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不安ビエント

Brian Eno’s Music for Anxious Times

コヴィッド19こと新型コロナウィルスに感染した人は、わかっている範囲だけでも現時点で地球上で五千万人にも及ぶ。一方、アメリカの大統領選挙では、ふたりの候補者がともに七千万以上の投票を獲得している。ということは、あの見るからにありえないドナルド・トランプの支持者やトランプに実際に投票した人よりも全世界の新型コロナウィルス感染症の陽性者の方がまだまだ少ないということであり、なんだかそれほど大したことではないのではないかとついつい思ってしまいそうになったりする。いんちきヤングマンぶりが鼻につくトランプ候補に投票しても別に死ぬわけではないので、一概には比較することはできないのだけれど。(大統領選の投開票から一ヶ月以上が経過した現在(20年12月上旬)もまだ世界の感染者数は七千万人に到達していない。12月17日にようやく総感染者数がトランプの獲得票数である7422万をとらえた。今のところパンデミック収束の気配はまったく見られない。)
死に至る可能性のある感染症のパンデミック。これは基本的にほとんどの人々が経験したことのない事態であった。新型のウィルスの正体もなかなかつかめない。世界中にえもいわれぬ不安が満ちている。目に見えないウィルスの存在に怯える。誰がどこで感染しているのかが掴めない。いつどこで自分が感染するのかもわからない。誰にでも感染の危険はある。だから、パンデミックなのだ。自分だけは絶対に大丈夫だとは、誰にも言えない。そんなウィルスの影に怯える日々が、もう半年以上もずっと続いている。不安だけが積み重なり大きく重くのしかかってくる。マスクをする。よく手洗いをする。誰とも会わなくなる(これはまあパンデミック以前からそういう傾向にはあったかもしれないですけど、個人的には。実際のところは、コロナを理由に誰からも相手にされなくなる、であろうか)。
近ごろ、最新の流行というものに、どんどんと疎くなってきている。あれほど生活になくてはならぬものと思っていた音楽も、今ではどんなものが流行しているのか、ちっともしらない。人類のタコ壷化が進み、大きな流行というものが発生しにくくなっている状況もあるのだろうけれど。だがしかし、大抵の場合、なにを聴いても、ふむふむこれはあれみたいだなと思ってしまって、それならばあれを聴いていればいいか、これはあれがなければたぶん存在しなかっただろうから、となってしまうのがオチだ。それゆえに、必死に流行を追いかけるようなこともまったくなくなってきてしまった。かつてのように猛烈に聴き漁るようなこともない。掘れば掘るほど宝が見つかるような時代でももうないのだろう。そして、やはり何もかもがかなり表層的すぎる。そうした現状を反映しているのかいないのか、音楽そのものを聴く時間も減ってきているように感じる。いや、音楽はもはや聴くものではなくなってしまったといったほうがよいだろうか。それとも、音楽ではないものを聴くようになったといったほうがいいのか。
最近は、基本的にもうほっとけばアンビエントばかりなのである。アンビエント音楽という呼称を使えば、それは音楽として聴くものであるのかもしれないが、実際にはアンビエントというのはあまり音楽として聴くようにできているわけではない。アンビエントのことを環境音楽と翻訳するならわしも、かつてはかなり一般的なものであった。そういう意味では、やはり環境音楽というのは、文字通りに音楽と称されている以上は音楽なのであろう。これはつまりアンビエント・ミュージックという名称を翻訳したものなのである。だから、本来はアンビエントという一語のみの場合には文字通りにアンビエント(周囲を取り巻く環境)のことを指すはずなのだ。よって、それはほとんど音楽を聴いているような感覚にはならないものなのである。音楽のように聴かれるアンビエント音楽は、おそらく厳密にはアンビエントと称せるものではない(実際には、アンビエントとアンビエント音楽はアンビエントという範疇の中にかなり雑多に入り混じっているのだが)。なので、アンビエントを聴くことはもう、音楽ではないものを聴いているということになるのではなかろうか。それとも、自分の中で音楽はもはや聴くものではなくなってきているということなのか。
無駄に年齢を重ねてしまったせいで感性や感覚が疲弊してきてしまっているのか、四六時中ずっと音楽を聴いていることに精神や肉体が耐えられなくなってきたということなのだろうか。もう若くはないからアンビエントなのか。冷静になって考えてみると、もしかしたら、そういう年齢的な部分もあるのかもしれない。わからないでもない話である。派手さのあるメロディや起伏や緩急のあるサウンドにあまり居心地の良さを感じなくなってきたら、それは高齢者の仲間入りを果たした印でもあるのだろう。アンビエントを好むのは、盆栽や枯山水などの日本庭園を愛でる、枯れた老人ならではの趣味といえなくもないのではないか。若いころは、やはりまあアンビエントをずっとじっと聴いているなんてことはとてもとても耐えがたいことであった。あの当時の流行の最先端であったThe KLFの「チル・アウト」でさえ通して聴くことは稀であった(西新宿のヴィニールで購入した当初は、常に最初から最後まで通してじっくり聴いていた。あの頃まだアルバム(LP)は襟を正して心して聴くものであったから。大抵は、カセット・テープにダビングしながら。「チル・アウト」は何度聴いてもナンダコレハという印象で、それがなんであるのかをじっくりと探求するために繰り返し通しで聴いていたようなところがある)。ほとんどの場合は途中でビートのあるトラックをロング・ミックスしていって、徐々にフェーダーが閉じられて終了となる。冗長な感じのするアンビエントよりも、もっともっといっぱいハウスのレコードをターンテーブルにのせて浴びるように聴きたかったのだ。
しかし、そんな時代から三十年もの月日が流れると、忙しない曲を忙しなく聴くよりも、とりあえずアンビエントで可能な限り心の穏やかさを保っていたい気分のほうがだんだんとまさってくる。音楽を聴きたいと思うよりは、聴いていて耳が疲れないものを聴きたいと思うようになるということだろうか。ただでさえ中高年になり全般的に疲れやすくなってきているのだから、せめて耳ぐらいはできるだけ疲れとは無縁のままでいたい。ゆっくりと陽が傾き、あたりが夕闇に包まれ始める。人生の晩節を迎えつつある毎日に、そっと耳に打ち寄せてくるようなアンビエントの音響が、とてもよくマッチする。
社会の少子高齢化は、ものすごい勢いで進み、なかなか歯止めがかからない。社会の構造そのものが、それに歯止めをかけることについて決してよしとはしていないのだから、社会の少子高齢化の傾向が維持され続けるのも無理はない話なのだ。ますます、この地球上は老人たちだらけになる。老いさらばえた惑星に、もはや耳が疲れるような音楽は高らかに鳴り響くことはないだろう。今後、ますますアンビエント需要が高まってゆくであろうことが予想される。つまり、基本はアンビエントで、その合間の気分転換に音楽を聴くというような形になってゆくのではなかろうか。いつしか地球の高齢者たちは、まるで呼吸をするようにアンビエントを耳にするようになる。
長い地球の歴史においても史上初となるアンビエント老人の第一世代がもうすでに続々と誕生している。ブライアン・イーノは、現在七十二歳である。あのころアンビエント・ハウスなどを聴いていた世代は、もっと下の第五世代ぐらいで、静かにじわりじわりとアンビエント老人の境地に近づいている最中にあるといったところだ。あと数年もすれば、この地球上は完全にアンビエント老人の天下である。どこもかしこもアンビエント老人だらけになる。おそらくZ世代あたりはとても早熟で、アンビエント老人化もまた相当に早いことが予想される。アンビエントにあらずば老人にあらず。ひとり黙ってアンビエントを嗜むぐらいのことができなくては、もはや一人前の老人とはみなされないだろう。なので、今のうちからちょっとしたアンビエントの良し悪しぐらいは聴き分けられる耳をもてるようになっていたいものである。
19年の終わりぐらいに、その年に最もよく聴いた音楽はなんだったかを少し考えてみたのだが、何もめぼしいものが思い浮かんでこなかった。それぐらいに音楽の聴き方そのものが大きく変わってきていて、ことさらに今現在の音楽を必死に追い続けていなくても全然平気になってしまっているし、より気の向くままに古今東西のものに耳を傾ける形になってきている。あまり何かを特段に意識して聴くことも稀になっているせいか、そのときに何を聴いていたのかの記憶そのものが実に希薄なのである。それで、何を一番よく聴いていたのかということが、まったくなんらかのイメージをともなって頭の中に浮かんでこなかったのである。だが、そういう時は大抵の場合かなり後になってから、ふとした拍子にぱっと頭の中に適当なものが思い浮かんだりすることがよくあるものなのである。あ、そういえばあれ、結構よく聴いたような気がするな、なんていう風に。
ヒルドゥール・グドナドッティルによる「チェルノブイリ」のサウンドトラック。そういえば、おそらくこれを一番よく聴いていたのである。そのことに、後になって思い当たった。ただ、なんとなく流していただけだったので、あまり積極的に聴いているという感じでは決してなかったし、よく聴く作品として記憶されることもなかったのである。とりあえず流しておくものとして、このサントラをよく利用していただけであった。ヒルドゥール・グドナドッティルは、アイスランドのアーティストであり、ソロのチェロ奏者としてはジョン・ウォーゼンクロフトのタッチなどからミニマリスティックでモダン・クラシカル的なタッチのアンビエント調のアルバムをいくつかリリースしており、一般的にはヨハン・ヨハンソンのコラボレート・パートナーとして多くの映画やテレビ・ドラマのフィルム・スコアやサウンドトラックの制作に携わっていることでよく知られている。18年に不幸にもヨハンソンが急逝してしまったため、その後はその遺志を継ぐようにソロで優れた音楽を数々の映像作品に提供している。アメリカのケーブルテレビ局、HBOによって制作されたドラマ「チェルノブイリ」(19年)のサントラもそのうちのひとつである。ちなみに、このドラマの少し後に公開された映画「ジョーカー」(19年)のサントラもヒルドゥール・グドナドッティルが手がけたものであったが、こちらの映画の仕事の方がアカデミー賞を受賞するなど非常に高い評価を得たこともあって、ちょっと「チェルノブイリ」の影が薄くなってしまったようなところはある。ただし、個人的にはやはり「ジョーカー」よりも「チェルノブイリ」なのである。どうしても「ジョーカー」はフィルム・スコア的な側面が強くなっていて、映画のシーンに合わせてそれぞれのサウンドのモティーフを当てはめていっているサントラらしいサントラの作りとなっていて、なかなか通常のアンビエントを聴取するときのようにじっくりと腰を据えて対峙できないのが(誠に勝手なもの言いながら)痛い。だがしかし、実は、つまるところが、それだけのことでしかないのである。これはアンビエント度の高さの差なのである。どちらかというと「チェルノブイリ」の方が、だらだらと流しておくには少しばかり適していたというだけのことなのである。
「チェルノブイリ」のサントラには、全編に渡りぴりぴりと張り詰めるような異界の質感を思わせるただならぬ空気が流れている。それが緩むところはほとんどないので、だらだら流していてもサウンドの展開や構成にあまり気を取られずに聴いていられる。音響を構成する音の数もそれほど多くはない。そのためか、原発事故の大惨事を描いたドラマの内容に対応した独特の緊迫感もずっと持続する。鉄やコンクリートからなる構造物に反響するような冷たい物音や紛れもないノイズ、そして壮麗なコーラスなどが前面に打ち出てくることはあるが、楽器や楽音による大上段に構えた明らかなメロディの演奏らしきものはほとんどない。アンビエント音楽ではなくアンビエントであれば当たり前の話なのだが、全体的に音楽的な要素が極めて希薄であるところが、このサントラをとても質の高いアンビエント作品にしている。つまり、ヒルドゥール・グドナドッティルの「チェルノブイリ」は、アンビエント・サウンドとして上質であることによって、不穏でタイトでミニマルな(ポスト)モダン・クラシカルとしても、そしてもちろんドラマのサウンドトラックとしても、全面的に対応可能な極めて良質な作品となっているのである。現時点では、個人的にはヒルドゥール・グドナドッティルの代表作といえば、「ジョーカー」ではなく「チェルノブイリ」を推したい気分である。
20年の1月の末頃、ニンジャ・チューンがユーチューブでアンビエント専門チャンネルを開設し配信を開始した。これは、いわば二十四時間延々とアンビエントのみを流している、ニンジャ・チューンによって運営されるラジオ放送局のようなものであった。よくユーチューブでアンビエント漁りをしていたせいか、かなり放送開始まもない時期におすすめされたため、ほどなくして聴きにいってみた。だがしかし、いついってみても全世界で十数人ほどしか聴きにきていないとう、なんとも不思議なチャンネルであった。あらかじめプログラムされたアンビエント・オンリーな番組を、おそらく二十四時間単位で編成を組んでループして流しているだけであったと思うので、何度か聴きにいっているうちに、あれこのくだり前にも聞いたことがあるなという既聴感がどうしてもぽこぽこと感じられるようになってきてしまうようになった。アンビエントを聴く場合、先の展開が読めてしまったり先の構成がわかりきってしまうことほど邪魔になってくる感覚はない。五里霧中の先が全く読めない状態で今そこにあるサウンドのみに浸り切れることこそがアンビエントをしっかりと味わい満喫するにはとても重要な要素となるのである。ニンジャ・チューンのアンビエント専門チャンネルは、地球規模でアンビエント需要が高まっている時代であることを思えばコンセプトそのものは非常に素晴らしいものであったといえる。けれども、もうちょっとあらかじめセッティングされたプログラムの本数を増やして、よりヴァリエーション豊かにできていればランダムに流れる形式を整備してゆくことで、もっともっとよいものになっていたのではないかと思う。意識して聴いているかいないかのぎりぎりのところで聴取しているサウンドに、聴き覚えのあるピアノの旋律やヴォーカルが登場すると、どうしても興醒めしてしまったりする。すると、その時点で、それ以上は浸ることができなくなってしまったりするのである。
意識しているかいないかのぎりぎりのところでアンビエント・サウンドを聴取していると、時おり自分でも予想だにしていなかったようなことが起こる。通常は、だらだらとアンビエントを流していても、新たにブラウザでSNSの動画を見たりユーチューブを再生したりする際には、別々の音が混ざるのがとても気持ち悪いので、一旦アンビエントのほうを停止してから別のメディアに切り替えて見たり聴いたりする。しかし、静かなミニマルやドローン系のアンビエントを比較的小さめの音量で微かに流していたりすると、その音の存在が意識からすっぽり抜け落ちてしまっているのかそれを流していたことを何か別のことをするときに思い出さずに、そのまま新たに別の何かを再生してしまったりすることがある。そして、しばらくしてその再生して聴取したものが終了して、そのままもともともと行なっていた作業のほうにかまけていたりすると、どこからともなく何かの音が聴こえてきたり聴こえなくなったりが繰り返されたりするようになる。どこか遠くで何か音が鳴っているのかと思って、窓の外を見てみたり、部屋の中をあちこち見回してみても、よくわからない。それからまたしばらく経って、ふとした拍子にMP3のプレイヤーでアンビエントを流しっぱなしにしていたことにあっそうだとようやく気がついたりするのである。作業に行き詰まったり疲れも溜まってきてもはやこれまでとPCの電源を落とそうかなということになり、あれこれ作業用に広げていたものを片付けているときにあっとなってアンビエントが流しっぱなしであったことに気づくこともまあまあ多い。そんなとき、まさにアンビエントが、そこにあるものであるアンビエントにすっかりと溶け込み、周囲の環境と一体化した名実ともにアンビエントとなっていたことに軽い驚きを覚えたりもする。アンビエント、恐るべし。この年になって、あらためてアンビエントのすごさを思い知らされたり感動したりしていて誠にお恥ずかしいかぎりである。
11月4日、ニューヨーク・タイムズによるブライアン・イーノのインタヴュー記事が公開された。イーノがこれまでに映画の劇伴スコアやサントラ用に制作した数多くの音源の中から厳選された十七曲を収録したコンピレーション・アルバム「フィルム・ミュージック 1976-2020」のリリースに合わせたプロモーション用のインタヴューを記事したものであったが、こういうちょっとした特別な時期のインタヴューであるだけにイーノがどのようなことを発言するのか気になって、すかさずチェックしてみてしまった。するとどうだろう、最初の質問からしてこんな感じであった。新型コロナウィルスの感染拡大によるパンデミックが起こり、世界が深刻な不安に包まれる中で、とても多くの人々がアンビエント、つまりあなたの音楽を落ち着きを取り戻すために聴いているそうです。こうした事態に対して、どのようにお感じなられますか。なんていう質問がイーノに投げかけられているのである。ということは、要するにこの2020年に世界中で非常に多くの人々がブライアン・イーノやアンビエントを聴いているという事態が巻き起こっているということのようなのである。天下のニューヨーク・タイムズがいうのだから、その見解は概ね間違いないところなのであろう。新型コロナウィルスに対する不安が尽きない世界で、実はもうアンビエントは大流行していて、もはやアンビエントが流行の最先端に躍り出しているということなのではなかろうか。その割には、ニンジャ・チューンのアンビエント・チャンネルには、いつもいつもまったく人がいなかったのだけれど。それでもやはり、パンデミックが世界をアンビエント老人だらけにしたという現象は、あながち誇張でもなんでもないというような印象を抱かざるをえないものはある。個人的には、パンデミック以前から結構な割合でアンビエントばかりであったけれど。地球規模で危機の時代に突入している現在、いやがおうにも心の平安を求めてアンビエント需要が高まっきているのであろうということは容易に想像がつく(これは正確には心の平安を求めてニュー・エイジ系の嗜好に傾きかけた多くの人々が間違ってアンビエントに流れてきてしまっているという状況であるのかもしれない。端的にいえば、アンビエントと心の平安にはなんの関係もないはずだ)。それぐらいに新型コロナウィルスによる感染症の大流行という事態が、今年の春先から重々しく息詰まるような不安を膨れあがらせて、すっぽりと社会全体を覆ってしまっているのである。
昂った気持ちを落ち着かせ平静を取り戻すためにアンビエントは聴かれるものなのであろうか。そもそも何かのために、なんらかの結果を求めて、なんらかの得るものを求めて、アンビエントを聴くということが、果たして成り立ちうるものなのだろうか。アンビエントの音響に浸ることによって、気持ちが和らぎ、ゆったりと寛ぐことは可能であろう。しかし、それを聴くことによってそうなるのだろうか。ただの音でしかないのに人間の身体にどのように作用するのだろう。完全に気持ちが和らぎきって、心持ちが寛ぎきっているとき、その耳はちゃんとアンビエントを聴いているだろうか。空っぽになり、塞ぎ込んでいていたところに(和らぎや寛ぎと感じ取られる)空間ができ、耳にも何も聴こえなくなったとき、初めて人間の精神と肉体はアンビエントの音響の作用を自由に享受できるようになっているのだといえるのではないだろうか。
新型コロナウィルスの感染拡大による影響が日常に暗い影を落とし、先の見通せない不安な毎日が続く。そんなとき人類はブライアン・イーノを聴く。本当だろうか。アンビエントは、いつしかまるで精神安定剤のように、危機の時代にある人々の不安を取り除くための音として聴かれるようになっていたようである。アンビエントにそんな薬のような効能があったとは。聴くだけであなたの不安がすっきり解消されます。まるで怪しい薬の怪しい謳い文句である。まあブライアン・イーノという人は、少なからず怪しいところのある人だとは思ってはいたけれど、アンビエントを発明して高齢者に高額なサプリメントや健康食品を売りつけるような商売にまで手を出していたということか。いや、そんな仕事はわざわざブライアン・イーノがやらなくても、もうすでにサプリメントや健康食品のような音楽は山ほどあるではないか。そして、もはや高齢者じゃなくても、そんなものに対して日常的に対価の支払いを繰り返している。人類の大半の人たちがサブスクリプション・サーヴィスを通じて親しんでいるのは、大抵はそういう類の音楽であろう。
アンビエントが何に効くのか。それに何らかの効能があるのかなんて、どうしたらわかるのだろう。しかし、多くのアンビエント老人たちが世界中でそれを聴いている。ニューヨーク・タイムズがそういうのだから、きっとそうなのだろう。この青く輝く老人たちの惑星にアンビエントが静かに微かに鳴り響いている。なぜ、老人たちはアンビエントを聴くのか。それは、まるでサプリメントや健康食品のような音楽を聴くよりもアンビエントを流しておくほうが何倍もマシだからではないか。おそらくそれは、老人たちが今の流行の音楽に頭も身体もついてゆけなくなっているからだという声もきっとあるだろう。いやいや、もはやアンビエントのほうが流行の最先端であるようなのだから、そのような指摘はまったくあたらない。今や何を聴いても前にもこんなのあったよねと思わされることばかりである。しかし、アンビエントの場合は、そういうことはまったくない。裏返して言えば、どのアンビエントを流していても前にもこんなのあったかもと思わされないことはないのがアンビエントなのだから。早晩、そんなあれとこれがどうでこれがこうなんだというようなことはアンビエントに対してはまったく思わなくなってくるのである。ゆえに、サプリメントや健康食品のような音楽ばかり聴いていても、それはもはや効能うんぬんという以前にあれではないこれをわざわざ探し出して聴いているという時点でちょっとした暇つぶし程度にしか使えなくなっているということなのではなかろうか。そして、今のこの時代にそんな愛や恋のことばかりを歌う音楽を聴いていられるほどの暇や余裕があるというのも、ややどうかしていると思わざるをえない。そんな音楽的な頽落よりもアンビエントで深く暗い不安の底なしの渦中に放り出されるほうがよっぽどいい。その音響は無数なる世界への気づかいに大きく開かれているであろうから。
この不安に満ちた時代の片隅で、不安に押しつぶされそうになっている精神や不安な気持ち、あるいは不安に満たされてしまっている心に寄り添う音楽やサウンドが、とても切実に必要とされている。それは、精神安定剤のような音楽なのか、サプリメントや健康食品のようなサウンドなのか。気が紛れて、暇つぶしになるようなもの、ならば、何でもいいのか。そして、アンビエントをそうした類の音楽として聴こうとする耳というのは、そもそも不安でもなんでもないのではないでのはないか。アンビエントは、今ここにある不安のその先にある光にまで通じていて、今ここにある不安には一瞬たりともとどまらない。アンビエントは、あらゆるものに対応しないことによって、あらゆるものに対応することが可能になる。ブライアン・イーノのアンビエントが、空港にも映画にも美術館や博物館でのインスタレーションにも雑多な生活環境にも全方位的に対応可能となったのはそのためだ。よって、精神安定剤やサプリメントや健康食品であるかのように、ヒトの精神の解放や心的な高揚感にも寄り添いサポートする機能も果たすことがある。しかし、それは決してある特定の症状に効く薬のようなものではない。アンビエントとは、そうした一即多なるサウンド・音響のことをいう。
不安とは、可能性をともなう感情である。初めから可能性がないところには、不安は生じない。不安なる時というのは、それすなわち可能性がある時ということなのではないか。可能性に不安はつきものであるが、その可能性にはすべての不安が霧散し払拭されてしまう可能性すらも含有されている。あらゆる可能性に開かれているということは、それは偶然性の連続でもあるということである。偶然性の連続とは、思ってもいなかったことの連続であるが、それは今ここで不安に思っていることの連続ではない(偶然にその連続であることもある)。ゆえに、すべての不安を霧散させ払拭してしまうためには、あらゆる可能性を偶然性というものに対して大きく開いておくようにする必要がある。音楽に関していえば、偶然に聴こえてきて耳に入ってくるものに聴き入るということだろうか。聴きたいものだけを聴くのではなく、偶然性を聴くのである。アンビエントを聴くべき。アンビエントが聴かれるべき。というか、アンビエントは偶然に耳にする音(楽)でしかない。偶然にもそれが耳にされているところでは、多くの大いなる不安の影は払拭され、生きてゆくための希望の音響としてそれは流れることもあるだろう。かすかに。おだやかに。環境世界にとけこむように。いくらでも可能性はある。あとは、それを本当の意味で耳にすることができるかどうかだけだ。もうすでにアンビエントはいたるところに流れている。老人になろう。今ここで。ライト・ヒア。ライト・ナウ。ジーザス・ジョーンズ、懐かしいね。
ニューヨーク・タイムズによるインタヴューによれば、近ごろのブライアン・イーノは音楽制作作業を再開させる傍らで「必然主義」について考え、それにまつわる散文をしたためてもいるという。やはりアンビエントというものもまた突き詰めて考えてゆけば、不安な時代がどうのこうのというよりも偶然や必然の問題に帰結するということなのであろう。はたして、ブライアン・イーノは九鬼周造のことを知っているだろうか。新実在論のマルクス・ガブリエルも来日時に京都・法然院の九鬼の墓を訪れていることは、よく知られたエピソードである。しかし、ブライアン・イーノが九鬼を知り「偶然性の問題」を目にすることはまったく必然ではない。すべての可能性は偶然性に大きく開かれていて、それぞれの可能性が含有するひきつけ合う力によって偶然に交錯するだけだ。漂泊するアンビエント老人は何度も何度も偶然に出会うだろう。偶然に耳にするかすかな音に導かれて。わたしたちはそこで聴く、偶然のアンビエントを。何度でも。何度でも。それには始まりも終わりもない。

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