ゴミ箱の裏にパイナップル。そして雨。
当事者でない人も、言葉に出せばそれっぽく発信できる世の中。発信されて、読む人が読めば、ないことも事実になることがある。そして、本来の事実は霞む。勝手に他人の頭の中で知らない私のストーリーが立てられ、勝手に納得され、勝手に批判する。批判してスッキリ毒素が抜けたら記憶から消える。人間の脳みそってご都合良く出来てるんだよね。
一般人の頭に入ったテキトーな言葉や出来上がったストーリーを訂正するのは難しい。だって自分の考えを信じているのだから。だって当事者の言葉は嘘だと信じているのだから。
理解しようする人は、言葉と思想と偏見と感情の濁流の中で必死にもがいて手を伸ばそうとする。フラットに理解しようとする人は稀有で、だいたいは興味本位か、同調しようとしてるのか、謎の正義感か、様々だ。
興味が無くなれば、また別のコンテンツに目を向けて忘れてしまう。
対話しようとする人は、頼られる心地よさに酔いしれて、自身が思う正しさを信じ、これまた敵対思想と戦う姿勢をとる。フラットの大切さが分かってなくて、思いやりを履き違えてる人も多いよね。
相手の立場に立って考えたり、自分なら、とか加害者、被害者、その周り、集団、組織、いろんな立場の考えを俯瞰することがある。
だいたいは俯瞰して考えて、自分なりに咀嚼して、そこで終わることが多い。
だって、これまで読んでてわかると思うけど「言っても仕方ない」から。それじゃいけないって何度かお叱りの言葉ももらったけど、まぁ、なんというか、一生その人たちと関わるわけでもないし、言って聞かせて理解させても得るものないし、そんな人たちのために心身や時間を削るのって割に合わないなって思うわけ。
罵詈雑言を浴びせて批判したい人や文句言いたい人は自分のつまらない人生の憂さ晴らしをしたいだけの、本当につまらない人たちなんだと、そう思う。
誰にも相手にされないから大声をあげて騒いで注目されたいのかなってね。そういう人たちの人生を想像するとなんか虚しくなる。ごめんな俺はそっち側じゃないんや…。
なんか、そう割り切っちゃえば、何かと楽になる今日この頃。雨。なんでか、ゴミ箱の裏にパイナップル。
そのトゲトゲっぷりとコンクリの虚無感、ゴミ箱の裏という非日常感にそそられて撮った一枚。
おしまい。