が割拠する状況を、たったひとりで戦い抜かなくてはならなかったのが、真野恵里菜であった。そして、そのどこまでもアイドルらしいアイドルを追求する、清純にして王道の正統派アイドル路線を復古させるというコンセプトは、決して周囲の動きとは噛み合うことはなく、ソロ歌手の真野恵里菜をさらに孤立させ、戦国の状況の中でもひと際浮いた存在にしてしまうことになったのである。その反時代的なコンセプトゆえに、逆の意味で珍しい存在として目立つことはあったのかも知れない。しかしながら、それゆえに、アイドル・グループが中心の戦国の乱世からは少し離れた位置で、ひとり独自の戦いを展開している存在としてみられてしまうことの方が実際には多かったのではなかろうか。真野恵里菜のアイドル路線があらゆる面で少しばかり特別であるがゆえに、大きな流れとなるほどの戦国時代的状況を作り出している主流のアイドル像とは異なる別の次元の存在へと自然とカテゴライズされることにもなってしまっていたのである。
そういった微妙に同世代の女の子たちの(競争の)輪の中に混ざり込めないという現実は、いつしか真野恵里菜の中でも抑えがたいほどのジレンマとなってきてしまっていたのかも知れない。真野恵里菜にとっても、アイドル真野恵里菜としての自分の立ち位置が、自分でもよくわからなくなってしまっていたのだろう。アイドル・グループの独壇場である主流の流れの中で、ソロ・アイドル歌手の真野恵里菜は、どのように立ち回ったらよいのであろうか。たったひとりで、数多のアイドル・グループの攻勢に対して立ち向かわなくてはならないのか。それとも、それぞれの動きは完全に無視して、ただひたすらに我が道をゆけばよいのだろうか。センセーショナルで刺激に満ちた今どきのアイドルらしさには目もくれずに、伝統的なスタイルのおっとりとしたアイドルらしいアイドルとして。それは、とても孤独な戦いとなるであろう。はたして、アイドル歌手に孤独な戦いなどというものまでが求められているのであろうか。
プロデューサーが自分の作品を通じて作り出そうとしているものや、そこに打ち立てられるアイドル像といったものは、ひとりのアイドル歌手である真野恵里菜にもちゃんと見えていたであろうし、そのための道筋というものも理解もできていたのだろう。真野恵里菜というアイドル歌手が、その活動を通じて構築してゆく王道の清純派路線を、真野恵里菜もしっかりと理解をして、そのコンセプト通りにやるべきことを着実にこなしていたはずなのである。だがしかし、やはりというか当然の帰結というか、そこにあるアイドル真野恵里菜を仕立て上げてゆくコンセプトに応じれば応じるほどに、今どきのアイドル像やアイドル・グループたちによって形成される主流の流れからは、少しばかりかけ離れていってしまうことになったのである。
真野恵里菜という多少古風でありながらも稀有でピュアなアイドル性を前面に出したソロのアイドル歌手だからこそ醸し出せるオールドスクールな味わいというものが、決してないわけではなかった。だが、その味わいゆえに滲み出してくる古めかしさや野暮ったさが染みついてしまうことによって、今どきのアイドルという属性の中での異質性が際だってしまうという問題点の方が、真野恵里菜のオールドスクールな味を遥かに上回ってしまっていたのである。そして、その現代的なアイドル像といまいち噛み合っていない佇まいは、アイドル真野恵里菜のあらゆるところから溢れ出し、目に見えるものになってくるようになる。
さらにいえば、その全国津々浦々でアイドル・グループたちが戦いの狼煙を上げている主流の動きとは完全にズレきっていいる感じこそが、逆に新鮮でおもしろく、天然系のアイドル真野恵里菜ならではの味となっている部分もあったのである。周囲の大きな動きと違ってしまっていることを全くものともしない、おそらくその大半は真野恵里菜が先天的にもっていたものであろう天然モノのお嬢様的キャラクターもまたアイドル真野恵里菜のもつ味であったのだ。
オールドスクールなアイドル路線の味の部分や、アイドル戦国時代の動きとのズレを意識しながら、たったひとりでアイドル真野恵里菜が打ち立てるべきアイドル像を維持し継続させてゆくというのは、並大抵のことではなかったはずである。強い向かい風に逆らわず、大きな流れに迎合してしまえれば、それはそれでとても楽であっただろう。どこかで路線を変更して、伝統的な正統派という古めかしさや野暮ったさを脱ぎ去って、刺激的な新しさを追い求める方向へ舵をきり向かってゆくこともできたはずである。しかし、それでは、それまでにコツコツと積み上げ築き上げてきたものが、そこで全て無駄になってしまう。また、その決して今どきではない正統派の王道アイドル路線が、全体の流れに抗うような全く楽ではない道だからこそ、前面に立つ者としても裏方として統括する側としても、大きな張り合いや手応えというものもあったのだろう。
どこまでも清純で正統派の王道をゆくアイドル真野恵里菜とは、それぐらい繊細に丁寧に作り込まれてきたアイドル像をもつアイドル歌手であったのである。そこでは、ひとつのパーツの配置ミスや異常、ちょっとした掛け違いだけで、アイドル真野恵里菜というアイドル像は像としての体裁をなさなくなってしまうほどの細やかな戦略が丁寧に積み上げられていた。だが、そうした実に丁寧に作り込まれたコンセプトの緻密な実践の部分こそが、アイドル真野恵里菜の活動における問題点であるとともに、その先にあるものが見えてこないという限界点でもあったのだ。
Friends
ハロー!プロジェクト在籍時に真野恵里菜は、3枚のオリジナル・アルバムを発表している。それらのアルバムを手がかりに、これまでの真野恵里菜が辿ったアイドル道の歩みを振り返ってみたい。
ファースト・アルバム“FRIENDS”は、09年12月16日にリリースされている。この09年は春に念願のメジャー・デビューを果たした年であり、アルバムのリリースのタイミングは真野恵里菜からファン(FRIENDS)へのクリスマス・プレゼントとなるように企画設定されている。そして、アルバム収録曲にも、三浦徳子が作詞を担当した“サンタのサキソフォン”という楽曲を聴くことができる。
オープニングを飾るのは、記念すべきメジャー・デビュー曲となった“乙女の祈り”であり、アルバムにはインディーズ時代に発表した三枚のシングルの楽曲と、メジャー・デビュー以降に発表した四枚のシングルのタイトル曲が、全て(7曲)収録されている。ただし、08年6月29日にリリースされたインディーズ・デビュー曲“マノピアノ”だけは、すでに録音から約一年半もの年月が経過しているからか、このアルバム用に再録音がなされている。いかにも新人アイドル歌手といった雰囲気が充満する、極度の緊張感までが伝わってくるようなガチガチに硬い録音となっていたインディーズ時代の“マノピアノ”と、アルバム・ヴァージョンの“マノピアノ”を比較すると、その間の約一年半にアイドル真野恵里菜としての個性を確立し、のびのびと歌うことができるまでに随分と成長を遂げている様子が手にとるようにわかる。
また、このアルバムでは全12曲の収録曲のうち11曲までが、専属作詞家の三浦徳子が歌詞を手がけた楽曲となっている。インディーズ時代のファースト・シングル“マノピアノ”だけが、シンガー・ソングライターのKANが作詞を担当した楽曲となる。
そして、このファースト・アルバムの時点で、お嬢様的な雰囲気が漂う淑やかなアイドル曲、清純にして可憐な透明感のある正統派のアイドル歌謡、アニメの登場人物のようにコミカルに弾ける楽しいアイドル・ポップスという、アイドル真野恵里菜の楽曲のスタイルの三本の柱が、すでに確立されているという点も見逃せない。
このアルバムでの真野恵里菜のイメージは、突然クラスに現れた可愛らしいお嬢様タイプの転校生といった雰囲気である。今時こんな女の子がいるのかと不思議に思えてくるほどにピュアで真っ直ぐな佇まい。それゆえに、クラスの中でも少しばかり異質で浮いてしまっている転校生のような印象を与える。ただし、転校生の生真面目な性格が幸いしてか、その微かな異質性は保持したままではあるが次第にクラスの仲間たちと打ち解け、次第に仲のよい友達(FRIENDS)になってゆく。そんなアイドル真野恵里菜の鮮烈なる登場とその特異なイメージから、やや浮世離れした転校生をテーマにした学園モノのストーリーまでもが思い浮かんできてしまうような作品が、このファースト・アルバム“FRIENDS”なのである。
More Friends
セカンド・アルバム“MORE FRIENDS”は、10年11月24日にリリースされている。ファースト・アルバムのリリースからほぼ一年を経ての第二弾である。アイドル真野恵里菜が一歩ずつ着実に成長している姿を目に見える形で示し、それを見守るファン(FRIENDS)との結びつきをより深め、さらにその輪を大きく広げてゆこうという意思が、この二作目のアルバムのタイトルには込められているようだ。
アルバムには、09年11月25日に発表したメジャー・デビュー後の五枚目のシングル“Love & Peace = パラダイス”から10年9月15日に発表した八枚目のシングル“元気者で行こう!”までの4曲のシングル曲が収録されている。このうち“Love & Peace = パラダイス”は、ファースト・アルバムの発表(09年12月16日)以前にすでにリリースされていた楽曲となる。そして、アルバムの冒頭を飾るポップに弾けまくる真野恵里菜流の人生の応援歌である“元気者で行こう!”は、さらに元気を注入するためのアルバム用のミックスがなされた新ヴァージョンでの収録となっている。また、シングル“元気者で行こう!”のカップリング曲“家へ帰ろう”が、さらにエモーショナルに歌い込まれるアレンジメントがなされた別ヴァージョンで本アルバムに収録されている。アルバムの全12曲のうち先行したシングルに収録されていた5曲が既発の楽曲(うち2曲はミックス違いとヴァージョン違い)であり、残りの7曲がアルバム用に録音された新曲となる。
また、このアルバムでも全12曲の収録曲のうち11曲までが、専属作詞家の三浦徳子が歌詞を手がけた楽曲となっている。そして、このアルバムでも1曲だけが、シンガー・ソングライターのKANによる楽曲である。アルバムの3曲目に収録されている“ダレニモイワナイデ”は、KANが作詞と作曲を手がけている楽曲となる。この“ダレニモイワナイデ”は、バート・バカラックによる60年代風ポップスと80年代の正統派アイドル・ポップスを融合させた、黄金時代のポップスの煌めきを寄せ集めて一曲にまとめたようなKANらしい遊び心のある意欲作となっている。真野恵里菜も慣れないウィスパー・ヴォイスによる歌唱などにも挑戦し、この楽曲が求めるものに応えようとする前向きな姿勢をみせている。
アルバムの2曲目に収録されている“ごめん、話したかっただけ”では、土曜日の夜に映画デートをした少女が、その翌日である日曜日の朝七時には待ちきれずにボーイフレンドに電話をかけて「もう少し眠らせて欲しい」と言われてしまい、「ごめん、話したかっただけワタシ」とションボリするというエピソードが楽曲のテーマとなっている。なぜ、そんなに朝早くから電話をかけて話したくなってしまったのか。それは少女にとって、土曜日のデートがとても楽しく嬉しいものであったからにほかならない。映画を観た帰りに寄ったファミレスでは、ダイエット中の自分が食べられずに残してしまったハンバーグライスの半分を何も言わずに食べてくれ、歩道を歩く際には、さり気なく車道側を歩く気遣いを見せてくれ危ない時にはTシャツの裾を掴んで引き寄せてくれる。そんな彼氏の優しさや眩しさが嬉しくて、一晩経っても興奮が覚めやらずに、ついつい朝の七時に電話をしてしまったのである。そんな恋する少女の抑えきれない気持ちが、ここでは歌われている。電話の向こうの声は、まだ寝ぼけていて、「ごめん」とちょっと反省する結果となってしまったが、「いつまででも/こんな風に心、つながっているのがいい/空と風と雲みたいに/ずっと、同じ場所で過ごしたい」と、恋する少女の気持ちは、日曜日の朝っぱらから今にも天に舞い上がらん状態のままである。おそらく、ここで歌われている恋の情景というのは、かなり前の時代のオールドスクールな10代の恋愛感情をベースにしたものなのではなかろうか。しかし、恋愛感情そのものは、いつの時代も変わらぬ普遍的なものといってもよい。映画からファミレスの流れも、男性が車道側を歩く気遣いも、もはやフィクションの中だけのものであったとしても、それをアイドル真野恵里菜が歌うことで時代を超越したリアリティが立ち現れてくる。今どきいあまりないようなアイドルらしいアイドル歌手が、今どきあまりいないようなタイプの女の子の舞い上がりまくる恋愛の感情を歌う。この“ごめん、話したかっただけ”で歌われているような恋愛のエピソードは、今どきの10代の恋愛の感覚からは、たぶんかなりズレているに違いない。デートの翌日の日曜日の朝七時に、何となく声を聞きたかっただけと電話をかける少女。この少女の暴走気味の行動を、純粋で可愛いと感じるか、有り得ないとドン引きしてしまうかが、新旧の世代を分ける境い目であるのかも知れない。
このセカンド・アルバム“MORE FRIENDS”の時点で、お嬢さま系アイドル曲、清純な正統派アイドル歌謡、コミカルに弾けるアイドル・ポップスという、アイドル真野恵里菜の楽曲に見られる三本柱の完成度は、それぞれにかなり高まり、それぞれの方向性で打ち出される色合いも非常に鮮明なものになってきている。また、8曲目の“堕天使エリー”では、ハードボイルドな語りや素のなぞなぞ対決などが楽曲の構成に取り入れられ、敢えてアイドル真野恵里菜らしくない側面を前面に出すことによって、ポップに弾ける楽曲のコミカルさを際だたせるという試みもなされている。そして、そういった一風変わった試みにも果敢にチャレンジする真野恵里菜には、デビュー二年目の余裕と、アイドルとしての新たな魅力を出してゆこうとする一皮むけた姿勢を感じずにはいられない。この“堕天使エリー”のような特殊な楽曲を、見事に歌いこなし/語りこなす真野恵里菜を支えているものとは、目を見張るほどの歌手として/アイドル歌手としての表現力の向上であるに違いない。実際、真野恵里菜はデビュー時から比較すると、恐ろしい勢いで成長を遂げている。その急激な成長は、このセカンド・アルバムの時点でも全く勢いを緩めてはいない。その常に前進し自らを磨き高めてゆこうとする姿勢には、アイドル歌手としてのプロ意識の高さのようなものも感じられる。
13年4月3日にインディーズ・シングル“私が言う前に抱きしめなきゃね”でデビューした、ハロプロ研修生を中心に結成された六人組グループ、Juice=Juice。この新設されたグループのメンバーに選出された際に、08年にハロプロエッグのメンバーとなって四年以上も研修生として歌や踊りのトレーニングを積み重ね、様々な苦労や悔しい思いを耐え忍んできた宮本佳林は、このグループの成功がなければ後に続く研修生の新グループに迷惑がかかってしまうと、Juice=Juiceとして活動することへの責任重大さを語っていた。ひとりでも多くの研修生がデビューできるように、ひとりでも多くの研修生のアイドルになりたいという夢が叶うように、幸運にも一歩先にデビューできたものは、まさに死にものぐるいでがんばらなくてはならない。後に続く研修生たちのためにも、そのハロプロ研修生という看板に泥を塗るわけにはゆかないのである。
06年にハロプロエッグの第二期生となり、ハロプロ・アイドルの卵としてトレーニングを積み、いち早く08年にソロ・デビューを果たした真野恵里菜も、きっとこれと同じ気持ちを抱いていたのではなかろうか。アイドル歌手としての自分の後ろには、多くのアイドルを夢見るエッグのメンバー/研修生たちが控えているのである。自分の夢だけでなく、彼女たちの夢を叶えるためにも、デビューしたからには必死に切磋琢磨し、アイドルとしての成長ぶりを常に見せてゆかなくてはならない。そして、そうしたアイドル歌手としてのプロ意識の高さに繋がる意識は、実際にアイドルとなる遥か以前のハロプロエッグ(研修生)の時代に真野恵里菜の中ですでに培われていたといってもよいのであろう。また、アイドル真野恵里菜のバック・ダンサーは、インディーズ時代のスマイレージのメンバーやハロプロエッグ/ハロプロ研修生からの選抜メンバー(チャレンジアクト)が代々務めてきた。これは、研修生たちにとってアイドルとしての実戦・実践の場を踏むチャンスのひとつであり、将来のデビューに向けての登竜門のひとつともなっていた。コンサートのステージで後に続く研修生たちをバックに従えて歌う真野恵里菜には、それだけの重大な覚悟と責任が常に求められていたということでもあるのだろう。
とにかく、このセカンド・アルバム“MORE FRIENDS”は、アイドルらしいアイドル歌手の歌うアイドル・ポップスのアルバムとしては、間違いなくひとつの頂点を極めた作品であったといっても過言ではないと思われる。インディーズでのデビューから約二年半で、これほどの高いレヴェルにまで一気に駆け上がってくることができたのは、まさにアイドル真野恵里菜(とアイドル真野恵里菜を作り上げてきた人々)による絶え間ないハード・ワークの賜物であるだろう。それほどまでに、“MORE FRIENDS”は、どこからどう聴いても、ほぼ完璧な仕上がりの一枚であった。
More Friends Over
サード・アルバム“More Friends Over”は、12年3月28日にリリースされている。これは、セカンド・アルバムのリリースから約一年四ヶ月を経ての三作目であり、この少しの遅延により09年から毎年アルバムを発表してきた流れが途切れ、11年にはアルバムのリリースが一枚もないということになった。また、最初はシンプルに“Friends”から始まったアルバムのタイトルは、ここではモアとオーヴァーの二語が付け加えられている。ここには、アイドル真野恵里菜とそのファンたち(FRIENDS)が作り出す強い結びつきの輪を、さらに大きく広げ、今まで以上に広大な地平へと飛び出してゆこうという意欲が伺える。
そして、このセカンド・アルバムからサード・アルバムまでの約一年四ヶ月の間には、11年3月11日の東日本大震災と福島第一原子力発電所事故があり、そのちょうど一ヶ月後の4月11日に真野恵里菜は記念すべき二十歳の誕生日を迎えている。この時期は、社会的にも歴史的にも激動の日々が続き、何もかもがとても混乱していた。そして、それと同時に、アイドル真野恵里菜の周辺や、真野恵里菜の個人的な面でも、とても大きな流れの変わり目、いわゆる転換点が立て続けに訪れていたのである。
10年5月12日に発表された真野恵里菜にとってメジャー・デビュー後の七枚目のシングル“お願いだから…”では、「二十歳になる/その日には/ふたりきりで ずっといよう/ずっと先のことだけど/この胸へと刻んでいた/強く信じれば/そうなると言ったの/あなたじゃない」という三浦徳子が書いた歌詞が歌われている。ここでも象徴的に歌われている通り、この二十歳になって大人の女性の世界へと新たな一歩を踏み出す節目となる記念日は、10代の乙女の恋愛や喜怒哀楽を歌っていたアイドル真野恵里菜にとって、とても重要な意味をもつ日でもあったのだ。まさに、大震災後の混乱し激動する日本において、この時期は、真野恵里菜という個人にとっても、アイドル真野恵里菜にとっても、大きなターニング・ポイントとなっていたといってよいであろう。
このアルバムには、11年1月26日にリリースしたメジャー・デビューから九枚目のシングル“青春のセレナーデ”と6月29日にリリースした十枚目のシングル“My Days for You”の2曲のシングル曲が収録されている。3月11日の大震災が暗い影を落とした11年に真野恵里菜がリリースしたシングルは、この二枚だけだったのである。メジャー・デビューした09年には五枚のシングルをリリースし、翌年の10年にも三枚のシングルをリリースしていたことを思うと、この数字は少し寂しいような気もする。ただし、11年の後半にはソロとしてではなくハロプロ所属のアイドル総勢32名での大所帯ユニット、ハロー!プロジェクト モベキマスでの活動時期があり、11月16日にはモベキマスとしてのシングル“ブスにならない哲学”のリリースがあった。
また、アルバムのリリースの直前である12年2月22日には、両A面シングル“ドキドキベイビー/黄昏交差点”がリリースされている。しかし、このシングルの楽曲は、両曲ともにサード・アルバムには収録されていない。本来のアルバムのリリースのペース(年一枚)からいえば、この両A面シングルのリリースの前にサード・アルバムがリリースされていたとしてもおかしくはなかったのかも知れない。そう考えると、おそらくはこのサード・アルバムの収録曲の予定に、このシングルの“ドキドキベイビー”と“黄昏交差点”の2曲は最初から入っていなかったとしても決しておかしくはない。大震災の影響やモベキマスでの活動などでアルバム制作の作業が滞るようなこともあって、リリースの時期は多少遅れてしまったが、アルバムの収録曲は変更せずに当初の予定通りに十枚目のシングルまでとなったということなのであろうか。
だがしかし、アルバムには5曲目に“永遠~黄昏交差点 time goes by~”という楽曲が収録されている。これは、アルバムのリリースの直前に発表されたシングルの楽曲“黄昏交差点”で歌われていた主人公のその後の物語を歌った一曲である。つまり、アルバムよりも先行してリリースされた(アルバム未収録の)シングル曲の続編となる内容の楽曲が、それに続くアルバムに収録されているのである。そして、このふたつの楽曲は、全く同じオケを使用して歌われる楽曲であり、続編部分となる“永遠~黄昏交差点 time goes by~”のみ三浦徳子が元々の黄昏交差点の物語の流れを受け継いで歌詞を書き下ろしているのである(“黄昏交差点”の作詞作曲は本上遼が担当している)。この楽曲“永遠~黄昏交差点 time goes by~”が、元の曲とは異なる作詞家によるアルバム収録用の楽曲として初めから準備されていたのだと考えると、それと全く同じオケを使用したシングル曲“黄昏交差点”がアルバムへの収録を見送られたことも当初の予定通りであったように思われてくる。だが、そうであったとしても、その“黄昏交差点”と両A面扱いでリリースされた楽曲“ドキドキベイビー”(こちらの楽曲も本上遼が作詞作曲を担当している)までもが、アルバムへの収録が見送られていることには、やや不可解な部分が残る。
そして、そのシングル曲の収録の問題とはまた別に、このサード・アルバムには、これまでの二作のアルバムには見られなかったようなディレクションの方向性の変化のようなものが少しばかり見受けられたりもするのである。アルバムには“「進行はミチコ」の時間”と題された、前作のアルバムの“堕天使エリー”で試みられたようななぞなぞ対決やものまねで真野恵里菜の素の魅力を引き出すお遊び的なコーナー(インタールード)が、四回ほど用意されている。このそれぞれの“「進行はミチコ」の時間”もまた全て1曲と換算されているので、アルバムは全15曲収録ということになっているが、全ての“「進行はミチコ」の時間”を差し引くと、実質的にはアルバムに収録されている楽曲は11曲となる。そして、この11曲のうちで、これまでは真野恵里菜の専属作詞家としてほぼ全てのアルバム収録曲を手がけていた三浦徳子が作詩を担当しているのは、僅か5曲のみに止まっているのである。過去の二作のアルバムでは、専属作詞家の三浦徳子とプロデューサーのたいせいを始めとするシャ乱Q関係の人脈だけで固定された顔ぶれで、ある種濃密に制作作業が行われていたという面が明らかにあった。しかし、このサード・アルバムでは、その間口は大きく広げられており、過去の二作品にあったようなクローズドでインティメイトな箱入り娘的雰囲気はかなり薄れてきているのである。13曲目の“My Days for You”は、NOBEが作詩を手がけた楽曲となっており、これが初めて専属作詞家の三浦徳子以外の作詞家がシングル曲の作詞を手がけた作品となっており、これ以降のシングルにおいてメインの楽曲の作詩を三浦徳子はひとつも手がけていないのである。こうして次々と新たなクリエイターが作品の制作に参加してくることで、これまでに実に丁寧に構築されてきた三つの柱からなるアイドル真野恵里菜の乙女ちっくなお嬢様路線には決して収まりきらないような作品も、ちらほらとアルバムの構成に組み込まれてくるようにもなってくる。そうした意味でも、このサード・アルバム“More Friends Over”は、これまでの流れからは一歩踏み出したアルバムとなっているといえるであろう。今から思えば、このアルバムには、それまでには見られなかったような新しい面があちらこちらに散見され、アイドル真野恵里菜が大きく変化を遂げた作品であったのだ。まさに“More Friends Over”は、“FRIENDS”と“MORE FRIENDS”を越えて、大きなターニング・ポイントを迎えているアルバムであった。アイドル真野恵里菜は成長し、二十歳になった真野恵里菜は大人の女性としての自覚をもつようになる。そして、その目には、やがて訪れる一人立ちの時を、しっかりと見据え始めていたのかも知れない。
王道と芸能
前作のアルバム“MORE FRIENDS”において、王道のアイドル・ポップスとしてのひとつの頂点に到達していた真野恵里菜。ある種の道を極めた者が、それよりも先へと進んでゆくためには、そこで出来上がったもののそのさらに上をゆくことが求められる。これは、決して容易いことではない。真野恵里菜は、王道のアイドル像のひとつの究極を表現し、それをさらに上回るものを追い求めてゆかなくてはならなくなったのである。真野恵里菜が、しっかりと作り上げられたアイドル真野恵里菜を演じ、それを継続するだけでなく深め広げてゆく“More Friends Over”は、真野恵里菜が王道にして究極のアイドル像をより高い次元で演じ続けてゆくことに、焦点が当てられたようなアルバムとなっていたともいえる。
お遊びの要素の強い“「進行はミチコ」の時間”のコーナーを楽曲の合間に差し挟む試みなどは、素の真野恵里菜の喋りや会話の反応を前面に押し出すことによって、それぞれの楽曲の中で演じられ表現されているアイドル真野恵里菜の側面を強調する効果を狙ったものとも考えられる。しかし、結果的には、この“「進行はミチコ」の時間”のコーナーは、真野恵里菜のあまりにもピュアな素顔とアイドル真野恵里菜の間にあるギャップから、そのそれぞれの楽曲の中で演じられているアイドル像に付帯する真野ちゃんの演技力の高さを却って浮き彫りにすることになってしまったようにも思われる。
このアルバムにおけるアイドル真野恵里菜の変化とは、過去の二枚のアルバムで聴けた初期の三本の柱のアイドル像からその幅と射程を拡大し、より多様なアイドル真野恵里菜を演じ分け演じきることを可能にするだけの演技力が向上してきたことを証明するものでもある。そこで、真野恵里菜は、今どき珍しいくらいのアイドルらしいアイドルとしての完成度を高めていっただけではなく、その先にあるものをも見出してゆきつつあったのだ。それは、アイドルというものを表現しアイドル路線を突き進む険しい上り道を越えて、アイドルらしいアイドルを演じ表現することへのさらなる純化の方向性を突き詰めてゆく道でもあった。
別人格/ペルソナとしてのアイドル・キャラクターを演ずる真野恵里菜の姿は、10年のセカンド・アルバムにおける“堕天使エリー”において、まず確認することができていた。ただ、いつしかそのそれぞれの楽曲の中でそれぞれの楽曲の物語に合わせた個性を表現してゆくという作業は、作り上げられたアイドル真野恵里菜というキャラクターを演ずることと、真野恵里菜の中で同じひとつの芸能の道を突き詰めてゆく方向性として収斂されてゆくことになる。これは、登場人物の状況を書き込み心理状態を深く綴っている、三浦徳子の書き下ろす歌詞を歌うソロ歌手であるからこそ、そうした方向へ向かってゆくことになったのかも知れない。その歌詞を読み込み歌うことは、台詞の書かれた台本を読み込み演ずることと、非常に近いものがあったであろうから。08年に真野恵里菜がソロ・デビューしアイドル真野恵里菜となった時点で、真野恵里菜がひとりの表現者として演技という芸能の道へと向かうきっかけは、すでに芽吹いていたのかも知れない。
実際に、セカンド・アルバムをリリースした頃から、そうした方向へと真野恵里菜にとっての芸能の道そのものも開け始めていた。11年と12年に公開された仮面ライダー・シリーズの映画『仮面ライダー×仮面ライダー フォーゼ&オーズ MOVIE大戦MEGA MAX』と『仮面ライダー×仮面ライダー ウィザード&フォーゼ MOVIE大戦アルティメイタム』には、仮面ライダーなでしこ(美咲撫子)役で出演し、10年に放送されたTVドラマ『SPEC』には星慧役で出演、その後のスペシャル・ドラマと劇場版映画のシリーズにも継続して出演をしている。これ以外にも、映画やドラマ、そして舞台など、真野恵里菜が演技をする機会は、この10年以降にとても多くなっていったのである。
それぞれの楽曲に登場するキャラクターを演じ、それぞれの楽曲の物語を演じきる。アイドル真野恵里菜にとってのアルバムとは、自らが主演する短編作品をまとめたオムニバス映画のようなものであったのではなかろうか。真野恵里菜のアルバムは、真野恵里菜がアイドル真野恵里菜として歌い表現行為を行うアルバムであり、そのまた一面では女優としての真野恵里菜のアルバムでもあったということであろうか。一流のアイドルとは、超一流の女優でもあるのかも知れない。真野恵里菜は、2011年という大きな節目となる転換点を通過してゆく最中に、アイドル歌手のさらにその先にあるものを目標として本格的に見据えるようになっていったようにも思われる。
青春レインボウ
12年6月27日、メジャー・デビュー以降の十二枚目となるシングル“Song for the DATE”がリリースされた。このシングル曲もまた、三浦徳子が作詞を担当した楽曲ではない。ただし、カップリング曲としてシングルに収録されている“青空が笑ってる”は、セカンド・アルバム“MORE FRIENDS”のアウトテイク曲であり、専属作詞家の三浦徳子が書き下ろしたものとなっている。しかし、この10年に録音されていた古い楽曲が、約二年後のシングルにカップリング曲として収録されるというのは、どこか不可解で謎めいてもいる。この新しいシングルのために新曲は一曲のみしか録音・制作されなかったのだから。
そして、それから約一ヶ月後の7月21日に大阪オリックス劇場で行われたハロー!プロジェクトの夏のコンサートにおいて、約半年後の13年2月23日に真野恵里菜がハロー!プロジェクトを卒業することが発表された。そして、卒業を目前に控えた約半年の期間に、真野恵里菜のハロプロ・アイドルとしての新たな四作目のアルバムが制作されることはなかったのである。その代わりに12年12月12日、ハロプロ所属の真野恵里菜としてのラスト・シングル“NEXT MY SELF”がリリースされた。このシングルでも、カップリング曲の“青春レインボウ”のみが、三浦徳子が作詩を担当した楽曲となっている。これにより、11年6月29日にリリースされた“My Days for You”以降のシングル曲は、全て三浦徳子以外の作詞家が起用されて制作された楽曲ということになった。
今から振り返ると、三浦徳子が真野恵里菜の専属作詞家としての活動を行っていたのは、実質的には大震災があり真野恵里菜が二十歳の誕生日を迎え大きな転換点を迎えた11年の前半期あたりまでであったのではなかろうか。この時期に、そこでは、やはりあらゆることが大きく変化した/変化し始めていたのである。それ以降も三浦徳子は真野恵里菜の楽曲の作詩をいくつか担当しているが、メインとなるシングル曲の作詩は結局一曲も手がけることがなかったのである。だが、真野恵里菜がハロプロ・アイドルとして最後に発表したシングルに収録された楽曲“青春レインボウ”において、三浦徳子は卒業を決めた真野恵里菜を激励するような「チャンスの虹を渡って行くのは/今だよ!」「失敗したって/またいちからやればいいんだ!」といった歌詞を書いている。これは、大きな決心をした真野恵里菜の背中をそっと押すような言葉とも受け取れる歌詞である。まさに、インディーズでのデビュー直後から専属作詞家として活動をともにしてきたものだからこそ贈ることのできる愛のこもった言葉であるようにも思えるのである。もしかすると、三浦徳子は、いつの頃からか真野恵里菜が、自らの書いた歌詞を歌うだけの三浦徳子の歌詞の世界を表現するアイドル真野恵里菜の枠に収まりきらぬ存在となってきていることに気がついていたのではなかろうか。逆に言えば、真野恵里菜は、三浦徳子の歌詞の世界を読み込み、それをアイドル真野恵里菜として歌い見事に表現してみせることによって、自らのもつ大きな可能性を次々と引き出していったともいえるであろう。
演じ(られ)るアイドル
真野恵里菜とは、今現在のこの時代に大真面目にアイドルらしいアイドルというものを現出させようとする、極めてエクストリームな性質を内に秘めている存在であった。そのほんわかした清純なお嬢様的キャラクターとは裏腹に、存在そのものが今という時代の中で静かな波風を立てずにはおかないような、反主流的で反時代的なアイドル歌手であったのだ。アイドル真野恵里菜は、08年6月29日に発表されたインディーズ・シングル“マノピアノ”でデビューした。特技のピアノの演奏の腕前を活かした電子ピアノの弾き語りスタイルで、アイドル真野恵里菜は我々の前に登場したのである。元気いっぱいに歌って踊るガールズ・グループがひしめき合う中に、清純派のソロ・アイドル歌手が電子ピアノを弾き語りしながら出現したのだから、これはもう異色中の異色というしかないだろう。大人しく清楚にピアノを弾くキャラクターそのものが、現在の今どきのアイドル像とは、少しかけ離れたものであったのである。それは、30年前の正統派のお嬢さま系アイドル像をさらに純粋濾過して、時空を飛び越えて現代に蘇生させたかのようなものでもある。つまり、真野恵里菜というアイドル歌手の基本的なコンセプトそのものが、最初から極めてオルタナティヴなものであったのだ。
だが、その真野恵里菜は、ちょうど二十歳をすぎた頃から脇目も振らずに王道のアイドル道に向かう一途さを維持することに、ちょっと耐えきれなくなってきてしまっていたのかも知れない。21歳の誕生日の約二週間前である12年3月28日に発表されたサード・アルバム“More Friends Over”のジャケットには、セーラー服姿の真野恵里菜の写真が使われている。これは、アイドル真野恵里菜が、いつまでも10代の乙女のままであることを暗示する、いやかなり意図的に表明しているものなのであろう。真野恵里菜は、アイドル歌手でいる限り、いつまでも“乙女の祈り”で純粋に恋に恋する10代の乙女の気持ちを歌い、セーラー服の似合う清純派のアイドル真野恵里菜を演じ続けなければならないのである。しかし、“More Friends Over”のジャケットの真野恵里菜の表情は、そうしたアイドル真野恵里菜が背負っている宿命を前にして、少し強張り、心の奥底で揺らいでいるものをあまり隠そうとはしていないようにも見える。そして、この真野恵里菜が精一杯にアイドル真野恵里菜を演じきった三枚目のアルバムが、アイドル真野恵里菜としての最後のオリジナル・アルバムとなった。
00年代後半は、どこかハロー!プロジェクト全体が確固たる方向性を少し見失い迷走しかけていた時期でもあった。ハロー!プロジェクトはハロー!プロジェクトなりの歌って踊れるオールマイティなアイドル像を掲げて、それに向かってメンバーたちはハードな練習を積み重ねて邁進を続けていた。だが、そうしたハロー!プロジェクトが伝統的に作り上げてきたハロプロ流のアイドル像を、あまりにも熱心に集中して追い求めるがゆえに、時代の動きとともに変化してゆく新しいタイプのアイドル像とは、少しばかりかけ離れていってしまうことが多くなってきてもいたようだ。いつまでもハロー!プロジェクトが時代の中心で時代のアイドル像を作り上げていたわけではなかったし、そうした周囲の様々な動きに惑わされることなく伝統と実績のあるハロプロ流をどこまでも貫き通すことがハロー!プロジェクトの真髄でもあったため、どうにも常にフレッシュでなくてはならないアイドルに求められる同時代性というものがハロー!プロジェクトの内と外では目に見えて遊離してきてしまっていたのである。
当時のハロー!プロジェクトには、直球のアイドルというスタイルを敢えて回避する傾向が見受けられる部分があった。コミカルさを前面に出すギャグ要素を盛り込むことでひと味違うアイドル像を演出してみたり、かわいいやかっこいいを真剣に狙ったアイドルらしいアイドルのスタイルに浸りきらずに意図的にちょいダサな要素を盛り込むことでチラッと戯けてみせたりと、00年代前半のモー娘。全盛期からの伝統となっていた多彩な変化球を、あらゆる球種やコースを駆使して投げ込んでいた印象がある。おそらくは、ハロー!プロジェクト全体としてもあれこれと手探りしつつ、ハロー!プロジェクトらしい新しいアイドルのスタイルというものを試し模索している時期であったのだろう。
しかし、あれこれと試行錯誤する変化球の探究も一周以上してしまうと、模索の方向性はあらぬ方向へと向かい始める。そんな意表をついた大きな変化を求める動きの中で、80年代のオールドスクールなアイドル像に回帰して、極めてアイドルらしいアイドルの正統派清純路線で登場することになったのが、ハロプロエッグ出身の真野恵里菜であったのである。様々な変化球を投げ過ぎて、その反動で直球のど真ん中となる、ハロプロ流の伝統を打ち破る最も伝統的なアイドルのスタイルで勝負することになったのが、アイドル真野恵里菜であったのだ。
真野恵里菜は、アイドル活動を通じてキャラクターを表現する意識を高め、アイドル活動と並行して行ってきた女優活動を通じてキャラクターを演じ表現する意識をより高めていった。そして、その意識が高まってゆくにつれて、同じことの繰り返しとなる与えられたキャラクターを表現するアイドル真野恵里菜よりは、新しいフィールドで新しいことにチャレンジしてゆくことにひとりの表現者として刺激と魅力を感じるようになっていったとしても決しておかしくはない。おそらく、真野恵里菜の心中は相当に揺れたであろう。だが、決断の時は、そう遠からずに訪れた。真野恵里菜は、22歳の誕生日を迎える前にハロー!プロジェクトから卒業し、ハロプロ・アイドルの真野恵里菜からも卒業してしまった。
みんなアイドル
13年5月25日、朝日新聞夕刊に掲載された「登校拒否もヤンキーもみんなアイドル」と題された、昨今の多種多様化するアイドル事情を紹介する記事の中で、アイドル・シンガー・ソングライターの大森靖子が、こんな発言をしている。「(自作曲で歌われているリストカットや売春、いじめなどに関するハードな内容の歌詞を)私の歌詞を全部事実と取られても困るけど、確実に私の「一部」ではある。それって実はアイドルと同じ。自分のある部分を誇張してエンターテインメントにすることだから」と。
アイドル真野恵里菜の楽曲の歌詞は、主に専属作詞家の三浦徳子によって書かれたものであり、それは実際の真野恵里菜の全てがそのまま反映されたものではない。だが、三浦徳子は、プロの作詞家の仕事として、楽曲の歌詞を真野恵里菜によって表現されるアイドル真野恵里菜というものを可能な限り念頭に置いて書き下ろしているのである。それは三浦徳子のペンによるフィクションでありながら、どこか実際の真野恵里菜の姿とリンクし交錯するような言葉でも綴られている。まさに、それは、大森靖子のいう通りに、確実に真野恵里菜の「一部」でもあったのである。アイドル真野恵里菜は、専属作詞家の三浦徳子による歌詞の世界に飛び込み、そこにある実際の真野恵里菜と接触しリンクする部分を誇張してエンターテインメントとしていたともいえるであろうか。
しかし、数分という短い一曲の中で、どんなに歌詞の世界とリンクする自分の中にある「一部」を誇張して表現したとしても、本当に一部だけや自分の中のほんの一面だけしか表現しきれないということもあるだろう。特に、ライヴのステージにおいては、全てが一発勝負である。うまくゆくこともあれば、全くうまくゆかないこともある。それを、いかに実際の自分自身に引き寄せて表現しエンターテインメントにしたとしても、それを本当に自分自身の「一部」として一曲の歌の中だけで深く表現することに対しては、困難さを感じることも多々あったはずだ。
真野恵里菜は、アイドル歌手として歌うだけでなく、女優としての活動を通じて得た演技をする経験を積み重ねることによって、自分を表現すること/自分なりの表現を行うことの、その広大さ/深遠さ/間口の広さ/奥行きの幅というものを、次第に確かな手応えをもって感じ取れるようになっていったのであろう。歌うことも、演じることも、どちらも難しいことに変わりはない。そして、特にライヴのステージにおいては、どちらも常に一回限りの一発勝負だ。しかし、とても難しいことだからこそ、とても楽しいと感じられる部分もあるのである。そこで、もっともっと上手くなりたいという欲が出てくるのも、表現者であれば当然のことであろう。
歌での表現の場合は、一曲ごとの時間は基本的に短く、ほんの数分間の間に全てを出し切り勝負しなくてはならない。そして、アイドル歌手の場合には、そこで歌われる歌は(ほぼ)歌詞もメロディも自分で一から作り出したものではない。誰かが作り出した表現を、自分というフィルターを通じて自分自身の「一部」にリンクさせ、自らの表現力をもってそれを誰かに伝える。そうした作業が、そのエンターテインメントの基本にはある。ただし、演じることも、これと基本的には同じである。誰かが作り出した表現を、「自分のある部分を誇張してエンターテインメントにする」ものなのだ。だが、演じるものには、ほんの数分で一曲を歌うよりも、より多く自分の表現を試みることを許される時間と空間がある。しかし、演技は、歌うこと以上に、より大きな視点で考えて、もっと地道にこつこつと稽古して、常に最上のものを出してゆかなくてはならない面ももつ。歌は、たとえそれが生半可なものであったとしても、それなりに歌らしくなり、ほんの数分の間に聴き取られたり聴き流されるということもあるだろう。だが、演技の場合には、そうはいかない。生半可なものでは、どんなに誇張したとしてもエンターテインメントとしては成り立たないのである。それは、とても難しいものである。また、演ずることに対しての正しい解答は簡単には見つからないものでもある。だからこそ楽しくもあるのではなかろうか。
歌による表現やエンターテインメントでの場合は、限りなく完璧に近い形にまで到達して満足感を得ることは真野恵里菜にとっても可能であったかも知れない、しかし、そのレヴェルにまで演技において到達するのは、もしかすると一生無理かも知れない。そして、そうした表現者にとっての刺激となる部分にこそ、アイドル真野恵里菜の限界点のようなものも見えてきてしまったのではなかろうか。つまりは、アイドル真野恵里菜のその先に、女優真野恵里菜として、やりたいことややるべきことの広大な地平がむくむくと出現してきたということなのであろう。
アイドル真野恵里菜とは、先天的に真野恵里菜がもっているオールドスクールな表現者の資質的な部分を考えると、今どきのアイドルになることは最初から不可能であったのかも知れない。それならば、真野恵里菜がアイドル活動を通じて見出した、演じること、演技をすること、そして女優の道に、活路を見出してゆくようになったとしても、それはある意味で当然のことであったのかも知れない。アイドル真野恵里菜を一から作り上げてきた周囲の大人たちも、このままいつまでも真野恵里菜を籠の中の鳥のままにしてはいけないと思い至ったのであろう。真野恵里菜の中でアイドル真野恵里菜のその先にあるものがハッキリと見えているのならば、そこに向かう道へと真野恵里菜の背中を押して送り出してやるのも周囲の大人たちの役目であるのだろう。真野恵里菜が大空を自由に飛び回るときが近づいていることを誰もが薄々感じ取ってはいた。二十歳の誕生日を迎えた真野恵里菜は、やはり10代の頃の真野恵里菜とは、どこか異なっている部分があった。それは、アイドル真野恵里菜の成長であり、真野恵里菜その人の人間的な成長によるものでもあった。そして、2011年という大きな変化のあった激動の年を経て、そこに真野恵里菜のハロプロ・アイドルからの卒業の時が、明確な形をもって浮かび上がってくることになったのである。
13年4月7日より放送されているNHKの連続テレビ小説「あまちゃん」は、24年ぶりに東京から故郷の岩手県北三陸市に戻った母親の天野春子に連れられて田舎町に転校してきた高校生の娘、天野アキを主人公とする物語である。そして、その物語は、かつて80年代前半にアイドル志望であった母の春子と、海女のアキちゃんとしてネットで話題を集め地域振興のためのローカル・アイドルとしても活動することになる娘のアキを中心に、ふたつの時代のアイドルを巡る状況をパラレルに展開させつつ、普通の女子高生がアイドルとなってゆく過程をひとつの核となるプロットとして描き出してゆく。そこでは母が辿った道と娘が辿る道が、絶妙にリンクしてゆくことにもなる。時空を大きく越えて、80年代のアイドルと00年代のローカル・アイドルの姿が、重ね合わせて描写されてゆくのである。
アイドル黄金時代であった80年代のアイドルらしいアイドルと、古くからのアイドルの様式を思い思いにディフォルメし地方色豊かなな特色を盛り込みつつそれを再構築させている00年代のローカル・アイドル。どちらも、ベタに/メタにアイドルらしいアイドルへとストレートに向かっているという点では、既成のアイドルの枠をぶち破ろうとするところからスタートしている、今どきのアイドル像の主流/中心からは、かなり外れているといえるのかも知れない。この「あまちゃん」におけるアイドルの捉え方/描き方には、真野恵里菜がアイドル真野恵里菜として表現してきたアイドル像と非常に近いものがあるようにも思われる。真野恵里菜には、どこか普通の素朴な女子高生からアイドルへと転身してゆこうとした/転身していった天野春子や天野アキと重なる部分がある。
古き良き時代の正統なアイドルらしいアイドルのコンテンツとは、天野春子のようなアイドル黄金時代のアイドル像を知る、主としてアイドル好きのおじさんたちだけが喜ぶ世界に、今や本格的になりつつある。現状では、NHKの連続テレビ小説を主体的に見ようとする層の最も若い世代が、それにあたるようだ。もしくは、古臭くどこか懐かしさや郷愁をも誘うアイドルらしいアイドルのコンテンツは、ローカルな局所的なエンターテインメントの動きとして楽しまれるものとなっているともいえるのかも知れない。現実の若年層は、「あまちゃん」で描かれているアイドル像は、ベタなネタとして楽しむものとして提供されているのだと思っているはずである。それは、実際に目の前にある今どきのアイドル像とは、かなり大きくかけ離れた、古臭くて/地方色の強い懐かしくもどこか新しいアイドルの形なのであろう。
現実の世界には、極めて正統なアイドル像を体現する「あまちゃん」やアイドル真野恵里菜にはあまり備わっていない、現代的/同時代的な刺激を与えてくれる/供給してくれるアイドルたちがひしめき合うように存在している。さらにいえば、今やアイドルらしいアイドルのコンテンツのリクリエイトを狙ったメタ性をネタにするぐらいの捻りがなくては、今どきのアイドル・ファンの心理を刺激することはできなくなってきてもいるのである。そのような意味では、真野恵里菜は、伝統的な正統派のアイドルのスタイルを、あまりにも真正直な直球で投げ込み過ぎていたのかも知れない。それは、今のアイドル・ファンたちが、ネタとして受け止めるにしては、どこまでも大真面目過ぎていたし、新しい刺激的なスタイルが高速で追い求められているアイドル戦国時代という現在の時代状況の中では、どこか戦略的なネタっぽさを完全に拭いきれずにいたことも確かなのである。
アイドルの世界と真野恵里菜
ここ数年の間、アイドルを取り巻く状況は、アイドル戦国時代などといわれて大きな注目を集めるようになってきている。00年代後半以降、多くのアイドル・グループが誕生し、それぞれがそれぞれに入り乱れてアイドル・シーンを熱く盛り上げている。だが、実際には、それらのアイドル・グループが、それぞれ一国の大名や戦国武将となって戦っているわけでは決してない。現実には、戦国武将に扮したようなエンターテインメント業界の経営者が、様々な戦術を駆使して切れ者の営利集団(マス・メディアや大企業)を率いて戦っている、という様相に近いものがある。実際のアイドル・グループは、その実戦/実働部隊の最前線に配属されている一部隊にすぎない。それは、最も過酷で最も犠牲者を出しやすい持ち場でもある。そこでは、大小様々な集団が入れ乱れ、しのぎを削り合い、まさに戦国時代的な状況を作り出している。最初はまばらな観客の前でひっそりと奮闘していた弱小集団が、いつしか日本を代表する巨大カンパニー(軍団)のひとつへと成長してゆく。まるで戦国時代の国取りや天下統一の物語に準えられるような、成功の栄光に包まれた経営・運営の夢物語がそこにはある。
そんな時代の動きの主流の頂点には、まるで財閥のように縦に横に広く派閥を形成する、とても強力な力をもって大きく動くことが可能なアイドル集団が君臨することになる。また、現代の経済の世界の動きとしても、明確に利益を生み出し大きく動ける優良経営の集団を積極的に後押ししようとする傾向がある。大きな仕事から小さな仕事までを独占する営利集団が、多角的/クロスメディア的な見映えもよく派手にプロモーションが展開される大規模な営業活動に優先的にありつくことができる。そして、そこからこぼれ落ちた小規模な経済的営業活動には、中小の集団が我先にと食らいつく。そこからも溢れた弱小の集団は、地道に地下での活動を続けながら、大きいものたちが躓き倒れる隙を虎視眈々と狙っている。アイドル戦国時代と呼ばれるシーンの華やかさも、そのヴェールを一皮剥けば、弱肉強食の自由主義的経済活動がグロテスクに繰り広げられるフィールドそのものなのである。
日本を応援することや日本を元気にすることを目的とした様々なプロジェクトに、元気を与える応援団としてアイドル・グループのAKB48やももいろクローバーZが起用されている場面をよく見かける。表向きに大きくそうした目的を打ち出しているプロジェクトもあれば、隠されたコンセプトとしてそうした意向が組み込まれている場合もある。これらのアイドル・グループは、様々なプロジェクトを企画し実行するクライアント側の戦略を全うする際に、元気やエールや絆のイメージを打ち出すための便利な記号やアイコンとして、非常にわかりやすく起用されている。そうした起用が可能になるほどに、彼らは多くのグループが入り乱れる戦国の乱世をいち早く抜け出し、一般層にまでいたる飛び抜けた人気を獲得しているのである。これだけの長い期間に渡って、アイドルを取り巻くが状況が熱い盛り上がりを見せ続けているのだから、そうしたグループが登場してきたとしてもおかしくはない。そして、そこを抜け出したグループが、戦国時代という状況に中でごちゃごちゃしていた次元を完全に後にして、全く異なるレヴェルで商品価値を見出され消費されてゆくことも当然のことなのである。
東日本大震災の甚大なる被害からの復興の支援やデフレ脱却を謳った低迷する日本経済の立て直しに、異様なまでの盛り上がりをみせ、活気と勢いのあるアイドル業界の動きが、そこに一枚噛んだとしても決しておかしくはない。逆に、それはマクロな政治や経済、社会の動きから無言の要請をされているようなものでもあるのだろう。アイドル・グループとしてもひとつの営利集団として、実際の社会の動きと流れに同調して、目に見える形で渦を作り出し、さらに勢力を拡大させ上昇してゆくことを希望するものでもあるだから、両者の利害はぼんやりと多岐/多層/広範囲に渡っていながらも概ね一致しているといえる。そして、その前面に実戦/実働部隊として押し出されたアイドル・グループを先頭に、元気のない弱った日本を応援するという形で展開されるプロジェクトが、これからの社会そのものの筋道を作り出すかのように雪だるま式に大きく膨れ上がりながら動き出してゆくのである。
そうした社会や経済の波と同調した動きとは、また別のところに位置し、全く違った地平を見据えているようにも見えるのが、ここ最近のハロー!プロジェクトである。00年代後半、アイドル戦国時代的状況が形成されていった時期に、かなりハロー!プロジェクトは確固たる方向性を見失いやや迷走をしていた。絶えず変化する時代の動きとなかなか歩調を合わすことができずにいたがために、少しばかり戦国の乱世の動きとは距離を置きつつ、どちらかというと付かず離れずというスタンスを保って、ある種の独自路線を歩んできたという経緯がある。逆に言えば、00年代前半に一世を風靡したモーニング娘。を中心として構成されるハロー!プロジェクトが、次第に迷走し下り坂を滑り降りてゆく時期を迎えたことによって、新勢力が次々と登場してくる素地が生み出され、戦国時代的状況が形成されてきたという側面もあるのだろう。現時点では、モーニング娘。など主力のグループを中心にハロー!プロジェクトは怒濤の巻き返しを図り、戦国の乱世における最左翼勢力として、その伝統的なエンターテインメント性やパフォーマンス力の高さが再評価されつつある段階にあるといえる。
一糸乱れぬハイ・レヴェルな同期した動きをみせるキレのあるダンス・パフォーマンス、徹底してリズムやテンポのノリの感覚を研ぎすませた音楽の一部としても十分に機能するヴォーカル・パフォーマンスなど、このところのハロー!プロジェクトが、本格派の魅せて聴かせることのできるアイドル・グループの創出を目標に据えて日々の研鑽を重ねていることは明らかである。そこで仮想のライヴァルとして設定されているのは、どうも現在の戦国の乱世を戦っているアイドル・グループたちというよりは、より熾烈な競争が繰り広げられている韓国のアイドル・シーンで活躍するKポップ・アイドルであるようにも思われる。
国内のみならず、海外でも高い評価を受けている、Kポップ勢は、すでに日本をはじめ、中国、台湾など、アジア各国へと進出し着々とその勢力を拡大させ、その人気を言葉の壁を越えて浸透させることに成功している。このKポップ勢に牽引され歌もダンスもルックスも非常に高いレヴェルへと引き上げられたアジアのアイドル・ポップスの動きの中で、飽くなきエンターテインメント性の向上に努め、その実力に磨きをかけ続けているのが、ハロー!プロジェクトなのである。もはや、日本国内でのちっぽけなパイの争奪戦に明け暮れている場合ではなく、アジア地域全体のアイドル戦国時代に目を向けてゆかなくてはならない時が訪れつつあるといっても過言ではないのだろう。
アジア各国で高い人気を誇り多くの若者たちから支持されているポップ音楽のスタイルであるKポップ的なものを視野に入れ、その勢力と対等に張り合えるだけの日本産のアイドル・ポップスを作り出してゆこうという方向性が、このところのハロー!プロジェクト/モーニング娘。の作品からは強く感じ取れる。特にダンス・パフォーマンスの面では、これまでにKポップのアーティストによって提示された全体のフォーメーションや身振り手振りの見え方を重視する形を踏襲しつつ、それをさらにハロー!プロジェクト的な少女のがむしゃらさやひたむきさを感じさせるスタイルで押し進めた独自の路線が徐々に完成されつつあるるようにも思える。
目まぐるしく変動する時代の動きや社会の動きに触発/誘導されて、またそれと迎合しながら、そこにある大きな経済活動の一部へと組み込まれ/その一部として集団的に拡大再生産してゆく道筋が、ほぼ完成されつつある国内のアイドル戦国時代的な状況。そうした時代とともに更新されてゆく、新世紀の戦略的アイドルの在り方の狭間や周縁で、ハロー!プロジェクトは、初期モーニング娘。以来の伝統的なスタイルを堅持しながら、戦国時代のその先にあるべきアイドルの在り方というものを模索しているのではなかろうか。
日本を内側から元気にしようとするプロジェクトが、ここ数年の間に幾つも幾つも繰り返し企画され実行されている。だが、そうした動きの彼岸では、日本の独特のアイドル文化が外へ向かってゆくことで日本をまた違った側面から勇気づけるという現象も起きつつある。Perfume、きゃりーぱみゅぱみゅ、ハロー!プロジェクトのモーニング娘。、Berryz工房、Buono!などが、すでにアジア、欧米において独自の活動を展開させていることは、出口の見えない戦国の乱世とは違うレヴェルでのジャパニーズ・アイドルのこれからを予告するような動きであるようにも思えるのである。
思いきり感情的に訴えて盛り上げて鞭打ってでも立ち上がらせようとすることが、ほんの一瞬の享楽をともなう打ち上げ花火のように後には何も跡形もなく残さないということがある。強迫観念に取り憑かれたように、頑張ろう/絆/仲間といったフレーズを繰り返し念仏のように唱えて、無理矢理に沈みこんでいるものを掬いあげて、全てをひとつにまとめて極めて合理的にさっくりと処理しようとしてしまう。そして、こうした行動や実践は、何となく緩く繋がる日本的な結びつきの意識を形式的/儀式的に高めるものとして、あたかも最上の善行のように励行されてしまったりもする。
旧来の感覚や様式や形式は、根強く何度も持ち出されてきて、花火のように繰り返し打ち上げられるだろう。だが、それを意識的に/無意識的に越えようとする動きや現象を通じて、少しずつ見渡せる景色は移り変わってゆくはずである。積極的にアジアを取り込み/アジアに飛び込んでゆくことは、きっと必ずや新しい時代の感覚や様式や形式を生み出してゆくに違いない。アジアとの忙しなく暑苦しいくらいの交流から、今世紀後半から来世紀にかけて花開いてゆくものも生み出され、そこで種が蒔かれる。前世紀の終わりから長い時間をかけて熟成されてきた伝統的なアイドル文化は、日本的な独自性をもつものから、今まさにアジア的なアイドル・カルチャーへと拡大し、じわりじわりと内外に浸透してゆこうとしている。
そんな内だ外だと風雲急を告げる動きをみせているアイドルを巡る状況の中において、しっかりと綿密に一から作り込まれた正統派で清純派で王道な非常にアイドルらしいキャラクターを明確に前面に押し出してきた真野恵里菜は、周囲と完全にズレきっているために大きな流れの中には受け入れられ難い部分を多々もっていたともいえよう。今、盛り上がりをみせ話題となっている旬なアイドルを使って一仕事しようとしている側としては、あまりにも旧来のアイドル像の枠の中におさまり過ぎているアイドルらしいアイドル歌手は、何かと使い勝手が悪かったりもするのかも知れない。
そこでは、多くの場合において、アイドルらしいアイドル歌手よりも、一応アイドルとしても活動しているヴァラエティ・タレントのような存在が求められているのである。何でもそつなくこなせて、どのような状況における要求にも臨機応変に対応できる、プロ意識の高い何でも屋が、それである。ウケのよさやおもしろさを大前提としている企画において、そうしたポジションで有効にパーツとして機能することが、現在のアイドル/タレントには自然に求められている。
歴史上まれに見る大所帯グループであるAKB48は、何か特別な催しでもない限り全てのメンバーが揃って歌うことはまずない。TV番組などで歌うことのできる選抜メンバーは、ファンが見たいと思う人気のあるメンバーのみに限られている。だが、そうした徹底的に消費者の快楽や欲望におもねる制度こそが、TVや劇場での歌う活動にはあまり拘束されることのない、それ以外の活動に積極的に携わることのできるメンバーを生み出しているともいえる。その活躍の場が、旧来のアイドルらしさから離れれば離れるほどにAKB48のメンバーはAKB48らしさを光らせてもゆくのである。歌っていないときのAKB48のほうが、ヒット曲を歌っているときのAKB48よりも、よっぽどAKB48らしく見えたりもするのである。
真野恵里菜は、やはりあまりにも真っ当なアイドル歌手であり過ぎたのだろう。この強くアイドルという存在を求めていながらもアイドルらしいアイドルを必要とはしていない時代にあっては、本当に珍しいほどに。いや、そもそもハロー!プロジェクトは、全体的に低迷し迷走していた時期を通じて、この時代が求めているアイドル像とは、これまでのものとは全く違ったものとなっていることは十分に承知していたはずなのだ。しかしながら、そんな古式ゆかしい正統派アイドル路線を、勇猛果敢にもはや道なき道であるにも拘わらず反時代的に突き進んできたのが、真野恵里菜であった。裏の裏を狙ったのか、もしくは裏の裏のそのまた裏を狙ったのだろうか。それとも、いろいろひっくり返し過ぎて、目まぐるしく変化し続ける今どきのアイドル像からは、劇的なまでに遠離ってしまったということなのか。そして、それは、あまりにも真っ直ぐな正統派であったがために、途中で方向修正して折り曲げることもままならなかったのであろう。結局は、そこで到達できた場所こそが正統派の限界でもあり、アイドル真野恵里菜のエクストリーム性の極北でもあったのである。
ラッキーオーラ
三浦徳子がアイドル真野恵里菜のために一番最初に歌詞を書き下ろした楽曲が、08年10月4日に発表されたインディーズでの二作目のシングルとなる“ラッキーオーラ”であった。この実に瑞々しいポップなアイドル曲が、このふたりの出会いの一曲となった。そして、どこまでも瑞々しく弾けるポップな言葉だけで、私とあなたの間に感じられるラッキーオーラにまつわる些細な事柄が繰り返し歌われ、それ以外のことに関しては全くもって空疎でどうにも内容に乏しいものとなっている点が、この楽曲を実に往年のアイドル・ポップスらしい一曲にしている。“ラッキーオーラ”は、完全に日常の平凡な生活のレヴェルを超越して、私とあなたの間に交わされるオーラのさざ波にすっぽりと包み込まれている状態であることを明示することによって、アイドル真野恵里菜のどこか浮世離れした無色透明さを強く印象づける楽曲にもなっているのである。
この楽曲が制作されていた時点で、作詞家の三浦徳子はそれまでハロプロエッグの一員として活動していた当時17歳の真野恵里菜のことをどれくらい知っていたのであろうか。70年代~80年代から多くのアイドルの楽曲の作詞を手がけてきたものだからこそもち得た直感なのか、きっちりと情報と資料を集めて丁寧な仕事をするものだからこその長年に渡って築き上げられてきた職人技であるのか、この“ラッキーオーラ”という楽曲は、真野恵里菜というふんわりとした透明感のある少女にこそ歌われるべき、まさにイメージ通りの表現がばっちりとはまった仕上がりとなっているのである。そして、アイドル歌謡/アイドル・ポップスの大家である三浦徳子は、まだまっさらなままの真野恵里菜というひとりの少女にアイドル真野恵里菜のイメージをまとわせることに、この最初の一曲目から完璧に成功しているのである。
“ラッキーオーラ”は、「あなたのオーラ/私は受ける/きらめくオーラ/カラダに受ける」という朗々とした真っ直ぐな歌い出しを受けて一気に勢いをつけて滑り出してゆく。ただ、この冒頭部分の真野恵里菜の歌声は、オーラの受け止め方が分からないのか、それを上手に受け止められていないと感じているのか、そもそも受け止める自信が全くないのか、何ともいえない心中の戸惑いを露呈させたような歌唱となってしまっている。そこには、まだデビューして間もない真野恵里菜の緊張感や初々しさが克明に刻み込まれてもいるのだ。
この歌い出しでの真野恵里菜は、まだアイドル真野恵里菜に完全にはなりきれていない。だがしかし、朗らかでポップな楽曲が進むにつれて、真野恵里菜の歌唱そのものやその周囲にあたたかな光のようなアイドルのオーラが、ゆっくりと満ち満ちてゆくのがはっきりと分かる。この“ラッキーオーラ”では、あなたの“ラッキーオーラ”を受けるのは私だと歌われているが、実際には“ラッキーオーラ”を放つのは真野恵里菜~アイドル真野恵里菜であり、それを受けるのはこの楽曲を聴いているもの(FRIENDS/あなた)の方であったのである。
この楽曲の締めの歌詞に三浦徳子が生まれたてのアイドル真野恵里菜のために用意したフレーズは、「すべてはここから/はじまりそう!」であった。まさに、その締めくくりの歌詞に歌われている通り、ここ(この一曲)から全ての物語は始まったのである。アイドル真野恵里菜にとって、デビュー間もない時点で多くの経験と匠の技をもつ三浦徳子を専属作詞家として得たことは、とてもとても幸運な出会いであったといえるであろう。
真野恵里菜/アイドル真野恵里菜にとってハロー!プロジェクト所属のアイドル歌手として活動した約四年間は、泣き虫な10代の少女であった真野恵里菜が大きく成長し、アイドル真野恵里菜の壮大なる成功と失敗の物語が綴られていった、とても濃密な時間であった。どんなに偉大なアイドル歌手にも初々しいデビュー曲と華やかな頂点とアイドル時代の終わりがある。その全てを極めて短い期間に凝縮させたのが、真野恵里菜/アイドル真野恵里菜にとってのこの約四年間であった。そして、この時代に大きく激しい流れとなっていた主流の動きに決して頭から飛び込まず、常に思いきり伝統的な正統派であるがゆえに反時代的でオルタナティヴな存在となってしまうことを決して曲げることなく最初から最後まで貫き通したところにアイドル真野恵里菜が活動した約四年間の意義がある。さらに、そのエクストリームなオルタナティヴ性を後の世代の21世紀のアイドルが受け継いでゆくことで、アイドル真野恵里菜の存在意義はますます大きくなってゆくことであろう。非主流のアイドル像を継承してゆくものたちは、今後さらに必要とされるようになってゆくはずである。レコード大賞を受賞したり紅白歌合戦に出場したりするアイドルとはまた違った次元で時代のアイコンとなるグローバル/ローカルな新しいアイドル像が模索されてゆくべきである。そこでは、きっとこの08年6月29日から13年2月23日までのアイドル真野恵里菜の成功と失敗の軌跡は、大いに参考するに値するひとつの指針となるであろう。(13年)(15年改)
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